第三曲 砂漠を翔ぶ

(一)

『種の保全に必要な個体数が極度に不足しています。速やかに個体補充を開始します』


 ディスプレイに短い警告文が表示され、わずかなバックライトの光が真っ暗だった箱の中を一瞬照らし出した。数十分後、小さな駆動音が暗黒に戻った箱の中を満たし始めた。


 が……がが……が……。


 長い間、暗黒だけで埋め尽くされていた小さな閉鎖空間。その支配者が、突然眩い陽光に代わった。


 砂礫が散乱しているだけの地面に突然一辺二メートルほどの方形が記され、その一端が持ち上がって扉のように開いた。扉の下に隠れていたのは、内壁に分厚く断熱材が敷き詰められている金属製の頑丈な箱。

 光に照らし出された箱の奥には様々な形と大きさの樹脂カプセルが所狭しと並べられていたが、ほとんど全てのカプセルはすでに開封され、空になっていた。


 未開封のまま一つだけ取り残されていた小さなカプセルが、箱の底からせり上がって排出用トレイに静置された。やがてカプセルの中央部分にぐるりと切れ目が入り、上半分がぱちんと音を立てて半分に折れ、中から一匹の青い蝶が現れた。


 永いうたた寝の後に目覚めた蝶は、残っていたカプセルの縁にとまってしばらくゆったり羽を上下させ、彼女の気配を探り当てようとして触覚を回した。すぐ消えてしまいそうなほど微かな、でも確かに漂ってくる甘い芳香。それを感知した蝶は直ちに箱から飛び出し、上空に舞い上がった。突き刺すような炎光を跳ね返し。きらきらと。青く青く。


 ごうっ。

 一陣の風が、開いていた箱の中に容赦なく砂礫を流し入れ、カプセルの残骸が散乱していた箱の中は、あっという間に砂礫で埋め尽くされて行った。動力を失った箱はその役割を終え、そのまま動かなくなった。


 肉食魚に食い散らされた二枚貝の死骸のように、砂漠のあちこちに開いたままの扉の上端が見え隠れしていた。先ほど開いた箱は、最後のバイオボックス。他の箱は、格納されていた全生物を放出し、すでに空になっていたのだ。


◇ ◇ ◇


 砂漠は、かつてアマゾンと呼ばれていた土地だった。莫大な水の循環を自ら作り出し、その水に支えられている広大な熱帯雨林がどこまでも続いていて。圧倒的な生産力と物質循環量ゆえに地球の肺と称えられ、生物の宝庫として唯一無二の存在感を誇り続けていた。


 しかし。その広大さゆえに人の介入をどこまでも拒むはずだったアマゾンの緑大海は、人口増加に伴う乱開発によってあっけなく壊れ始めた。

 多くの自然科学者たちは、アマゾンに棲まう生物の神秘を解き明かす過程で無秩序な環境破壊と生物多様性の激減に強い危機感を抱き、乱開発の悪影響に強く警鐘を鳴らすと共に、バイオボックスと名付けられた生態系維持システムの開発を急いだ。


 バイオボックスは、種の絶滅が危惧される動植物の個体を自動補充するという斬新なアイデアをもとに設計され、設計当時最先端の科学技術を駆使してシステム構築された。

 冷凍保存クリオプリザーブされた植物種子や動物をカプセル封入し、それらを立方体の大型断熱容器に格納する。

 密林内に半埋設される箱には、カプセルの他に温湿度や日射量、降雨量、大気ガス濃度などの各種環境因子をモニタリングする観測装置が組み込まれている。

 環境観測値と生物センシング結果をもとに近未来の生物の個体数変化が推計され、予測生息密度が基準を大幅に下回った場合、格納されていたカプセルの個体を解凍、蘇生し、該当エリアに放出する仕組みであった。


 バイオボックスは太陽光と熱差をエネルギー源として無補給、無給電で稼働するように設計され、生物カプセルの再補充以外は長期間メンテフリーで維持することが可能だった。


 試験地での試用試験を経て、百万個を越すバイオボックスが密林内に次々埋設された。個々のボックスが収集した環境データや生物個体補充状況は、マナウスにある中央センターに自動送信され、各地の生態系ステータスが大型コンピューターで広域解析された。その結果をもとに、アマゾン全域で優先的に維持されるべき生物が選定され、新たなカプセルが生産、補充されていった。


 広大な開発禁止区域……すなわち生物サンクチュアリの設定およびサンクチュアリ内へのバイオボックスの設置後、密林消失と総種数の減少に歯止めがかかった。バイオボックスの導入成果が実際に実証されたのだ。システムを構築した科学者たちは、人類と多くの生命体との共存共栄を可能にしたと称えられた。


 だが。バイオボックスの導入によって維持されていたはずの緑の大海は、今やどこまでも果てしなく続く赤褐色の荒野に変わり果てていた。


 なぜ? 核戦争の勃発? 巨大隕石の衝突? 異常気象の連鎖? いや、その理由を問うことには意味がない。冷酷な事実として、ヒトや大型の動植物だけではなく微生物にいたるまで、ほぼ全ての生命がアマゾンという呼称もろとも失われていた。

 あり余っていたはずの水を失い、極限まで乾き切った大地は、生命の大海から死の砂漠へと転じ、生物の再臨を頑なに拒み続けていた。


 ただ一匹バイオボックスで眠っていた蝶は、その地における最後の生命体だったのだ。

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