第四曲 オンザライン

(一)

 赤いリボンの上を飛ぶ。


 コンクリートの壁もない。有刺鉄線の柵もない。地上を自在にのたうつ毛むくじゃらのグリーンモンスターは、妙に優しげに俺を手招きする。


 小型ビジネスジェット機の一席。通路を挟んで反対側に座っていた佐々木が、こわごわ窓外を見下ろしている。ジェット機は貸切で、俺たち二人の他には正副の操縦士しか乗っていない。


「坂下さんも、景色を見ることがあるんですね」

「日本じゃこんな光景は見られんからね」

「確かになあ」


 眼下に広がっているのは熱帯雨林のビロードだ。俺と佐々木はつい先ほどまでその中にいて、あまり質のよくない顧客と商談を繰り広げていた。


 茫洋とした森林の中に、一筋刻まれた滑走路。その傷が木々の大波に飲み込まれてしまうように。俺という傷も、広大な時空間の中にすぐ隠されてしまう。地上では……ね。

 だが、ここ空中は全くの別世界だ。何もかもが俺の足下にある。たとえ支配者ガイアであっても、俺にはさっさと降りてこいと呼ばわることしかできない。その誘惑を振り切るように。小さなジェット機が、白い息を吐きながら赤いリボンの上を飛ぶ。


 視線を上げると、空はどこまでも深く青い。森林の影響圏では、蒸散で吐き出された水が白く凝って空の青を濁らせる。今見えている青が全く褪せていないのは、上昇を続けていた機が雲霧帯を抜けたからだろう。先ほどまで興味深げに窓下を眺めていた佐々木の表情は、視界が雲と空に占有されて単調になった途端に一変し、ひどく物憂げになっていた。


 本社もえげつないことをするよ。エリートコースをずっと歩んできた俊才を、いきなり最もハードな現場にぶちこむなんてね。まあ、いずれどこかで現実の洗礼を受けなければならない。商社マンてのは、綺麗事の世界とは最初から縁がないんだ。特に外資系はな。泥の中を這いずり回り、泥を食って生き延びる……そういう覚悟がないと、この世界では生きていけん。

 日本という小さな島国の常識を後生大事に持ち歩いても、日本以外ではほとんど役に立たないことが多い。あいつも、出先で早々に通過儀礼にぶち当たったということだ。佐々木が今回のことを消化できるかどうかわからんが、俺が先回りして佐々木をケアする義理はない。汚辱と無秩序の世界に慣れれば商売の腕を上げるし、それに辟易すればさっさと辞めるだろう。俺はそのどちらに誘導するつもりもない。


「あ……ふ」


 欠伸を噛み殺し、手元の洋雑誌を丸めて膝をぽんと叩く。その小さな刺激をスイッチに変えて、全ての官能基を一斉にオフにする。

 閉ざされていく視野の中で、空の青がぎちりと凝縮されてゆく。寄せ集められることに抗う青は、無造作に砕けながら飛沫を散らす。その青の破片に……輝く青が容赦無く飛び散る様にどこか見覚えがあるなと思いながら。俺の全ては、赤いリボンの上を粛々と運ばれていく。


 オンザライン。全ては線上にあるのだ。


◇ ◇ ◇


 結論から言おうか。今回の商談は契約には至らなかった。それは俺たちの営業努力が足らなかったからではない。交渉相手の資金力が俺たちの予想を大幅に下回っていた……それだけだ。

 もっとも、破談になったところで俺たちが大きなダメージを受けることはない。もっと大口で金離れのいい顧客は、ごまんと存在するからな。上客にはなりえない彼らにあえて接触したのは、これから販路を広げるためのきっかけがそこにあったからだ。それ以上でもそれ以下でもない。


 俺の意識は、密林での商談から離れて蒼空へ舞い上がっていく。だが俺の見る夢は、現実というラインから決して逸れることはない。夢の中では、顔どころか個性を一切有しないグレイの人型が、きびきびと動き回っている。それはある一定のルールに則った動きであり、外見上どんなに複雑な思考、行動であっても線上にある。そして線の色が赤でも青でも白でも黒でも、線はただの線に過ぎないのだ。

 俺はどこかの線上に居て、同じように線上でうごめいている諸々の事象をずっと眺めている。それらの発生と消失を、それらの動向を、そして無数の線が絡まることなく縦横無尽に張り巡らされていく様を、飽く事なくずっと眺めている。


 唯一それらの線に囚われない存在が、空の青だ。あらゆる線をすっぽりと覆い尽くしていながら、蒼空は決して線に拘束されることはない。青は無数の線によって無慈悲に切り刻まれながらも、線の支配に一切従うことなく自在に舞い散る。


 ああ、そうだ。思い出した。その様子が、まるで飛翔するモルフォチョウのようだと思ったんだ。熱帯雨林を無邪気に飾る青い宝玉。我々の目を射る輝かしい青の放射は、まるで自由を象徴しているように見える。しかし実際のところ、蝶の青は空の青ほど自由ではない。

 蝶がどれほど気高く青い存在であっても、それは生命体としての価値だ。生命体である以上、どこかの線上に置かれ、線上を歩み、線上で生を全うして果てる。結局、線の連環から逃れることはできないのだ。


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