Cp.2-4 Dear My Sylph,Smile Again.(5)

 宇宙の中心に向かっているような感覚だった。

 加速する視線の先にあるのは、太陽のような光を放つ、翠色の光源。

「…………」

 胸の中にある、たった一つの想いだけを光に、ひたすら真っ直ぐに空を走り続ける。

 頭の中は曇りなく澄み切っていて、余計なものは何も映らなかった。

(翠莉……)

 その名前を求める想いが、心の奥から溢れ出ている。

 今ならば、きっと勇気をもって言葉にできると信じられる。

「僕は……」

 迷いの晴れた想いを胸の中にしまい直して、視線を光の方へ据える。

 一度離れてしまった今もまだ、心の奥を明るく照らす、眩しいその光。

「君がいないと、だめなんだ」

 その光に照らされるまで、ずっと空の光を見上げられなかった自分のことを思い出す。

 両親は職場で知り合ったらしくて、僕は一人っ子だった。二人とも仕事のできる優秀な社会人で、良識ある大人としての常識も備えていた、ありていに言えばよくできた人間だった。子供である僕にも、他人への対応の仕方と同じように、体裁の整った躾けと教育を施してくれた。おかげで僕は、見かけ上これといった欠陥を持たない、そのかわり秀でたものも何もない、どこにでもいそうな――いなくても特に世界に何の変わりもないような、平凡な少年になっていた。

 親の収入は安定していて、常識の中に育てられて、生活に不安な要素はなかった。けれど僕は、そんな生活にいつまでたっても嬉しさを感じることはなかった。

 ずっと、寂しさを感じていた。何かが欠けているように感じていた。

 そして誰も、僕の奥にあるその寂しさを知らない。本当の僕に、誰も触れられはしない――そんなふうに思っていた。

 両親にしても、友達にしても、好きになった女の子にしても、それは同じだった。ずっと僕は胸の奥に何かが欠けているような気がしていて、それは誰にも埋められなかった。

 今なら、その欠落の正体がわかる気がする。

 僕には、愛せるものがなかったんだ。自分の全てを懸けられるもの、心が向かっていけるもの、僕はそのために生きていると堂々と言えるもの――僕には、それがなかった。だから、生きている実感を持てなかった――ただ生きていることが幸せだって、思えなかったんだ。

 だから、ずっとそれが欲しかった。僕は君のために生きていると、心から言える何か。この命を捧げるほどに、愛することの、愛し合うことのできる誰か、あるいは何か。それに出逢うことができたなら、僕はきっと心を埋める澱みから抜け出して、遥かな大空へ息を吹き返せる――そんな希望をずっと、自分でも気づかないくらい、胸の奥に抱いていた。

 きっとそれは、僕の中で一つの形を成していたんだろう。

 そして、その姿を取った彼女は僕の元へ来てくれた。

 彼女は――翠莉は、僕がずっと求めてやまなかった、救いの神風、そのものだったんだ。

《マコト》

 風鈴のように涼やかに響く彼女の声が、心の奥に蘇る。

 誰よりも僕のそばにいてくれた。僕の欠落も、澱みも、愚かさも卑しさも、全部受け容れて、理解して、それでも変わらずに笑いかけてくれた。僕がどんなに弱くても、彼女の嫌いな嘘ばかり吐いても、それでもそばにいるって、笑って抱きしめて、囁いてくれた。

《大好きなんだよ、マコト。あなたが何者でも、わたしはあなたを愛してるの》

 夏空の下に吹く涼風のように甘く爽やかなその言葉が、太陽を浴びる向日葵のようなその笑顔が、僕の沈みゆく深淵を照らし出してくれた。

 たった一人で、暗がりの中で震えていた心を溶かしてくれたその温もりを、その優しさを、きっと僕は死ぬまで忘れることができない。

 翠莉が僕を救ってくれたから、僕を信じてくれたから、今、僕はここで生きていられる。

 だから、僕は、何をなげうってでも、翠莉を救わなきゃいけない。僕が翠莉を救えずに翠莉がいなくなったら――僕は、きっと一生自分を許せない。

 今なら、言える。言わなきゃいけない。

 翠莉に――愛する人に、全てを懸けて、愛しているって。

 それが、今しかないのなら――今こそ僕は、行かなきゃいけないんだ。

 待っていて、翠莉――今こそ、逢いに行くから。

「翠莉……!」

 眩い輝きを放つ光の向こうの翠莉の姿に、求めるように手を伸ばす。

 加速する飛翔は、崩壊しかける翠莉の心域に入ろうとしていた。そこには、翠莉の罅割れた心から溢れ出るノイズが、ガラスの破片の海のような雑然とした狂気に満ちていた。

 全身をズタズタにされるとわかっても、加速する心は止まろうとはしなかった。彼女をその狂気の海から救ってあげられるのが自分だけなら――僕は、行かなくちゃいけない。

 この身を失くしても、何を失くそうとも――僕は、もう一度、君に逢いたい。

 だから――、

「今、行くから」

 全ての恐れが、熱い光に呑まれていく。

 大きく息を吸って、翠莉の心域、溢れ出す狂気の海に飛び込んだ。

 瞬間、無数のノイズが頭から中に直接流れ込んで、全身を掻き毟られる。心の奥底に溜まっていた正体不明の抑圧されていた感情が、狂ったような叫びになって暴風のように吹き荒れるような感覚。意識まで金属音の爪で引っ掻きまわされるようで、とても正気じゃいられない。

「ッ、ぐ……ゥゥウウウ、ッ……!」

 頭がうるさい。耳が痛い。目が痛い。何も見えない、聞こえない、考えられない。

 それでも、僕はすぐ近くにいるはずの翠莉に向かって、懸命に手を伸ばした。

 あと、少しなんだ。あと少し、あと少しだけ、届かなきゃいけない。

 翠莉に逢って、言わなきゃいけないことがあるんだ。

 そのためなら、この身が塵芥になってもかまわないから――――!

「翠莉……翠莉!」

 心のガラスの破片が口から流れ込むのも構わず、荒波にもがくように必死に手を伸ばした。溺れそうになった心で、僕は見えなくなった瞳の奥に、一筋の光を確かに見た。

《―― マ コ ト …… ?》

 ノイズの海の向こうに確かに見える、海中の眩い翠星のような光。

 かすかに聞こえたその声に、僕の瞳は清澄を取り戻した。

『翠莉……今、行くから!』

 詰まる喉で叫び、心の底に湧き上がった想いを全て、彼女へと向かう翼の推進力に転化する。

「ぁぁぁあああああ、ッ……!」

 溢れ出る想いを全て噴射して硝子片の濁流に抗い、僕は翠莉の光に手を伸ばした。

 もう、見失いはしない。翠星の光は――彼女の魂は、確かにこの目に見えている!

 今しかない――今なら、いける!

「と、ど、けえぇぇぇ――――――――‼」

 叫び、背に負った噴射力を爆裂させ、ほんの一瞬、渦の勢いを凌駕する推進力を得る。

 支えを失い飛び出して必死に伸ばしたその手が――彼女の力なく浮かんだ手に、触れた。

 その儚い手を掴んだまま、僕は眩い光の中に――彼女の心の中に、飛び込んだ。


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