(三)
いつの間にか、太陽が真上に来ていた。これから永劫に続くように思える無数の日々のたった一日。その一日ですら、どうしようもなく苦痛に感じている僕がいる。
「誰がこんなくそったれなことを考えたんだ」
何百匹目かの蝶を描き終えた彼が、独り言をぶつぶつつぶやき始めた。
「そらあ、死にたくないっていう願望はわかるさ。俺だってそうだった。でも、それと未来永劫残り続けるってこととはイコールじゃない」
「ええ」
「意識と生命とは別ものだって考えた馬鹿野郎を、八つ裂きにしてやりたいね」
忌々しげに吐き捨てた彼が、勢いよく腕を空に差し上げた。その時彼が空から切り取った蝶は、羽が鋭く角張っていた。直線的な羽の描くラインが、刃のように鋭く光る。しかし。切り取られたはずの蝶は、瞬く間に空に埋もれた。
彼が再び蝶を切り出そうとする前。まだ空が全きうちに、思考を巡らせる。
捨てられる前なら、彼の言い分には決して頷かなかっただろう。維持に生命が必要な肉体から意識を切り離すことで、僕らは確かに生命の維持に必要な諸々の些事から解放されたんだ。肉体から機体に乗り換えることで、犯罪や戦争といったカタストロフだけでなく、格差や抑圧といった日常の中に組み込まれていた悪しき意識とも無縁になった。それは、誰もが望んでいたことのように思えた。もちろん僕も彼女も、意識だけを継続していく方式を歓迎した。
でも。捨てられてはじめてわかることがある。僕らは生命から離れたと同時に生殖からも離れたんだ。擬似的に性行為を再現して快感を味わっても、それは感覚以外の何も生まない。意識を機体に移す……すなわち、限りある生命に意識を伴わせるのではなく、意識を生命から切り離して持続させることを選んだ時点で、人類という生物種は新生しなくなり、あっけなく絶滅してしまった。
全てにおいて意識を保続することが第一義になり、進化も退化も考える意味がなくなった。僕らにライブラリとしての意味しかなくなったこと。その恐ろしさに気付けるのは、保続され続ける意識じゃなく、旧機種として捨てられる僕らだけなんだろう。
捨てられた僕は、もう中央の制御を外れている。だから、新しい記憶の積み上げが可能になっている。でも、記憶の改変が許されない方がずっとマシだ。だって、僕にこれから残されていくのは、覚えていたくないことばかりだろうから。
空に腕を突き上げ続ける彼から目をそらし、ゆっくりと草原を見渡した。儚いけれども輝かしい無数の生命が、一日の生を保とうとして必死にあがいている。風にそよぐ草も、その草を食む野うさぎも、空を飛び回る鳥も、その鳥に食われる虫たちも。生命の発生と消失がごく当然であるかのように、旺盛に動き回っている。
◇ ◇ ◇
「そういや、機体移行早々にメンテか」
「ああ。案内回ってたね」
「メンテ明けたら、すぐ食事にするか」
「どこで食べる?」
「機体更新記念だ。豪勢に、三つ星レストランでフルコースと行こうか」
「わあい!」
「旧機体だと、食事をするということ自体に意味がなかったから、そこんとこがどうにも味気なくてな」
「わたしがさっさと機体の乗り換え決めたのも、だからだもん」
「それだけじゃないだろ」
「ばれたか。あっちの方も旧機種だと全然乗らないしさあ」
「まあな。メンテ明けたら、がっつり楽しむことにしようぜ」
◇ ◇ ◇
「なあ」
「はい?」
無言で空から蝶を切り出し続けていた彼は、空ではなく僕を指差した。僕からも、蝶を切り出そうとするかのように。
「あんたに頼みがあるんだ」
「頼み……ですか」
「そう。俺らはもう捨てられたんだから、稼働している必要はないはずだ。実際、街にある同型機は全部停止していただろ?」
「ええ」
「新機種への移行が終わって捨てられた機体は、中央の制御から外れる。停止したところで誰も困らない。ただ俺らの機種は、絶対に自損しないよう自力では機体のシャットダウンができない仕様になってるんだよ」
