(二)
バイオボックスを離れて宙に舞い上がった蝶は、果てしなくどこまでも続く砂漠の上を翔んだ。陽光の圧力に屈しそうになりながらも、それをきらきらと青く跳ね飛ばし、彼女を目指して真っ直ぐに。
蝶の見下ろしている世界は、彼の中に刻み込まれている本能としての記憶とはあまりにかけ離れていた。
母なるアマゾン。
尽きぬほど天から注がれ続ける豪雨。莫大な水を集め、全てを抱きかかえて潤そうとする縁のない大河。有り余る水を惜しみなく飲み込んで、はち切れんばかりに膨れ上がる緑の肉塊。密林に群れ集う莫大な生命と活力の
蝶には、それがなぜかを知る由もなかった。だが、己に残されている時間が極めて短いことだけはわかっていた。何かに突き動かされるようにして。蝶は砂漠の上を翔び続けた。
きらきら、きらきらと。
◇ ◇ ◇
しかし。ほどなくして、蝶は昼間飛ぶことを断念した。熱射を浴びて飛び続ければ、全ての水分を失ってすぐに息絶えてしまう。一刻も早く彼女のもとにたどり着きたいけれど、己が滅してしまうと想いは果たせなくなる。日差しを避けられる隠れ家を探さなくては。
蝶は巨大な丘陵の日陰に回り込み、谷底に散らかっていた大型動物の頭骨の中で熱風をやり過ごした。散在する骨片は飛砂で滑らかに磨き上げられ、鈍い光沢すら放っていたが、生命の痕跡は微塵も残っていなかった。そして光の届かない頭骨の中では、蝶も輝くことはできなかった。
荒涼とした赤い砂の世界は、時折吹き荒れる突風に煽られて気ままに崩れ、積み上がる。茫漠とした無観客の劇場で、ただひたすらに壮大な一人遊びを繰り返す。蝶の視界に入る動くものは唯それだけだった。
蝶は、今居る世界に花も緑も存在しないことを覚った。しかし、彼女の放つ芳香はまだ途絶えていない。彼の行動は、おぼろげな環境記憶よりも、強靭な繁殖本能に支配されていた。
彼女に惹かれて飛来するライバルが他にもいるはず。自分以外の者が先にたどり着いて想いを果たせば、自分の存在意義はなくなってしまう。早く、早く彼女が待つ場所に行かなくては!
か細いけれど絶えることのない甘い匂いの漂着が、彼を絶え間なく焦らし続けた。
死滅するリスクを避けようとする生存本能と、一刻も早く彼女のもとにたどり着きたいという衝動のせめぎ合いは日没まで続いた。
◇ ◇ ◇
日が傾き、何もかもを焼き尽くそうとする炎光が衰えた。大気の熱は潮が引くように失われ、すぐに冷気へと置き換わった。炎熱が過ぎ去れば飛べるはずだった蝶は、凍えて羽ばたけなくなっていた。
時折吹き荒れていた風が治り、砂塵が沈殿して澄んだ空が無数の星を散りばめ始めた。蝶は、頭骨の眼窩越しにそれを見上げた。星の光は明瞭だが、羽を青く光らせることはできない。それを嘆くかのように何度か羽を震わせた蝶は、頭骨の奥に移動し、そのまま静止した。
今は動けない。寒さが和らぐ明け方まで、じっと耐え凌ぐしかないのだ。
風が死んだ夜は無音の世界だった。もしそこに人がたった一人取り残されていたならば、のしかかるような静寂に耐え切れず狂ってしまうだろう。だが、蝶はそもそも音を聞くことができない。静寂だけが支配する闇の世界は、蝶にとって長い休息の時に過ぎなかった。
◇ ◇ ◇
明け方。谷筋をすっぽりと覆っていた冷気が日差しに追い散らされ、あっという間に気温が上がり始めた。炎暑を避けて飛べるのは明け方と夕暮れしかない。頭骨から出て何度か触覚を動かしていた蝶は、夜の間は途絶えていた微かな芳香を探り当てると、すぐに飛び立った。
砂塵で濁るまでの朝陽の
風が強まれば届く匂いが多くなる。しかし蝶は、強い向かい風に逆らって長距離飛ぶことはできない。時々高く舞い上がって匂いの出所を確かめ、あとは緩やかな谷底の窪を伝うようにして、蝶はひたすら飛び続けた。
蝶が道代わりにしていた緩やかな谷は、もとは大河の河道だった。密林から水が失われて行く過程で多くの動物たちが最期の水を求めて河に群がり、そこで息絶えた。無数の頭骨は、その残骸。全てが乾き切っている砂漠の中にあって、河道跡にだけはほんのわずか湿り気が残っていた。だからこそ蝶は飛行を続けることができたのだ。
炎暑の日中と冷気が支配する夜は河道跡に散乱している頭骨の中で休み、朝夕にだけ飛ぶ。蝶の美しい青羽は日差しの下で輝くことはなく、匂いの発生源に近付くためだけに振るわれ続けた。
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