(三)

 沢伝いにじわじわと斜面を上がる。上り詰めたところで急にぽんと視界が開け、小さな沼……というより池の水面が日差しを鈍く跳ね返していた。


「ここが沼端じゃ。そいで……あれがその人の住まいのようじゃな」


 運転手さんが指差したところには、粗末な小屋がいくつも並んでいた。どれも素人が作ったということがすぐに分かる作りで、しかもいくつかはすでに倒壊していた。一番大きな小屋だけは作り込みが幾分しっかりしていて、住むに値するほどの広さもあるようだったが、傷みがひどいのは他と変わらない。壁板がかなり剥がれ、屋根板も一部崩落していた。ここは積雪地帯ではないようだが、年に一度でもまとまった雪が降れば放置家屋の損傷が一気に進む。建物の荒れようを見る限り、ここが人の手を離れたのは去年今年の話ではなさそうだ。それを裏付けるように、小屋の周りの数畝の田畑はたんまり雑草木を茂らせていて、耕作がしばらく前に放棄されたことを如実に示していた。


 当然のこと、どこからも人がいる気配は漂ってこない。私の懸念はどんどん膨らんでいく。


「離農されたんかな」


 お巡りさんは、人の姿が見えないことに半ば安堵したようだった。だが運転手さんは、私同様に最悪の事態を想定したらしい。


「なあ、お客さん。その人、あんたと同じくらいの年なんじゃろ?」

「そうです」

「なら、一通り確めんと」


 腰が引けているお巡りさんを置き去りにして、運転手さんが荒れ果てた小屋群にどんどん近付いていく。私も慌ててその後を追った。


 倒壊している小屋の中には踏み込めなかったが、そこに収納されていたのは燃料になる薪や農機具、山道具などで、最初から人が介在出来る空間がなかった。そして母屋らしい小屋にも、破れ板の隙間から覗いた限り人の気配は全くなかった。

 しかし。貯蔵庫や道具小屋と違い、母屋には予想以上に多くの生活感がそのまま放置されていた。座卓の上に乗ったままの食器。埃をかぶった眼鏡。並べられた靴と脱ぎ捨てられた足袋……。


 徐々に確認の精度を上げて小屋の中と周囲を何度か改めたが、潰れているか否かを問わず、どの小屋にも人のいる、もしくは人がいた形跡はなかった。


「小屋にはおらんな」

「小屋以外も確かめましょうか」

「そうじゃな」


 探索範囲を広げ、今度は小屋群の背後にある作業場といくつかの登り窯を確認して回った。作業場は無人だったが、一際大きな登り窯の崩れた入口の向こうに、何か。見たくはなかったが、きっとそうであろうと予想した何かが見えた。完全に白骨化したむくろ。彼は……窯の一番低い棚板に腰を下ろすようにして、すでに事切れていた。


 それが視界に入った瞬間。さっと帽子を脱いだ運転手さんが顔を伏せ、目を固く瞑って念仏を唱えた。お巡りさんは、あまりの衝撃で真っ青になっている。そして私は……。


 彼が胸に抱くようにして持っていたものに、視線が吸い寄せられていた。


 青の人。彼がその青に着せたもの、青になぞらえたものはなんだったんだろう。陶芸なぞ全く解さない私は、その青をなんと呼ぶのか知らない。だが、その色に全てが託されたかのように。椀の上に施された金属色の青が、どこまでも神々しく輝いていた。


 骸が抱えていた椀。それが、窯口ようこうから忍び込んだ風の振動でわずかに揺れて。地に落ちた。


 ぱりん。


 あっけなく。小さな音を残して椀は割れ砕け、跳ね上がった破片に一筋の光が当たって、さあっと青が立った。眼前に神々しく輝く青い蝶が舞い上がり、すぐに消えた。それは、ほんの一瞬の具現。


 ほむら


◇ ◇ ◇


 苦労して現場に連れていってくれた運転手さんに、お礼と迷惑料を合わせて運賃以上の謝礼を包んだが、運転手さんは頑として受け取ってくれなかった。それは、俺の分も合わせてあの人の線香代にしてくれと言われて。手向けをしつらえたところで、亡くなった彼にも私にも意味がないと思うんだが、運転手さんにとっては厄払いの気持ちの方が強いんだろう。

 後始末をしてくれることになったお巡りさんには、もし彼の縁者がいれば死去したことだけ伝えて欲しいと伝え、お巡りさんもそれを了承してくれた。だが、彼の年が年だ。独身で早くに世俗から離れていた彼には、私以外に残されている縁故はないと思う。


 数十年前に私にプログラムされていたやり切れない儀式を終え、複雑な感情を抱えたまま、駅までわざわざ送ってくれた運転手さんに重ねて礼を言った。


「須坂さん、本当にお世話になりました」

「とんだことじゃったな」

「ええ」

「なあ、お客さん。あの人、なんであんたを呼んだんじゃろ」

「分からないですね。ただ……」

「ああ」


 私は、青が褪せて薄くなり始めた空を見上げる。


「私は人嫌いと言っても、会社は最後まで勤め上げましたし、女房子供もおります。私の孤独嗜好は、所詮『好き嫌い』レベルなんでしょう」

「ふうん」

「彼も、山の中にこもるまでは私とそれほど違わなかったはず。だけど、独りを極めることで、失ったものより得たものの方がずっと多かったんじゃないかな」

「俺にはちっとも分からんわ」

「私にも分かりません。でも、彼が生涯青に託したもの。そして彼が肉体から解放されたあとで結晶させた青。それを、私にどうしても見せたかったのかもなあと」

「託したもの、か」

「ええ。孤独という色は自分では見えない。その色を誰かに認めてもらうには、どんなにわずかであっても接点が要る」

「じゃあ……」

「私は、同じクラスだった彼と仲良くした覚えはありません。私にも彼にも友達が誰もいなかった。そして、私も彼もそれが欲しいとは思わなかった。そこが共通点で、だからこそ彼は私を接点に選んだんじゃないかな」

「……」

「私には、彼の孤独が輝かしい青に見えました。神々しいほど美しい青。でもその青は、彼に意味があっても私には意味がない。私は彼に同調も反発も出来ません。そこがどうにも……」

「ああ、俺もじゃ」


 大きな溜息を今一度灰色の路面に転がし、その向こうにあの青いほむらを思い浮かべた。


「私は、ただ。彼の青は美しいなと……思うだけです」



【 了 】


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