(二)
なんか……変だ。返そうと思った札を引き戻し、もう一度、穴が開くくらいじっくりと見回す。まさに拝む、だ。
それは、ほんのわずかな違和感に過ぎなかった。色、透かし、表面や折り目の触感等々。ぱっと見にはわからないなどというレベルではなく、実物と比べながら精査しない限り絶対に気付かない、極めて微細な差。だが、差は確かに感じられた。私が抱いたかすかな違和感は、やがて確信へと転じた。
永井さんが、私の顔を覗き込んで尋ねる。
「どうだい?」
「ええ。もしかして、これ……」
「そう。そいつは俺の作った贋札だよ」
先ほどから老人がずっとにやにや笑っていたこと。その中身。札の中に潜んでいた得体の知れない化け物が、一枚の紙片からずるずる這い出して来る。えもいわれぬ恐怖と違和感を覚え、私の酔いは一瞬にして消し飛んだ。
顔が引きつっている私を見て、永井さんがからっと突き放した。
「あんたが作ったわけでも、使ったわけでもないだろ。気にすんな」
「あの……いいんですか?」
「はっはあ。俺がこれからするのは、その話さ」
ごくりと唾を飲み込みたかったが、口の中が緊張で乾いてからからになっていた。
「酒のつまみにするはちいとばかり塩っ辛いかもしれんが、まあ聞いてくれ」
つらっと放り出した永井さんは、抑揚のない喋り方でいろいろな話を……散らかし始めた。
◇ ◇ ◇
「まず、一番肝心な話からしようか」
「はい」
「贋札作りってのは、絶対に割りに合わん」
「へえー」
どうしてだろう? 少しばかり酒でなまった頭脳では、自前の理屈がうまくつながらない。もし本物と見分けがつかない精巧な偽札が作れたら、そいつで大儲けできるような気がするんだけどな。
永井さんは、私の変顔を容赦なく嘲笑った。
「おいおい。ビジネスの基本だぜ。元手と利益のバランスを考えてみろ」
「う……」
いてて。まるで、仕事の失敗を上司に叱られているような心持ちになってしまう。ええと、コストは偽札をどのくらいの原価で作れるか、だよな。で、利益はコストを上回らなければ出ない、と。
「なるほど」
「だろ?」
「はい。私みたいなど素人が考えても無謀ですね」
「そう。ちょろっと小遣い稼ぐくらいならともかく、でかいアガリを得ようとするにはあまりに投資効率が悪いんだよ」
そのあと永井さんが理路整然と説明してくれたことは、私の想定とぴったり一致した。
確かに割に合わない。精緻な原版を作り、高価な印刷機と特殊なインクを買い揃え、本物の札に用いられている偽造防止技術をクリアし……。作る贋札のクオリティが本物に近ければ近いほど、かかるコストがどんどん増加していってしまう。大量生産のインフラが整っている日銀券に比べて、恐ろしく高価な札になってしまうんだ。
実際に贋札作りがとんでもなく高くつくからこそ、誰も贋札を作ろうとはしない。頭の悪いやつが、時々カラーコピーでおもちゃを作るくらいが関の山だ。すぐにバレるような贋札じゃ、捕まるリスクが高すぎてまるっきり割に合わない。だから、贋札に関わる事件がすごく少ないってことか。
「贋札防止技術ってのは、真偽を見分けやすくするためにあるんじゃない。本物に近づけるのにコストがかかり過ぎるようにする。そのためなんだよ」
「なるほどなあ」
私の納得顔を見て頷いた永井さんは、話を発展させていった。
「ただな。贋札を作る目的は、必ずしも自分が儲けるためだけじゃないんだ」
「え? どういうことですか?」
「紙幣ってのは、ただの紙切れさ。それ自身には何の価値もない。誰もが一定の価値を認める金銀とは、まるっきり性質が違う」
「ふむ……」
「たとえば、どこぞの国に豆粒みたいに小さい十円くらいの価値の金貨と一千億なんちゃらと印刷された高額紙幣があって、どちらかを選べるとする。あんたなら、どっちが欲しい?」
腕組みしてしばらく考えた。兌換でなければ、いくら高額紙幣でもただの紙だ。印刷されている額面なんざ他国では何の意味もない。どんなに豆粒サイズでも、それが純金であればどこの国でも売れる。
「そうか。やっぱり豆粒でも金貨に手が伸びちゃいますね」
「だろう? 紙幣ってのは一種の信用状なんだよ。その信用が下がれば、額面の価値は無くなっちまう」
永井さんが、卓の上に置かれていた贋札をつまんでひらひらと振った。
「つまり、俺には一銭の儲けにもならないが、この国の紙幣の信用を下げるという目的では贋札を作る意味があるんだよ」
「うわ」
ぞっと……した。
「日本でも過去に、国家の信用を下げるという目的での贋札事件があったという。その真偽はともかく、ありえない話じゃない」
「そうか。怖いですね」
「ああ。自分の手にしているものが本物か偽物かわからないってのは、強烈な
「わかります。何も信用できなくなりますね」
「実際に、紙幣の信用が完全に損なわれてしまった国もいっぱいあるんだ。はるか昔から今に至るまで、ずっとな」
立て板に水の調子で、笑みを浮かべながら楽しげに語っていた永井さんの声が急に小さくなった。何か自身の秘密を暴露するのかと思ったが、そんな感じではない。顔に明らかな失望が浮かび、肩が落ちていた。
「俺は……」
「はい」
「もともと版画家でな」
「おっ、すごいですね」
「版画っていっても、棟方志功とかそっち系じゃない。銅版画が俺の売りだったんだ」
「銅版画……ですか」
「そう。銅板の上を直接彫り込んで行く。恐ろしく精密な
永井さんの話がどのような方向に流れるのか。見えて来た。私が黙っていることに焦れて、永井さんが苛立ち混じりで話を続けた。
「俺の絵を見た同郷のワルが、贋札作りに俺を無理やり引きずりこんだんだよ」
「じゃあ……」
「俺は首謀者なんかじゃない。利用された側なのに、まだ出来損ないの習作を持ち出してサツに捕まったやつが、あることないことべらべらしゃべりやがって」
「とばっちりを……食ったんですか」
「そう。俺は脅されて作らされたんだと何度も訴えたが、俺の弁解は無視された」
「ひどいですね」
「しゃあない」
永井さんが、ゆっくりと顔を上げる。そこには諦念の代わりに執念が浮かんでいた。
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