第六曲 贋札
(一)
蝶は隠れていた。いや、巧妙に隠されていた。しかし、隠されていたことが信じられないほど神々しく青く輝き、私の眼前にふわりと舞い上がった。特殊な光を得なければ輝くことができない宿命でありながら、
◇ ◇ ◇
その日。
私は場末の飲み屋の片隅にいて、ひどく疲れていた。気軽に飲めるカウンター席が全部埋まっていて、押し出されるように隅の小上がりに座ったが、愚痴をこぼす相手がくたびれた座布団じゃ黙っている方がまだましだった。
目の前には、空になりかけている中ジョッキと焼き鳥が一皿。それらは腹を少しばかり満たしてくれるが、空虚感を埋める手助けはしてくれない。冷めてしまった油のくどさに辟易しながら、肉を無理やり口に押し込む。ビールげっぷと合戦した挙句に敗色濃厚になった油が逆流しそうになって、慌てて染みだらけの天井を見上げる。
「ぐっぷ……」
どんなに汚い天井でも、決して私に文句を言うことはない。あんた、いいやつだな……と、どうしようもなく投げやりな気分で薄笑いを一つくれてやる。
出張先で厄介な顧客と神経を擦り減らすやり取りを繰り返し、疲れ果てて宿に戻ればあとは寝るだけ。そんなくだらない日は、一日ぽっきりでもお釣りが来る。なのにそんなことを延々一週間も繰り返していれば、何もかも放り出したいという衝動にかられるのは道理だろう。
しかし。本当に何もかも放ってしまうと、その中に自分まで入ってしまう。いくら気分がひどくささくれていたとはいえ、自暴自棄が限界を超えないくらいの自制はまだ辛うじて効いていた。
疲れて気が滅入っている時には、おもしろいことや楽しいことを探そうとは絶対に思わない。もしそんなものを見つけてしまった日には、たった今自分を煩わせている全てのものを衝動的にぶん投げてしまいかねないからだ。つまらない行為だが、そのつまらなさが昼間の仕事の煩わしさを上回らない程度の気晴らしが欲しい。私が飲みに出たのは、その程度の理由だった。
出張先で宿泊していたビジネスホテルに一番近い飲み屋がそこであったというだけで、その店で飲むことにした理由は他に何もなかった。場所柄、私と同じような理由で飲みにくる親父たちが多いんだろう。一人飲みのくたびれたおっさんがずらりとカウンターを占領している姿は、まんま養鶏場。ただし、おっさんは卵を産まない。廃鶏への道をまっしぐらだ。そんな絶望的なケージにすら入れなかった私は、生きながらにしてすでに廃鶏か? 自虐が酒のつまみじゃ、どんな美酒を飲んだところで悪酔いするだけ。気晴らしになんかなりやしない。
「今日は、何をどうしてもだめだな」
酒が憂さ晴らしにならないなら、あとは寝てしまうしかない。だが、それはそれで悪夢の餌食になってしまうこと必定。現実が悪夢なんだから、それを下敷きにしている限りどこにいても悪夢しか見ようがないんだ。
なんともやり切れない気分で立ち上がろうとしたら、常連客らしい老人がのそっと近づいてきた。七十絡みだろうか。年の割に老いで崩れているという感じがしない。身だしなみは地味でおしゃれという印象は受けないが、だらしなさは微塵もなく、実にこぎれいだ。ほとんど白くなっている髪は短く刈り上げられ、とても清潔かつ理知的に見える。そして表情はにこやかだが、目が笑っていない。
変わったじいさんだな。そう思いながら、私は升席を老人に譲ろうとした。
「どうぞ」
「なんだ、もう帰るんかい」
老人が、少しがっかりしたような顔を見せた。彼の隙のなさが薄気味悪かった私は、人間くさいリアクションを見て心底ほっとする。
「ええ。明日も仕事なので」
「ああ、あんた、在の人じゃないんだな」
「出張で来てます」
「こっちはしんどいだろ」
老人の言葉で、すうっと気持ちが緩んだ。
そう。私が欲しかったのは、そういうちょっとした心配りだった。
出張先ではいつでもアウェイになる。ここに限ったことじゃない。だが、ここではそうしたアウェイ感、疎外感が半端じゃなかったんだ。都会から来たヨソモノが何を偉そうにという敵意を、情け容赦なく私にぶつけてくる。顧客だけでなく、誰も彼もが、だ。
私が被害妄想に陥っていると言われれば、確かにそうなのかもしれない。だが少なくともここに来てから、私の荒んだ心境に配慮してくれた人は誰もいなかった。事実として、誰もいなかった。
期せずして待ち望んでいた心配りが得られたことで、一度浮いた私の腰は、再びくたびれた座布団の上に戻った。
「あなたはこちらの方ですか?」
「いやあ。俺もよそもんさ。だが、俺は四方八方よそもんの方が居心地がいいんだ」
え?
