(二)

「ほう」


 螺旋階段は、そっけない作りではあったが独特の雰囲気を醸し出していた。壁もステップも手すりも全て木製で、隅々まで磨き込まれており、壁にはめ込まれた水滴型の電球が橙赤色の頼りない明かりをふわりふわりと足元に投げかけている。

 ぐるりを見渡しながらゆっくりステップを降りていたんだが、すぐに階下に降りられると思っていたのに階段が妙に長い。


「えらい変わった作りだな」


 よそ見をしながら歩いていたので、ステップを一段踏み外し、少しだけ飛び降りる形になった。


「おっと」


 その時に。エレベーターが降下する時のような無重力感が、ほんの少しだけ私の体を浮かせた。


「な、なんだあ?」


 それは、ほんの一瞬のこと。私の足裏が下のステップを捉えると同時に、階下にあった部屋のドアが見えた。長い階段の底に入り口、か。

 階段を下り切ってドアの前に立ったところで、思わず首を傾げた。


「なんだなんだ、こりゃあ。イメージがばらばらだよ」


 洋館は小洒落た作りで、時代感を漂わせる感じではなかった。だが、木製の螺旋階段はとても古めかしい。そして、今私が見つめている階下の部屋のドアは、どこかのオフィスのような味気ないもの。ドアの上の灯りも、螺旋階段に据え付けられていた雰囲気のある白熱灯ではなく、くたびれた蛍光灯だ。


「どうにも妙ちきりんな博物館だなあ」


 いや、そこが本当に博物館かどうかも分からない。自分の見立てに自信がなくなってきた。だが、出不精で好奇心の枯れかけている私をここまで引っ張ってきたんだ。きっと、このドアを開ける意味があるんだろう。自分自身に何度もそう言い聞かせ、思い切ってドアノブを引いた。


「お邪魔しますよー」


◇ ◇ ◇


 ドアが示唆していた素っ気無さ。それは、室内にそのまま繋がってていた。かなり広い部屋だったが、部屋自体は真四角で壁の白いなんの変哲もない空間。ただ、壁際にスチールラックがびっしりと立て並べられ、そこに雑然といろいろな標本が押し込められ、積み上げられていた。


 室内をぐるっと見回している間に、大体のあたりが付いた。


「ああ、これは作業部屋だな」


 つまり。私は博物館の表からではなく、裏口から入ってしまったということなんだろう。それにしてはおかしいことが、まだまだてんこ盛りだが。まあ、いい。ここで突っ立ったまま室内を見回していたら、入ってきた博物館の館員に泥棒と間違えられるかもしれない。どんなものがあるのかを確かめた上で、さっさと退却しよう。


 博物館と言ってもいろいろある。民俗学や考古学系の博物館には遺跡からの出土品や民芸品が多く展示されていて、造形や色使いがおもしろいから格好のスケッチ素材になる。入館料がタダなら、私は毎日でも通い詰めるだろう。だが、わざわざ博物館に来なくてもそこいら中で実物が見られる自然科学系の博物館は、私の興味範囲外なんだよ。そして作業室を見る限り、この博物館は自然科学系のところに見えた。


 山のように積まれている紙束は、さく葉標本なんだろう。背中にピンを打たれた甲虫や、ガラス瓶の中で液体に浸かっている芋虫、ネズミのような小動物の剥製……。生物学に興味がある人物ならここが宝の山に見えるかもしれないが、私にとっては単なるがらくたの山だ。スケッチの素材になりそうなものが何もないからな。


