(二)

 小さな町だ。建物の数が減ったと思う間もなく、建物自体が車窓から消え失せた。車はどんどん人の気配を振り切り、緑の塊の中に潜り込んでいく。山道は細ると同時に著しく荒れ始め、車の速度も歩くよりはいくらかましというのろのろに変わった。その速度に苛立つようにして、運転手さんが無遠慮に突っ込んできた。


「お客さん、倉坂なんてぇ人のおらんとこに何の用じゃ?」


 非難混じりの強い口調に思わず苦笑する。無理もない。手入れされていない林道は、路面のあちこちが洗脱で鋭くえぐれ、タイヤをわだちに取られないようにするのが一苦労のようだった。


「ああ、私の友人がその近くの山中に住んでるんですよ」

「えええっ?」


 運転手さんが突然がつんとブレーキを踏み、私はひどくつんのめった。


「おっとっと」

「ああ、済まんね。それえ本当かい?」

「運転手さんは、この近くにお住まいだったんですか?」

「前はな。俺のいた地区は倉坂のもっと先じゃ。ずいぶん昔にみんな引き上げてもうたから、俺もこっちは久しぶりじゃ。ほじゃけど……」

「ええ」

「ここいらへんにまだ誰かが住んどるなんてえ話は、聞いたことないけぇ」


 私は、前に倒していた体を反らせて後部座席のシートに背中を預けた。それから、大きく一つ息を吐き出した。


「ふうううっ」


 やはりか。予想通りとは言え、こうやって事実を目の前に突きつけられるとなんともやり切れない。だが、ここまで来て再会の目的を果たさず引き返すことに、ひどく罪悪感を覚えたのも事実だった。


 先ほどまでの激しい揺れが収まった車内。かすかなエンジン音だけが言葉の代わりに空間を満たしている。その沈黙を愛する者、嫌う者……それぞれにいるのだろう。私は元来前者の方だった。そして『彼』もそうだったんだよな。


 折り鞄から一葉の葉書を出して、それを運転手さんに見せる。


「なんじゃ?」

「友人の家がどこにあるかは、これから探るしかないもので」


 私から葉書を受け取った運転手さんは、眼鏡を外してそれを遠目に見ると、顔をしかめてうなった。


「うーん、沼端けえ。こらあ、倉坂よりずっと手前じゃ。もう、ここから歩いて行けるとこじゃ」

「ええっ? そうなんですか?」

「でもなあ……」


 葉書を返してくれた運転手さんが、私ではなく林道の先をにらみながら、改めてうなった。


「うーん、それで、か」

「なにか?」

「いや、沼端ってえとこは、山ン中ではあるんじゃが、隠し田のある小さな平地ひらちでな。俺ンとこの集落にいた合田あいだってえじいさんが、そこの田畑でんぱた持ってたんじゃ」

「ええ」

「合田のじいさんが村ぁ離れる時、あすこをどうしたんかなあと思ってたんじゃ」

「じゃあ、彼がそこを買い取ったということか」

「そうなんじゃろ。けんど、あすこは通い畑じゃ。人が住めるようなとこじゃねえで」


 私がどうしようか逡巡していたら、事態を重く見たらしい運転手さんがくるりと振り返った。


「なあ、お客さん」

「はい」

「そのお友だち。生きとるじゃろか」

「ええ。私もそれが心配で」

「葉書の消印はもう何年も前のじゃろ? 安否を確かめんかったんかい」


 ああ。それは、普通の人にとっては当たり前の非難。だが、それは私にも彼にも意味がない。それをどう説明しても理解してはもらえないだろう。仕方なく、咎めるような視線を苦笑で押し返す。


「彼が本当に友人なら、きっともう少し行き来があったんでしょう。でも、私は彼に負けず劣らずの人嫌いで、しかも出不精でね。友人と言ったのは、その方が怪しまれないから。正直に言うと、高校卒業後は一度も会ったことがありません」

「はあ?」

「彼から来る葉書にも、返事を書いたことはないんですよ。彼がいつも一方的に送りつけてくるだけでね」

「えええっ?」


 運転手さんが、仰け反って驚いている。私は、さっきの葉書を裏返してみせる。真っ白。何も書かれていない。


「こういう葉書を寄越されたら、普通返事はしないでしょう?」

「なんじゃそりゃあ」


 どうしようもなく呆れた風の運転手さんだったが、私も運転手さんも意識がすぐに現実に戻った。


「ほんなら、なんでまたここに来ようと思ったんじゃ?」

「自分でも分からないんですよ。なぜか、そうしないといけないような気がした……としか言いようがないです」


 とんでもなく難しい顔になってしまった運転手さんは、エンジンをかけ直すと狭い退避帯で車をなんとか反転させ、賃走の表示を消した。


「お客さん。あんたが、嘘やはったりでそがいなことぉ言ってるようには見えん。ほんならちゃんと駐在さんに話して、安否ぃ調べてもらった方がいいじゃろ?」

「そうですね……」

「駐在さんとこには四駆がある。乗りかかった舟じゃ。俺も付き合うけえ、ちゃんとけりぃつけようや」

「助かります」

「ああ」


◇ ◇ ◇


 麓の集落にある駐在所に駆け込んだ運転手さんと私は、まだ若いお巡りさんに詳しく事情を話し、現地への付き添いを要請した。郡部の場合、犯罪自体は都市部よりずっと少ないものの、認知症絡みの事故や行方不明事件は決して珍しくないらしく、もちろん喜んでではないものの一緒に出向いてくれることになった。


 初秋の山の中を、先ほどよりはずっと軽快に四駆車が走る。


「津野さん、すまんの。手間ぁかけさして」

「いえ。でも、そんな山の中じゃ独り暮らし出来ないと思うんだけどなあ。お年もお年だし。車をお持ちじゃないんですよね?」

「たぶん……」

「じゃあ、もう離村されたんじゃないかな」

「だといいんですが」

「分からないってことですか?」

「分からないです。というか、これまでも彼がどのように過ごしてきたのか、私には一切分からないんですよ」

「変わって……ますね」


 お巡りさんの口調に、疑いのトーンが強く混じった。人の中に自分を置く。それを苦痛に思わない市井の人々にとっては、私も彼もひどく異端ということになるんだろう。その異端視に屈して社会との接点を探る人もいれば、彼のように徹底して接点を小さくしようとする者もいる。それは是非じゃない。そういう者が存在するという事実があるに過ぎない。


 十五分ほど林道を走った車は、運転手さんが車を切り返した地点より少し手前で止まった。


「ここですか? 須坂さん」


 お巡りさんが、恐々暗い木立の中を見通す。


「そうじゃ。あとは沢伝いに上り切るだけじゃけん、なんぼもかからん」

「意外に近かったんですね」


 私がお巡りさんと同じように林内を見回すと、運転手さんがぼそっと答えた。


「車ならな」


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