「結局、誰も俺を容れようとはしないんだ。俺が何を言ってもしょせん他人事。その分俺は、気兼ねなく下世話な話をぶちかましやすいってことよ。はっはっは!」
人を寄せ付けない威圧感と、どこか親愛の情がにじむ言動。そのミスマッチが、どうにも奇妙だった。きょとんとしていた私を見て、老人が右手の人差し指をひょいと立てた。
「なあ、あんた。俺にビールを一杯おごってくれんか? 代わりに、とっておきの話を聞かせてやるよ」
ああ。この老人は、店に来るよそ者からそうやって飲み代をちょろまかして暮らしているんだろう。思わず苦笑してしまう。だが、誘いを蹴ってホテルに戻ったところで、虚しい気持ちを抱えてふて寝するだけだ。それなら、ビール一杯と引き換えに老人の話を聞いた方がずっと気晴らしになるだろう。そう割り切った私は、誘いを承けた。
「おもしろそうですね。おごらせてください」
「お! 話がわかるじゃないか」
相好を崩した老人は、俺の真向かいにどかっとあぐらをかくが早いか店員にビールを注文し、それをちびちびと舐め始めた。
「俺は、永井っていう。ここに来て数年になるかな」
「私は田中です。永井さんは、以前どこにおられたんですか?」
「東京だよ。亀戸にいた」
「へえー。下町ですね」
「ああ、あんたも東京かい」
「出身は違いますけどね」
「俺もだ。東京はあくまでも稼ぎ場だ」
似たような経歴だということを知って、親近感が湧いた。永井さんは、そのまま昔話を続けるのかなと思ったんだが。ふと、シャツの胸ポケットから一枚の折りたたまれた紙幣を出し、私の前に置いた。
「あれ? 話はもう終わりですか?」
にやっと笑った永井さんは、私の目の前で人差し指を二度ふいふいと振った。
「おもしろくなるのはこれからさ。その諭吉さんを開いて、じっくり拝んでくれないか」
真意がわからないまま、傷だらけの座卓に置かれた紙幣を取り上げる。四つ折りの紙幣。その折り目を指でのして広げ、ざっと眺めた。じっくり拝めと言われても、どこにでもある一万円札だ。すっとぼけた福沢諭吉の目が、私を見返している。あんたは、俺を手元に置くために要らん苦労をしてるよなあ……そんな侮蔑の混じった視線に感じる。それが不愉快で、どうしても渋面になってしまう。
「どうだい?」
「いや、紙幣の上の顔はどれも嫌いなんですが、諭吉さんは中でも一番嫌いで」
「わあっはっはっはあ!」
こんな楽しいことはないという風情で大笑した永井さんが、私の肩をばんばん叩いた。
「あんた、楽しい人だな。そらあ、ここじゃとても飼い切れんはずだ」
飼い切れない……か。さっき自分で例えた養鶏場のケージが浮かび上がって、なんとも情けなくなる。
おっとっと。俺は手にしていた諭吉さんを永井さんに返そうとして、急に違和感を覚えた。
「あれ?」
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