(三)

 蝶は三日間翔び続けて砂の海を渡り切り、彼女のもとにたどり着いた。そこは、これまで蝶が空中から見下ろしてきた単調な砂漠の光景とは大きく異なっていた。


 崩れかけた岩塊のようなものが、規則性を保って並んでいる。それらは地形ではなく人工物。建物の跡だ。岩塊の合間に突き出している鉄柱の列が、かつての路面を無表情に指し示していた。そこは、河沿いに発達した町だったのだろう。

 全てが赤褐色に支配されていたこれまでの世界と異なり、町の跡にはそこかしこに色が遺っていた。蝶は人造物の赤や黄色の破片に幻惑され、吸い寄せられたが、それらはどれも砂や岩と変わらない乾き切った無機物に過ぎなかった。色は、水や花を示唆するものではなかったのだ。


 これまで越えてきた砂漠と同様に、町の跡にも生物の気配は全くなかった。ところどころに人骨が転がっている他には、生物の痕跡すら遺っていない。そんな廃墟にあって、なぜか彼女の放つ芳香だけは途絶えることがなかった。


 ぼろぼろになった羽をゆっくり振るった蝶は、高い鉄柱の先端まで翔ぶと、彼女がどこにいるかを探った。


 あれだ!

 遺構の一つから、蝶を惹きつける強い匂いが出ていた。


 それは大きな建造物ではなく、小さな洋館。屋根と上階が崩落していたが、ベースメントが辛うじて残っていた。損壊した壁面にひしゃげた青銅の板が打ち付けられていて。そこに『museu』の文字。博物館だったのだろう。

 蝶はそこが何かを知らなかったが、匂いは間違いなく建物内から出ている。崩れた瓦礫の隙間を縫うようにして、蝶が真っ暗な遺構内に入っていった。


 建物内にも砂礫が吹き込んでいたものの、彼女のいる部屋の損傷は軽微で、そこには密林内で採取されたと思われる動植物の標本が所狭しと並べられていた。そして彼女の匂いは、部屋の隅に置かれた標本箱の中から湧き出していた。

 標本箱には、胸に長いシルバーの杭を打たれた蝶の死骸がいくつも並んでいて。その一つが彼女だった。上階が崩壊した時に瓦礫が当たったのだろう。標本箱に嵌められているガラスにひびが入り、割れ目を通って匂いが漏れ出していたのだ。


 蝶は標本箱の上に留まり、丸めていた口器を伸ばして彼女にキスをしようとした。しかし。彼女は目の前にいるのに。そこから自分を呼び寄せた強い匂いが漂って来るのに。ガラスに阻まれた蝶は、どうしても彼女に触れることができなかった。

 ああ。想いを伝えることも、子孫を残すための交尾も果たせない。どうしても諦め切れない蝶は、標本箱のガラスの上をぐるぐると歩き回り、何度も羽を開閉して彼女の飛来を誘ったが、彼女が彼に微笑み返してくれることはなかった。


 蝶は。腹部の端をガラスの上に付けると、そこに己の精を残した。想いを伝えることは叶わなかったけれど。砂漠を翔び越して、彼女のもとにたどり着いた証を残すかのように。


◇ ◇ ◇


 彼女との逢瀬を果たせなかった蝶は、標本箱というひつぎの上に留まることなく廃墟の外に出た。他にもまだ、香水の匂いを漂わせている女がいるかもしれない、と。

 だが、水も花蜜も摂れないまま砂漠を越えてきた蝶には、すでに飛び続ける余力が残っていなかった。一度は瓦礫の陰に入り込んで涼を得たものの、すぐに羽を広げたまま動かなくなり、足を畳んで真下に落下した。


 一匹の蝶として生を受け、蝶として生き、蝶のまま死ぬ。それは……蝶がいかなる状況に置かれたとしてもきっと変わらなかっただろう。


 不規則にうろついていた風が、砂塵とともにすっかり軽くなってしまった蝶を吹き払い、高々と舞い上げた。

 すでに命を手放し、ただの物体となってしまった蝶のむくろ。しかし、その羽は生前と変わることなく強靭な白日光を金青色に転じて撒き散らし、真昼の青い星としてきらめき続けた。


 まるで生命そのものを燃して光るかのように、鮮やかに。


 ……ただ鮮やかに。



【 了 】

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る