「そうですよね。あっ!」
極めて長寿命であるはずの機体が、なぜ全部がらくたになっていたのか。その理由がわかった。
「誰かが……というか」
「そう。後から捨てられた者が、先に捨てられた者をオフにする。俺らが停止できるチャンスはそれしかないんだ」
僕に向けられていた指が、ゆっくりと頭上に上がっていく。
「蝶は十分作った。もういいだろ。これで終わりにしたい」
彼の作動を止めてしまえば、僕は一人になってしまう。全ては新機種のバーチャル空間の中に吸い込まれ、リアルなボディを稼働させているのは、僕だけになってしまう。世界に、僕一人きりで残される。また……捨てられてしまうのか。
どうしても彼のリクエストには応えたくなかった。でも、僕がそれを拒んだら。彼はもう二度と僕に口を利かなくなるだろう。意味のない蝶の切り出しを、ただ延々と繰り返すだけになるだろう。それは彼の死に等しい。動き続けていても、何の意味もないのだから。
「わかりました」
「すまんな。俺もあんたと同じ苦悩をこれまでずっと味わって来た。でも、あんたが最後の一体だ。あんたは、もう誰かの時を止める必要はない。次の機体が来るのを待つ必要もない」
天に差し伸べられた彼の指は。無限大の形にではなく、全てを否定するかのようにエックス形に引かれた。
「これで。全部終わりだ」
座ったまま四分の一だけ体をねじった彼の背が、頭上からの日差しを反射して目の前を銀白色に照らし出した。一瞬のためらい。でも、僕はゆっくりと緊急停止用の小さなレバーを倒した。
ぷつっ。
あっけないほど小さな音だけを残し。彼は二度と動かなくなった。僕も自分のレバーを探し当てて、倒してみようとした。でも。
それは……叶わなかった。
◇ ◇ ◇
『中央管理室です。メンテナンスの途中で、システムが異常終了いたしました。全てを初期化した上で、システムを再構築いたします。ユーザーのみなさまにご迷惑をおかけし、大変申し訳ありません。恐縮ですが、しばらくそのままでお待ちください』
◇ ◇ ◇
停止してうなだれている彼の頭の上にそっと手を置き、傾きかけた日差しに目を遣る。
彼は、いつか来るはずの僕をずっとあそこで待っていたんだろう。境界線から遠くに行けなかったのではなく、永続する意味のない機体を停めるチャンスを、蝶を切り出しながらひたすら待っていたんだ。
でも、僕にはそのチャンスはない。その代わり、彼のように誰かを待ち続ける必要もない。
僕は、この世界から捨てられた。全てがバーチャルの中に格納された世界に、僕の居場所はどこにもない。そして、僕はそこに戻りたいとも思わなくなっていた。
最新式の機体に移された僕の意識は、きっとこれから彼女と豪勢な食事をし、そのあと甘く長い夜を過ごすのだろう。もし、メンテが順調に明ければ。でも。実体を完全に失い、極度に集約化が進められた意識の塊は、アクシデントに遭うと跡形もなく消滅する。そこに僕が在った痕跡なんか、かけらも残らない。
消滅。それを……死と呼ぶのは違う気がする。僕は、決して死を望まないけれど、死によって失われるものを考える時間は欲しい。それこそが『換えがたい自分が存在する』意味だと思うんだ。
そうだよね。僕が世界から捨てられたのならば、僕も旧来の世界を捨てればいい。
いつしか辺りは漆黒の闇に包まれていた。わずかな光を感じて頭上に目を向けると、そこには今まで一度も見ようと思わなかった満天の星空が広がっていた。星のかすかな瞬きを感じながら、停止した彼の肩を抱く。
「ありがとう。僕は蝶を探しにいく。あんたが会いたいと言った輝く青い蝶を、どうしてもこの目で見たいんだ。これから南へ行くよ」
【 了 】
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