(三)

 予想もしていなかった祖父の箴言。それはきっと、俺への形見分けだったんだろう。財産や相続に一切興味のない俺に何かを遺すなら、生身の自分を切り分けて渡すしかないと考えたんじゃないかな。


「夢の影……かあ」


 祖父の告白は重かったけど、しっかりと俺の心に刻まれた。頭上を輝きながら飛ぶ一匹の蝶。その蝶が消え失せない限り、自分がその蝶の影であることには気付かない。一生気付かず蝶を追い続けることが、実のところ一番幸せなのかもしれないなと思う。それが……たとえ夢に殉ずることになっても、ね。

 

 祖父の口から昔話が出たのは、後にも先にもその一回きりだった。その後も祖父の屋敷を何度かこっそり訪ねたけれど、祖父は当たり障りのない話しかしなくなった。それはそれで楽しかったから、俺は十分満足したけどね。祖父が俺の訪問をどう思っていたかを、確かめるすべもなかったし。


◇ ◇ ◇


 その後、俺は修復士としての技能向上を目指し、イタリアにある工房で三年間修行することにした。祖父はその間に癌を患い、長い闘病生活に入った。祖父の口からあらゆる治療を試みると聞かされて居たから、闇の中を飛び続ける蝶は消えていなかったと思う。

 しかし治療の効果は思うように上がらず、病状が徐々に悪化。やがて介護が必要になった。塞ぎ込んだ祖父は、医師と介護人以外の誰も屋敷に入れなくなった。俺は祖父の容体がずっと気になっていたものの、修行を中途で切り上げて帰国するわけにも行かず、時々直電するのが精一杯だった。


 そして。俺が修行を終えて帰国するのを待ちきれず、祖父は八十二年の生涯を自宅でひっそり終えた。臨終にすら、医師と飼い猫以外には立ち合わせなかったと弁護士に聞かされた。


 祖父の死をずっと待ち望んでいたかのように、縁者や会社関係者の間で激しい財産の分捕り合戦が行われたようだ。その亡者の中には俺の親父も入っている。もっとも、俺が相続を放棄した時点で親父とは絶縁状態になっている。残飯を漁るような行為が周囲からどう見えるか少しは考えろと言いたいが、面倒なことには関わりたくない。あとは好きにしてくれりゃいい。


◇ ◇ ◇


 祖父が他界して二年経った。まだ相続絡みの騒動が収まる気配はない。祖父の法事が執り行われるようだが、修羅場にわざわざ首を突っ込みたくないので、三回忌は自室でしんみり故人を偲ぶことにする。


「ふうっ」


 五号の小さなキャンバスの上を漆黒に塗り固め、隅に小さな青い蝶を描く。鮮やかなセルリアンブルーにアルミ片をまぜて、金属色の光沢を出す。見た目にはこれでもかと鮮やかな蝶だが、部屋の明かりを落とせば、それは闇に紛れる。自ら光ることはない。

 そう。鮮やかに光るのは蘇った絵だけさ。修復に携わった俺自身が光るってことはないんだ。祖父の言葉を借りれば、俺はあくまでも影なんだよ。


 確かに俺は、画家になるという夢を諦めた。でも、修復士は代用の夢じゃない。俺にとっては新たな夢。俺の先を飛び続ける蝶だ。その蝶が地に堕ちない限り、影としての俺は闇の中でも惑わずにどこまでも歩き続けることができる。祖父が警告していたような、つまらない人生には決してならないと信じている。でも俺みたいに考えるやつは、今や珍しいのかもしれない。


 消えた夢の影だけになって、真っ暗な地面をひたすらうろうろするだけの亡者の群れ。祖父の残したがらくたにハエのようにたかり続けている連中は、一体何が楽しくて亡者であり続けるのだろう。主のない影であり続けるのだろう。

 俺は……祖父の残した財産が巨大な罠のようにすら思えてしまう。主なき影に甘んじるやつは、影から一歩も出るな。ずっとそこにとどまっていろってね。


「モルー」


 祖父が遺した黒猫モルは、今俺の部屋に住み着いている。俺が呼べばすぐに飛んできて、膝の上で喉を鳴らす。モルの頭を撫でながら、描き上がった絵に向かって語りかけた。


「じいちゃん。こんなからっ下手な絵でごめんな。これが俺の献花代わりだ」



【 了 】

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