(二)

 安楽椅子の背もたれにすっかり背中を預けた祖父は、まるで懺悔をするかのように胸の前で手を組み、こつこつと昔話を始めた。過去を振り返るのが大嫌いな祖父らしくないなと思いつつも、俺は話に聞き入った。


「なあ、優。俺がなんで視力を失ったか知ってるか?」

「いや、知らない。じいちゃんが小さい頃失明したってことだけかな」

「先天性でないってことはわかってるんだな」

「うん」

「俺のは、事故による失明さ」

「事故? 知らなかった……。交通事故?」

「いや」


 祖父が、ふっと笑った。その笑顔は、よく祖父が見せる哄笑や嘲笑ではなく、まるで子供のような無邪気な笑顔だった。


「いや……恥ずかしい話だが、自爆なんだよ」

「自爆ぅ?」


 ぎょっとする。


「自爆……って」

「ああ、本当に爆弾の絡んだ厄介なやつじゃない。お前らがよく言うやつだよ」

「ああ、びっくりした。やっちまったーってやつね」

「そう。道に落ちていた犬のクソを踏んでこけたっていう類だよ」

「だはははっ!」


 にやっと笑った祖父は、サングラスの奥に隠されている目が本当は見えているかのように、俺に顔を向けた。


「事故って、どんな?」

「転んだんだ」

「え? じゃあ、さっきのはたとえってわけじゃないんだ」

「まあ……そうだな。こけた俺は、なぜこけたのかを恥ずかしくて誰にも言えなかったのさ」

「ふうん。転んだところに何かあって、目を傷つけちゃったってことかあ」

「ご明察」


 祖父は、一転して顔を曇らせた。


「それが……本当に俺だけのことで済むんだったら、俺の人生は全く別物になってたな」

「え? どういうこと?」

「俺は兄貴と遊びに行ってたのさ。近くの野っ原にね」

「ふうん」

「そこで」


 祖父がぐいっと体を起こす。組んでいた手をほどき、サングラスを外してシャツの胸ポケットにねじ込んだ。両手で顔を覆った祖父が、本当に懺悔を始めた。


「俺は大失敗をやらかしたんだよ」

「大失敗?」

「そう。俺と兄貴は見たことがない青い蝶が飛んでるのを見つけて、追いかけ回したんだ」

「へえー。青い蝶、かあ」

「田舎には虫なんざ腐るほどいる。ちょっとくらい変わっていたからって、一々追いかけやしないよ。でも、その蝶だけは別格だった」

「大きいの?」

「そうでもない。でも、自ら光る蝶だった」

「えええっ?」


 そんなのはあり得ないだろ。


「もちろん、そう見えたってだけで、実際にそんな蝶はいないはずだよ。蛍じゃないんだし」

「うん」

「だが……俺にはそう見えた。夢中で追いかけ回したんだ」

「……」


 ふっと小さな吐息を漏らして、祖父が安楽椅子に身を放り出した。


「野っ原には、草だけじゃなく潅木もいっぱい生えてたんだ。そして、ちょうどそれらの刈り払いが終わったばかりだった。上ばかり見て走り回っていた俺は、小さな切り株に足を取られてずっこけた」

「その時に?」

「そう、ささくれだっていた枝の切り端で、きれいに目を切っちまったんだ」

「うわ……」


 祖父の声のトーンが沈み込んだ。


「目の痛さ。何も見えなくなったショック。それ以前に、自分のしでかしたへまがどうにも恥ずかしくてね。兄貴が大慌てで俺を背負って家に連れ帰った時、親の詰問に答えられなかったんだよ」

「どうしてって、ところね」

「そう。蝶を追いかけて、足元を全く見てなかったなんてのは……な」

「うん」

「それが……俺が黙って何も言わなかったってことが。兄貴に跳ねちまったんだ」

「あ……」


 祖父が、両手で顔を覆う。こんな俺は見せられない。見せたくないというように。


「優しくて、面倒見のいい兄貴だったよ。でも、親の叱責はどじった俺にではなく、監督責任を果たせなかった兄貴にだけ全部降りかかった」

「そんな……あ」

「だろ? だが、自分の子供が不具者になってしまったという親の激しい怒りは、どこかに出口がないと解消しなかったんだろう」

「……」


 祖父に兄弟がいたということ自体、俺は知らなかった。ということは……。


「ねえ。じいちゃんの兄貴ってことは、俺にとっては大伯父だよね」

「ああ」

「そんな人がいるなんて、親父から聞いたことないけど」

「俺が失明して間も無く、死んだ」

「……」

「首を吊ったんだよ」


 じいちゃんは、そのあとしばらくじっと黙り込んだ。


「その時俺は」

「うん」

「二人分の夢を……背追い込んだのさ」


 じいちゃんの声は。いつの間にか通常のトーンに戻っていた。明朗でありながら、誰をも魅了することができないかさかさの乾いた声に。


「俺には……贖罪という意識はない。いくら死んだ兄貴に謝ったところで、兄貴が生き返るわけじゃないからな」

「うん」

「もちろん、親を責めるつもりもない。俺の失明と兄貴の自殺が重なって、結局両親とも心を病んじまった。まだ幼かった俺に、是非がわかるわけないだろ」

「そうだよね」

「それなら」


 体を起こした祖父が右腕を宙に真っ直ぐ伸ばし、そこに何かあるみたいに手を握った。


「俺が最後に見た輝く蝶が導く通りに、闇の中をひたすら歩くしかないのさ」

「それが、夢、かあ」

「そう。見果てぬ夢。俺と兄貴の、見果てぬ夢だ」


 伸ばしていた腕を引き戻し、再び胸の上で手を組んだ祖父は、短くぴっと口笛を鳴らした。その音を聞きつけた黒猫が、さっと祖父の膝の上に飛び上がった。

 猫の瞳が、祖父の目であるかのように俺をじっと見据える。


「現実の俺は、夢の中を飛ぶ蝶の影だよ。蝶が飛び続ける限り、影が地面に落ちる。蝶ある限り影は消えないんだ。だから俺は生きていける。兄貴の分までな」

「すげえ……」

「ははは。すごくはないさ。優の夢もそんなもんだよ。形のない夢に振り回され、自分はその影にすぎないと考えちまうと、人生はどこまでもつまらなくなる」

「うん」

「他のやつらのことは知らん。だが、おまえだけは。優は、そういうつまらない生き方をするなよ」


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