(三)

「だが、俺は絶対に復讐してやると誓ったんだ」

「首謀者に、ですか?」

「いや、あいつらはしょうもない阿呆だ。そんな連中を地獄に落とす意味はない」

「じゃあ、何に……」

「紙幣に、だよ」


 あ……。


「出来損ないを使われたんじゃ、俺の作品が浮かばれん。誰が手にしても絶対にばれない最高傑作を生み出してみせる!」


 顔を真っ赤にして拳を握りしめた永井さんが、怒りに満ちた視線を目の前の紙幣にぶつけた。


「出来た……んですか?」

「出来たさ。そこにあるやつよりもっと精巧だ。それこそ、鬼の一念岩をも通すだな。ただ……」

「ええ」

「俺は、そこでとんでもない思い違いに気付いちまった」

「思い違い?」

「そう」


 ジョッキに半分ほど残っていたビールを一気に煽った永井さんは、お代わりを持って来させようとした私を止めた。


「いい。俺はこれでいい。それより、話を聞いてくれ」

「あ、はい」


 思い違い、か。なんだろう。


「本当の最高傑作は、贋作じゃなく本物になっちまうってことさ」

「なるほど!」

「だろ? 本物に似せるということを突き詰めると、贋札はそのまま本物になる。最高傑作を作れば、そいつは一万円以上の価値を持ち得なくなるんだ」


 うーん、確かにそうだ。


「それが本物じゃないからこそ、贋札ってのは価値を持つ。一枚の贋札が本物以上の作品になる。俺は……芸術家としてのプライドが高すぎて、墓穴を掘っちまったんだよ」


 ふうっと大きな息をついた永井さんは、卓の上の諭吉さんに向かってぶつぶつと繰り言を押し付けた。


「俺の見当違いが、もう一つあった」

「まだあるんですか」

「そう。贋札事件が減ってることの一因は、そいつだと思う」


 それは、永井さん個人の事情じゃないってことか。私が理由を考える間もなく、永井さんがさっと種明かしをした。


「みんな、紙幣を使わなくなってんだよ」

「あっ!」


 思わず声が出た。


「つまり、一万円という金額の相対価値だけでなく、紙幣の重要性自体も低下してる。苦労して贋札を作る意味は、これからますますなくなっていく」

「確かにそうだ。昨今の金融犯罪は、電子マネーとかそっち系が主体ですね」

「だろ? そんな信用もへったくれもない幽霊みたいなもんに、よく大枚叩く気になるよな。バカか」


 吐き捨てられた声には芯がなく、ひどく弱々しく響いた。自らの尊厳をかけて贋札作りに没頭してきた永井さんは、立脚点を失ったってことか。


「俺の挑んでることは、いつの間にかガラパゴスになっちまった。で、はっと気付いたら、もうこんなじじいでよ」

「……」

「今となっては、こんな味気のない肴にしかならん」


◇ ◇ ◇


 飲み屋を出てホテルに戻った私は、自室で永井さんからもらった一枚の贋札をじっと見つめていた。


 永井さんが私に贋札の話を振ったこと。それは……偶然だろうか。いや、私のように見るからに冴えない、疲れ切った親父を標的にして、いつも罠を仕掛けてるんじゃないだろうか。

 いかに良く出来た贋札であっても、本物の代わりに使われない限りはただの紙切れに過ぎない。だが極めて精巧であれば、そいつを使ってみたい誘惑に駆られる。誘惑に負ければ、たちまちお縄だ。贋札の出所が永井さんなのはすぐに割れるから、罠と言っても死なば諸共……なんだろう。


 だが。贋札が出回って世の中を騒がせたという話は昨今とんと聞かない。それは贋札の出来には関係なく、たかだか一万円くらいで人生を棒に振るのは割に合わんと、誰もがそう考えるからだろう。永井さんが自嘲していたように、今は酒肴にしかならなくなっているんだ。

 酔っ払い相手に贋札の話を振るリスクは、聞き手の私たちにはなく、永井さんだけにあると言っていい。それでも、永井さんはあの話を酒の肴にすることを止めないだろうなと。私はそう思う。

 もちろん私は、どんなことがあってもこいつを使うつもりも人に見せるつもりもない。犯罪になるからではなく、その贋札は永井さんが精魂を込めた素晴らしい……いや違うな、凄まじい傑作だからだ。


 飲み屋を出る時に、永井さんがぽつんとこぼしたこと。その一言が、私の脳裏にじりりと焼き付いて離れない。


「今大量に流通してる諭吉さんは、ぴったり一万円の価値だ。それ以下にはならんが、それ以上にもならん。それなら、俺の人生の染み付いた贋札の方がずっと高価じゃないか……そういう思いが」

「ええ」

「どうしても拭い取れんのだ」


 紙幣は、存在価値が常に額面と等価で扱われる。永井さんがいつの間にか贋札作りの魔力に引きずり込まれたのは、価値も信用も平準化された紙幣の卑屈さに強烈な嫌悪と抵抗を覚えたからかもしれないなと、ふと思う。

 贋札によって人生を摩耗させてしまった永井さんは、その生き方を後悔しているだろうか。いや、永井さんがひどく嘆いていたのは本物の地盤沈下だ。精魂込めて作り上げた贋札が、本物に足を引っ張られて軽く見られてしまうこと。落胆しているとすれば、そこだろう。だから酒肴にしかならんと自分の人生を揶揄しながらも、永井さんが贋札作りを止めることは決してないと思う。それが、永井さんの存在意義を証明する唯一の手段だからな。


「ふうっ」


 思わず、我と我が身を省みる。いつも仕事にこき使われている私には、この贋札ほどの価値があるんだろうか。私を満たし、私を主張し、私であることを証明するものは、一体何だろうか。

 目の前の一枚の贋札は、どこまでも雄弁で示唆的だった。


「ああ、そうだ」


 永井さんは、極めて精緻に作られた贋札が自作だとわかるように、特殊なインクでサインを入れてあると言った。ブラックライトを当てると、そのサインが浮かび上がる、と。

 私は部屋の明かりを落とし、サイドテーブルの上に置いた贋札に百均で買ったブラックライトの光を当ててみた。


「うわっ!」


 そこにふわりと浮かび上がったのは、文字によるサインではなく、一匹の青い蝶だった。そいつは、本物の紙幣にはどこにもない艶かしさを惜しみなく振りまきながらするりと贋札を抜け出し。


 私が慌ててライトを消すと同時に……何処かへ翔び去った。



【 了 】

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