第二曲 炎

(一)

 私がなぜ彼のもとを訪ねようと思い立ったのか、今となってはもう分からない。


 彼とは決して昵懇じっこんの仲などではない。なにせ同じクラスだった遠い昔にそれぞれの道に別れて以来、一度も会ってなかったからな。だが一つだけ私が、そしておそらく私だけが気付いていたことがあり、そいつが長い年月を経てふと目前に浮かび上がって私を急かした。それは、衝動でも必然でも虫の知らせでもない。私にプログラムされている本能の、静かな起動だったように思える。


 私は生まれつき人付き合いが苦手で、霞を食って生きていられるなら自室に死ぬまでこもっていたいタイプだ。外界を出歩く積極性なんざ、かき集めても耳かき一杯にもならない。

 高校を卒業してすぐ親父の経営する会社に入ったのも、社内にいれば外に出なくても済むから。そのまま引退まで隠れ魚を決め込み、私の息子たちに身代を任せて年金暮らしになってからは人嫌いゆえの出不精がますますひどくなった。七十を過ぎた今は、ほとんど似非えせ仙人と化している。妻に、あなたは本当の意味での隠居ねと揶揄されても、それが私というものだからしょうがない。

 そのとてつもなく尻の重い私が一度も行ったことのない山奥に一人で分け入ると宣言したことで、妻は絶句していた。まあ私も、決断した自分自身に絶句していたけどね。


 しかし手際よく段取りをこなす妻と違って、元々旅行や出張が大嫌いだった私には、誰かを訪ねる準備をするのが死ぬほど億劫だった。いや、旅装を整えるのは妻がやってくれるので大したことじゃない。

 厄介なのは、彼の在所と暮らし向きがよく分からないことだった。その手掛かりになるのは彼が気まぐれにかつ一方的に送りつけて来た数葉の葉書だけで、しかも最後の葉書が届いてからすでに数年以上経っている。葉書に記されている住所の真偽すら確かめずに出かけるのは、さすがに無謀だろう。尋ね当てられずにすごすご引き返すことになったら、元々乏しい金と気力の無駄使いに終わる。いかに私が面倒臭がりでも下調べせざるを得なかった。


 まず、葉書に書かれていた住所がでたらめではなく、実在することを確認した。ただ……それは間違いなく都市ではなく郡部で、かつ山中だった。まあ、書かれている住所が嘘っぱちでなければ、現地にはたどり着けるだろう。

 あとは、彼がそこで何をやっているかを知っておきたかった。その手掛かりも葉書にあった。彼が四十を越すまで、葉書に書かれていた住所は都内某所だった。それが突然広島に変わり、時を同じくして名前が雅号になった。篠路しのじ青架せいか……か。私は彼が雅号を使うような身分であることに強い違和感を覚えたが、転居し雅号を使うということは何か芸術系のことを始めたということなんだろう。雅号を書き控えて近在の美術商を訪ね、篠路青架という名の芸術家が実在するかどうかを聞いてみた。


「ああ、青架さんね。青の人、だな」


 陶芸家にその雅号を持つ男がいるということが分かった。ただ、彼は決して大家などではなく、作品数もプロとしては極めて少ないらしい。美術商の男が青の人と呼んだのは作品のクオリティゆえではなく、彼が青釉あおゆうしか使わないことに由来していた。


 彼の在所と仕事が明らかになったことで、私が出発する用意は整った。だが、私はもう一つだけ確かめたいことがあり、彼の作品を扱っていた美術商を探し当てて、彼の近況を尋ねた。


「さあ。青架さんが最後に作品を送ってきたのは、もう数年前になります。それ以降は何も……」

「あなたは、彼の窯を訪ねたことがあるんですか?」

「いいえ。彼は徹底した人嫌いでね。ここへ来ることは一度もなかったし、私どもが窯を尋ねることも許してくれませんでしたから。作品はいつも郵送されてきました」


 やっぱりか。それを聞いて、この度の訪問は別の意味で徒労に終わるだろうと確信したが、私の足が止まることはなかった。


 それがなぜかは……分からない。


◇ ◇ ◇


「うーん。やっぱり、もっと備えてから来るべきだったか」


 彼の家から最も近い町にたどり着いたまでは良かったが、そこでとんでもなくでかい難題にぶち当たった。駅前から、彼のいる山中にどうアプローチするかってこと。私が自ら車のハンドルを握って赴くのが一番確実なんだが、免許を取る時にしか運転したことがない弩級のペーパードライバーの上に、しっかり高齢だ。レンタカー屋の店員に止められるまでもなく、私自身とても未知の山道を乗り切れるとは思えなかった。そうしたら、否応無しにタクシーを使うしかない。


 だが、駅前でタクシーを拾うという都市での感覚は、郡部では通用しなかった。タクシーの確保が思うように行かなかったのだ。タクシーは電話で呼ばないと来てくれず、しかも行き先を告げた途端にそこには行けないと断られてしまう。無理もない。行き先が廃村だったからな。いかに人を運ぶ商売と言っても、全くの部外者である私が地元の人すら近付かない廃村に行くというだけで意図を勘ぐられる。それ以上に、道路の状況が分からないことが難だった。どんな遠隔地でも、道が整ってさえいれば金次第で私を乗せてくれる運転手はいるだろう。だが、人が住まなくなれば道は荒れる。その荒れ具合が分からなければ、運転手が尻込みするのは当然だろう。


 何度か交渉失敗を繰り返し、さすがに知恵がついた。個人タクシーの運転手に直接頼み込んだ方が、まだ脈があるだろうと。幸いにも目的地に一番近い地区に住む運転手が、渋々承諾してくれた。ただし、道の荒れ方がひどい場合は行けるところまでにしてくれという条件付きで。それは仕方ない。


 駅前に到着したのは、私よりもっと年寄りのしわくちゃじいさんで、車も見事にくたびれ果てていた。正直、彼とその車に自分の命運をかける心境にはなれなかったが、かと言ってもういいやと引き返すのはもっと嫌だった。ばたりと腹を開いたタクシーの後部座席に滑り込んで、頭を下げる。


「無理を言ってすみませんね」

「はあ……まあ商売じゃからな」


 ぶっきらぼうに答えた運転手さんが、半ば諦め顔で料金メーターのパネルをぽちぽちと操作し、すぐに車を出した。


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