Cp.2-4 Dear My Sylph,Smile Again.(6)
翠莉…………ごめん。許して。
眩い翠色の光の中に飛び込む前、そんな声が自分の中に聞こえた。
その眩しさに思わず目を閉じていた僕は、外が暗く冷えたのを感じて、恐る恐る目を開けた。
そこは、まるで宇宙のような暗闇の中だった。宝石の欠片のような小さな明かりが澄んだ闇の中を漂っていて、空間の中央には太陽の核のような濃密な光の球が、何かを宿しているかのように静かに燃えて在った。そしてその空間自体に、赤黒い罅がいくつも走っていた。それはまるで、割れる寸前の卵の殻のようだった。
「ここは……」
呟いた僕は、その腕の中に力の抜けた翠莉を抱えていることに遅れて気が付いた。閉じられた瞼は小さく震えていて、薄く光るその体は今にも壊れそうにひび割れていた。破片のような光が零れ落ちては蛍火のように空中に消えて、その輪郭がノイズのように乱れていた。
『珍しいこともあるものね。この場所まで入ってくる人の子がいるなんて』
不安にかられる僕に、ふいに声がかけられた。空間の中央にある光の球から聞こえてきたその声は、翠莉のものと同じ色をしているように聞こえた。
「誰……?」
『わたしはイリス。あなたの愛する翠莉と、全ての彩姫の母』
問いに返ってきた、慈愛に満ちた響きの声に、僕は自然と訊き返していた。
「イリス……あなたが、瑠水さんの言っていた……?」
『ルミナ……そうね。あの子とその子は近いみたいね。少なくとも、今の所は』
姿のない声――イリスの言葉の意味する所は少し遠くて、今の僕には理解できる余裕はなかった。少しでも翠莉を救うための手がかりを求めて、僕はその声に訊ねた。
「あなたは、何か知ってるんですか。翠莉を助けることは、できますか」
縋るような想いで見つめた僕の目を、イリスは太陽の核から見返していたようだった。
『真っ直ぐね。よろしい。これだけ教えてあげましょう。あとは、あなた次第、ということよ』
「僕、次第……」
イリスは僕を試すような口調でそう言うと、言葉を続けた。
『ここは、翠莉の《中心》の空間、不可侵の魂の聖域。あなた達のような人がプライバシーというものを持つように、普段はこの空間もその子の心の奥に見えない壁で隠されているものなのだけれど、いろいろな条件が重なって、あなたは勢いでこの子の一番奥にあるここまで突っ込んできてしまったみたいね。つまり、ここはその子の本当の想いに触れる、触れられる場所。……なら、あとはどうすればいいか、わかるでしょうね?』
イリスの言葉に、僕はさして迷うこともなく、その言葉の意味を理解した。
翠莉の心の中だというここはおそらく、翠莉達彩姫の力を発揮できる「聖域」と同じ、想いの力の使える空間だ。そしてここは、翠莉の心の負った傷に直接触れることのできる場所。
なら、あとは僕が翠莉の心にちゃんと向き合って、彼女の心を治すしかない。それをどうやるのかも僕が考えるしかない。僕次第、というのはおそらく、そういうことだ。
翠莉の心の傷に触れるのは怖かったけれど、もう逃げる気は起こらなかった。僕にしかできないこと、僕がやらなくちゃいけないこと――何より、翠莉を失いたくなかったから。
僕のその気持ちを見取ったのか、イリスがふっと笑ったように聞こえた。
『二人の時間を邪魔しては悪いわね。わたしは隠れていることにしましょう』
「待って。あなたは……僕達をどうする気なんだ?」
そんなことを訊いたのは、瑠水さんから聞いた話があったからだろう。そしてそれは、訊く相手を間違えていたかもしれなかった。
けれど、僕のその問いに、イリスは困ったように笑ったように見えた。
『あなた達には、幸せになってもらいたい。あの子達が望んだからこそ、その子達は今こうして生まれて、あなた達愛する人達の元にいることができるようになったのだもの。その子達の幸せはわたしの幸せでもあるから。できることなら、ずっとそうしていてほしい』
そして、幸せを祈っていたイリスの声は一転、暗く重い陰りを帯びた。
『けれど……この分離はわたし達の本来の姿とは異なる形。その分裂が、わたしとその子達を苦しめることになってしまったのは、逃れようのない事実。そして何より、あの人が――ルクスがそれを望んでいない』
その時、僕はとても大事なことを聞いていたということを、後になって知った。
イリスは暗闇を払うようにふっと小さく笑うと、僕を見えない瞳で見つめた。
『その子はあなたを信じていた。あなたはそれに応えてほしい。わたしは祈りましょう。どうか、その子達にも、あなたにも……わたしにも、あの人にも。永遠の愛が、叶いますように』
静かに満ちた声で言い残すと、イリスの気配は霧の奥に隠れるように小さくなっていった。
後に残された僕は、イリスの遺した言葉を心の奥に噛みしめて、腕の中に眠る翠莉を見た。
「翠莉……」
屈み込んで名を呼び、壊れないようにそっと抱きかかえる腕に力を込めた。
「目を、覚まして」
力のない翠莉の体を抱き締めながら、ひび割れたグラスから流れ落ちる澄んだ水のような想いを、言葉にしていく。
「君が生きていてくれるなら、何でも、するから」
言葉は、零れ落ちていくようだった。それでも、僕は心を口にした。今までずっと口にできなかったほんとうの想いが、ようやく真実として口にできるような気がしていた。
「翠莉。お願いだから……目を、開けて……」