「無駄骨だったか」


 なけなしの行動力と好奇心を総動員して、その挙句の果てが大外れ。がっかりした私は、館員と鉢合わせしたくなくて、さっさと部屋を出ようと体を反転させた。


 その時だった。


 天井の蛍光灯の光を反射出来ないくすんだものばかりの室内の一点が、ちかっとまばゆく光ったんだ。それは、青い矢に鋭く射抜かれたような……痛みに近い感覚。


「なんだ?」


 光の出処を確かめようと、作業テーブルを回り込むようにして、部屋の反対側に移動する。


 鮮やかな光を発していたのは、展翅板の上で羽を広げていた一匹の青い蝶だった。


「うわ……」


 一度も見たことがない蝶だ。その羽の青は、蛍光灯が投下する柔らかな光に全力で抗い、まるで挑みかかるかのようにきらきらと誇らしく輝いていた。他の色を拒んで凝る頑迷の青ではなく、世界を何もかも焼き尽くそうとする灼熱の青。自らを極限まで熱して膨大な閃光を惜しみなく撒き散らし、私の目に容赦なく光矢こうしを打ち込んでくる。


 私は……今の今まで動植物に関心を持ったことがない。自分が属する人間というものも含めてだ。なぜなら、全てのものは現世うつしよに一瞬しか存在しえず、それがどれほど素晴らしい姿態を誇っていようと特段の意味を持たない……そう思っていたからだ。そんなどこまでも腐った私の魂に、青い光矢が深々と突き刺さった。長いピンで射抜かれているのは蝶のはずなのに、まるで私自身がそのピンで止めを刺されたような……猛烈な痛みに喘ぎながらも、私の目はその蝶に釘付けになった。


「くそっ!」


 このままじゃ、私はこの青に食われちまう。私の脳裏に、くっきりと地獄絵図が投影された。生きながらにして青に噛み砕かれていく私は、何故か愉悦の表情を浮かべている。未曾有の恐怖に震え上がった私は、近くにあった回転椅子を引き寄せて、どかっと腰を下ろした。それからスケッチブックを開いて、狂ったようにその蝶を描き始めた。


 描き留めることが目的じゃない。描いて封じる。矢が刺さった魂を絵で止血する。私を飲み込もうとしている青の激流を、粗末な堤防を作ることでなんとかせき止めよう……そんな情けない思惑で、それでも私は必死に色鉛筆を動かした。だが蝶は私の必死の抵抗をあざ笑い、絵姿になることを徹底的に拒んだ。描いても描いても青い光を写し取れない。目の前の光を消し去ることが出来ない。まるで私の命灯みょうとうが減じていくかのように、青い色鉛筆だけがみるみる短くなっていった。


 私の命がけのあがきは、耳元で響いた男の野太い声で突然中断された。


 背広姿のでっぷり太った白人の男が、呆れたような顔で私を見下ろし、何か言っている。だが、それは日本語ではなかった。私には、そいつが何を言っているのかさっぱり分からない。

 その男は、私が脇目も振らずに蝶を描いていたのをしばらく見ていたんだろう。泥棒のような好ましくない闖入者ではないと判断してくれたのか、刺々しい態度は示さなかった。ただ、明らかに迷惑しているという表情だった。


「ふうっ」


 私は……抵抗を諦めた。どんなに必死に描いても、それが青い光矢の侵入を防ぐことはできず、魂に刺さった矢を抜くことも叶わなかった。


 もう持てないほど短くなってしまった青い色鉛筆を直接バッグに放り込む。それから、最後に描きかけていた羽の欠片しかない蝶の絵を一瞥して、スケッチブックを閉じた。


「スタッフオンリー」


 無表情にそう言った男が、ドアを指差した。出て行けということだろう。警備員や警察を呼ばれたんじゃ、そこで私の人生が終わってしまう。まあ……それ以前にもう終わっているようなもんだが。


 私はゆっくり立ち上がると、展翅板の上の蝶を指差して聞いてみた。


「これは?」


 その男は、日本語が全く理解できなかったと思う。だが、私がその蝶の名を聞いていると推察してくれたんだろう。短い回答が返ってきた。


「モルフォ」


 そうか。モルフォというのか。私には、それだけで十分だった。


「さんきゅー」


 私が男の回答を理解できたように、その男も私の謝意を理解してくれたようだ。ごつい顔をくしゃっと崩した男は、笑顔で改めてドアを指差した。


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