組曲モルフォ
水円 岳
第一曲 光矢
(一)
「よいしょっと」
雑巾と見分けがつかない布バッグを肩にかけて、殺風景な自分の部屋をぐるっと見回す。それから、おもむろにドアを開ける。足を踏み出す前に、もう隣室のばあさんに捕まった。
「徳さん。またスケッチかい?」
「それしかすることがないからね」
「まあたまた」
「いや、本当にそうさ。退屈だよ。退屈した時間を束ねて市場で売ったら、きっと大金持ちになれるね」
「ひゃっひゃっひゃ」
ごっそり歯の抜けた口をすぼめて、ばあさんが馬鹿笑いした。
「まだスケッチしにいく元気がある分だけ、退屈がましなんだろさ」
「まあね。退屈だからもうこの世にグッバイとまでは行かんからなあ」
「あんたあ、殺しても死なないよ」
ほめてるんだか馬鹿にされてるんだか分かったもんじゃない。まあ、そっちはいいんだ。それより、本当に退屈がしんどくなってきたな。
私が定年のある仕事に就いていたのならば、少なくともその退屈を二つに折り返せた。仕事をしてる時と、その仕事から解放された時の二つにね。でも、幸か不幸か私の商売は若い頃からずっと絵描きという浮き草家業だ。退屈歴が長い分、その病いが致命的に慢性化していてどうにもならん。
絵の具がこびりついている手を着ていた小汚いスモックで拭い、ばあさんを押しのけるようにして部屋を出る。ばあさんが無遠慮にバッグの中を覗き込んだ。
「何入ってるんだい?」
「金目のものと食えるもんは何も入ってないよ。ただのガラクタさ」
「ひゃっひゃっひゃ」
実際、入っているのはスケッチブックと長さが不揃いの色鉛筆だけだ。バッグに入れてあるのは持ち運びが楽だからっていうだけで、他に意味はない。さて……。
「行ってくるわ」
「ほいな」
さっとばあさんが部屋に引っ込んで、ぼろアパートがいつものそっけない表情に戻った。勤め人はこの時間帯、誰も部屋にいない。その中にあって私だけが時間を持て余し、四六時中ここらをうろうろしている。元々自分のいる世界は狭いなと思っていたが、これ以上縮むと冗談抜きで退屈死しそうだ。はわわ。
◇ ◇ ◇
私は絵描きではあるが、芸術家ではない。一枚の絵が目の玉が飛び出るほど高く売れる有名人などでは到底なく、芸術のために自身の身命を捧げるほどの気概も才能もない。いわゆる、しがない貧乏絵描きってやつだ。
まあ、普通そういう貧乏絵描きは、貧窮のどん底で野垂れ死ぬってのが世間一般の筋書きなんだろう。しかし、私が本当に野垂れ死んでしまえば、あまりに筋書き通りでおもしろくもなんともない。別に世間様にお笑いを見せるために生きているわけではないんだが、私はそこまで非現実的な人間ではない。
絵の仕事がある時は絵で飯を食い、それがない時は雑用を引き受けて糊口をしのぐ。それを飽きもせず、還暦過ぎの今まで淡々と繰り返してきただけだ。絵描きとしてのプライドがうんとこさ高けりゃ、成功したか野垂れ死にしたかのどっちかになったんだろうけどね。おあいにく様、だ。自分自身に対してすら、そうやってあかんべえを繰り返す。
「さて。今日はどうしようか」
先日、何年かぶりに絵が売れた。大した額ではなかったが、当分力仕事で日銭を稼がなくてもよさそうだ。いつもは、入場無料の小さな美術館に行ってデッサンか模写をするんだが、それだと退屈っていう檻の中をいつまでたっても出られない。たまには街角のスケッチでもしようかと思い立ち、いつもとは反対方向の路地に入り込んだ。
長年同じぼろアパートに住んでいると言っても、無精者の私の行動半径も目的地も、数十年間ほとんど変化していない。それで何が楽しいんだと言われても、楽しいから生きてるわけじゃない私には答えようがない。もっとも、私に何かを聞くやつすらいないけどな。
退屈という病いに食われないようにするためには、己の思考、行動を変えればいい。そらあ、嫌っていうほど分かっている。分かっちゃいるが、変えてどうなるの出口がなけりゃあ、結局退屈に追いつかれちまうんだ。
うまい飯を食いたい、極上の女を抱きたい、成功者として世の中の注目を浴びたい。そういう俗物的な出口であっても、容易に叶わない欲望は退屈を徹底的に駆逐する。だが、私の場合厄介なのは、欲望はたっぷりありながら、それに色も形もないということだ。
欲がとことん枯れ果ててるなら、どっかで首吊りゃあ済むことさ。でも、欲はたんまりあるんだ。だから今までのうのうと生き延びてきたんだよ。
ぶつくさとしょうもないことを呟きながら路地をふらふら歩いていた私の視野の端に、『museu』という横文字が刻まれた古びた看板がいつの間にか忍び込んでいた。
「ほう?」
足を止めて、看板の方角に目を向ける。それが掲げられていたのは一軒の洋館。洋館と言ってもいわゆる大邸宅ではなく、小洒落た家という感じだった。ただ……間違いなく周囲から浮いていた。その洋館以外はどこにでもある一般住戸で、その隙間に三角屋根の縦に細長い洋館が居心地悪そうに挟まっている。緑青をたんまり浮かべた銅葺きの屋根がいい味を出していたが、周囲の純和風の瓦屋根と思い切り喧嘩をしていた。
「これじゃあ、スケッチのネタにはならんなあ」
看板があまりにそっけないので、喫茶店とかその手の店舗ではなさそうだ。私設の博物館かなにかだろうか。
どうせ死ぬほど退屈なのだから、たまには好奇心に飽かせて行動してもよかろう。私にしては珍しく、外から眺めるだけで満足せずに踏み込むことにした。その屋敷の家人がいれば、そこがどんなところか説明してくれるだろうと思ってね。
洋館のドアは直接街路に面していて、呼び鈴の類はどこにも見当たらない。ドアを何度か強めにノックしてみたが、なんの反応も返って来ない。
「空き家か?」
普段の私なら、返事がなければさっさと諦めただろう。だが、私を蝕んでいた退屈病はすでに危険水準に達していた。
「入ってみるか」
博物館だとすれば、館内に受付があるのかもしれない。他の可能性は一切斟酌せず、重く分厚いドアを引き開けて中に踏み込んだ。
「おっ!」
そこは……実に変わった作りだった。一階がない。入ってすぐが螺旋階段の踊り場になっていて、入場者を階下に導く形になっている。上階があるはずなのに、頭上は天井でふさがっている。上へ導く階段はない。
「うーん……」
洋館の外観を思い返す。尖った三角屋根を備えた縦に細長い造り。三階部分には居住することも物置として使うことも出来ないわずかな空間しかなさそうだし、一、二階も展示に堪えうる広さがあるようには見えなかった。ものすごくこぢんまりした博物館だと思っていたんだが、そうか。階下に展示室があるのか。
じゃあ、受付も下にあるんだろう。そう予想して、螺旋階段を降りることにした。
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