(三)

 博物館の作業室らしい部屋を出て、再び螺旋階段を降りた。


 降りた。

 間違いない。降りた。


 来た時にも降りてるんだよ。博物館の入り口ドアに戻るには階段を上らないとならないはず。だが、私は降りた。


 そして、あの部屋に行く時と同じように降りる途中で一度ステップを踏み外し、身体がふわっと浮く同じ感覚を再度味わってから。ごつい扉の前にたどり着いた。


「ふうっ……」


 それを押し開けて外に出れば、私が心から愛していて、同時にもっとも嫌っている、退屈で変わらない日常ってやつが戻ってきちまうんだろう。だが一瞬の躊躇ののち、扉を開けて外に出た。

 後ろ手に扉を閉めて、洋館の看板を確かめる。どんな博物館なのかが何も記されていない、あまりに味気ない『museu』という看板。それを至近でじっくりと見て、確信した。


「ああ、そうか。こいつぁ……ブラジルの穴、だ」


◇ ◇ ◇


 夢遊病者のようにふらふらとアパートに帰り、しばらく床に転がっていた。青い悪夢が私を容赦なくさいなむ。


 私の意味なんざ、あのちっぽけな蝶の輝きの足元にも及ばない。死してなお輝き続ける蝶の圧倒的存在感を眼前に突きつけられ、無為な肉塊のままのうのうとこれまで生き延びてきた己の卑小さをえぐり出されて。私は、木っ端微塵に砕けそうになっていた。


 作業室で描き続けた無数のモルフォのうち、たった一つでもその輝きと存在感を再現出来ていたら。そいつが襲い掛かってきて、私を欠片かけらも残さず食い尽くしていたに違いない。だが……。


「……」


 床から身体を起こしてスケッチブックを広げた私は、どこまでも広がる白紙の海を見て、安堵と絶望を同時に味わった。


「私の腕じゃあ……全然足りないって。ことだな」


 最後の最後。男に声をかけられて、ほんの描き始めだけで切り上げた最後のスケッチ。青い羽の欠片。そのわずかな青だけが、辛うじて残っていて。それが、私を奈落の底に突き落とした。


 唯一無二の存在として、魂の移譲をどこまでも拒否する。唯の物体となったはずの蝶が、私の関与や介入を徹底的に拒む。

 モルフォの魔力。その力に屈すれば、私は私を表現する全ての手段を否定されることになる。


 生まれて初めて、負けたくないと思った。くたばった後に何一つ残せない自分が、どうしようもなく情けないと思った。輝くのは誰のためでもない。己自身のためだ。それをこれ以上退屈で汚したくない!


「まあ。出来ることからやろう。何はともあれ、青鉛筆の補充からだな」


 バッグの中から出した、ちびた青鉛筆。私は穢れたものを振り払うようにして、そいつをゴミ箱に叩きつけた。


◇ ◇ ◇


 あれから。


 モルフォを生涯メインモチーフにすると決めた私は、これまでにないハイペースで絵を描き始めた。もし、たった一匹でも蝶を絵に封じ込めたと実感出来れば、その時点で筆を折ろうと思っている。だが、そんな瞬間は私がくたばるまで来そうにない。そしてモルフォを追いかけている間は、退屈という病いが襲いかかることはないだろう。もう二度と。


 ブラジルに繋がっていた奇妙な洋館は、いつの間にか無くなっていた。それが建っていた空間すら見出せなかったから、どこにどんな風に現れるか分からない蜃気楼のようなものなのかもしれない。


 展示物や写真集でモルフォの絵姿をいろいろ見比べたが、そのどれ一つとして私の魂に再びの矢を突き立てるものはなかった。私の魂を突き通す魔力を持っていたのは、展翅板の上のあの一匹だけだったんだろう。


「徳さん、出かけるのかい?」


 隣室のばあさんが、部屋を出る私の気配を察してひょいと顔を出した。


「絵の具がなくなったんでね。買ってくる」

「へえー。やる気になったんかい」

「まあね。描きたいもの……いや、違うな。描かなきゃいけないもんを見つけたからね」

「絵描きなら、それが当たり前なんだろさ」

「そうでもないよ」

「ふうん」

「描いてるんじゃなく、描かされてるやつは多いと思うよ。私もそうだったし」

「まあ、なんでもいいけど、好きなことに没頭出来るんだ。いいことじゃないか」

「好きなこと……か」

「違うのかい?」

「違うね。好きだって言ってる間は、永遠に何一つ描き切れない」


 スケッチブックから逃れた蝶の行方を追うように、蒼天を見上げた。上空からは、容赦なく青い光矢が降り注いでくる。それをかざした手でどうにか遮って、声を絞り出す。


「好きなやつは、そういう絵を描けばいいさ。私のは……命がけだよ」



【 了 】

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