まだ震えているけれど、やっと迷いなく紡げるようになったその想いが、翠莉の痛みを癒して、その傷を治してくれる力になってほしい。翠莉がその夏の光と風のような笑顔と言葉で、僕の閉じられた心に新しい息吹を吹き込んで、僕を生き返らせてくれたように。
「君が生きていてくれるなら、他には何もいらないから」
本当に大切な想いは、多くは言葉にできない。
「君が生きていてくれないと……僕は、生きていけないんだ」
言葉は、言葉以上の想いを紡げない。
それでも僕は、全ての溢れる思いを、口にする言葉に閉じ込めた。
「翠莉……ごめん……許して……!」
届いて、ほしい。
想いが、溢れる。
願いが、涙に濡れる。
心が枯れそうなほど、湧きあがる全てを言葉にした。
彼女のための言葉を紡ぐのは、どれだけ難しいことだったろう。結局、僕が言うことができたのは、彼女が必要だっていう、自分のエゴだけだったのかもしれない。けど、それは僕が翠莉が好きだっていうことと結びついていて、だから決して偽らざる想いだったはずだった。
「愛してる」って、素直に言葉にするのは、とても難しい。
そもそも「愛」っていったい何だろう。たぶん、正解の存在しない問いだ。
けど、その時僕の心の中にあったのは、偽りのない「愛」だったんだと思う。
翠莉に生きていてほしい――その胸を満たす熱い願いを、「愛」より他には例えられない。
言葉の数は少なかったけれど、僕は魂の力を全て絞り尽したようにうなだれた。
澄んだ想いの溢れた心は、今までにないほど、熱く燃えて、潤っていた。
僕が、微睡みにも似た思いに沈みかけて、涙に濡れた目を閉じた時。
「マコト……」
ずっと待っていたか細い声と共に、小さな手がそっと僕の頬に触れた。
僕は恐る恐る目を開けて、腕の中に抱えたその瞳を見た。
大きなエメラルドの瞳は、熱くて綺麗な涙に溢れて、僕のことを見上げていた。
それを見た僕の眼からも、涙が湧きあがるように溢れた。
「マコト……マコト!」
涙に溢れた翠莉が、細い腕で僕を抱き寄せようと求めてくる。僕は翠莉がそうしやすいように、背中を抱えて翠莉の小さな体を抱き寄せた。
「バカ……バカ……マコトの、バカ……!」
「ごめん、翠莉……ごめん」
翠莉は泣きじゃくりながら、僕の背中を細い腕で強く抱きしめてくる。その力は細いけれど、とても強くて。自分を求めてくれるその力が、とても愛おしいと感じて。
僕はそれで、生きたいと思える理由を、見つけられた気がした。
そのまましばらく、翠莉の涙が枯れるまで、僕は翠莉に抱かれるままになっていた。
やがて、翠莉の涙が落ち着くと、僕は翠莉の目元の涙を拭ってあげた。
「落ち着いた?」
ぐす、と鼻をすすって、翠莉は小さく頷いた。
翠莉の体を見てみると、さっきまで体中に入っていた罅が、ケロイドのように色を変えていた。塞がりかけている傷のようなそれは、しかし見る目にはまだ痛ましかった。
もしかしたら、翠莉の心が溜まっていた毒をさんざん泣いて吐き出して落ち着いた今この時が、翠莉の心の傷を治す最大のチャンスなのかもしれない。
そう思った僕に、翠莉がふいに涙声のまま声をかけてきた。
「マコト。わたしのこと、好き?」
「――――」
翠莉は、僕の目を、どんな色も見逃すまいとばかりにじっと見つめている。まだ、僕のことが疑わしいのかもしれない。けれど僕はもう、それを拭える気がしていた。
今なら、もう偽りなく言える。僕は、その目を逸らすことなく真っ直ぐに見返して、言った。
「うん。大好きだ。何があっても、一緒にいたい」
迷いを振り捨てた僕の言葉に、翠莉はなおも見極めるような眼を向け続けていた。
「本当に?」
「本当だよ。君がしてほしいなら、何だってやる。君がそれを望むなら」
「何でも?」
「うん」
「じゃあ、キスして。……わたしのこと、好きなんでしょ?」
翠莉はそう言うと、瞳を閉じて、不機嫌そうな表情のまま、小さい薄桜色の唇をつんと僕の前に差し出してきた。どうやらまだ僕のことを疑っているみたいだった。
そう思われても仕方ないよね、と僕は自分を呆れたように笑って。
翠莉の華奢な身体を強く抱き寄せて、その唇にそっとキスをした。
「――――――――」
翠莉が、心臓が止まったように驚いたことが、柔らかく触れあう唇からもわかった。
その隙に、僕は今度こそ、ありったけの溢れるほんとうの想いを、注ぎ込んだ。
翠莉、愛してる。何があっても、一緒にいるよ。
君が望んでくれるなら――いつまでも、永遠に。
――それが、答えだったらしい。
翠莉の瞳から、煌めく涙が堰を切ったように溢れ出した。やがて翠莉の体からも超新星のような膨大な光が溢れ出し、心の空間を埋めていく。その光は翠莉の魂の罅割れた傷を治していき、翠莉の心を重くしていた暗い闇を拭っていくのを感じた。
抱いていた翠莉の放つ光の中に、僕は飲み込まれていく。世界を塗り替えるその温かな光は、僕の心に染みついていた冷たい闇までも拭い去っていくようだった。
光の中、時間や空間も捉えられなくなって、僕の意識は光に融けるように薄くなっていく。
眩く澄み渡った想いに胸が満ちて、眠りに落ちるその刹那。
ありがとう、マコト。あなたのこと、信じてる。
ずっと大好きだよ。ずっと……永遠に。
翠莉は、光の中で、涙を煌めかせながら、喜びに泣くように、きらきらと笑っていた。
夏草と涼風の薫る、青く澄んだ空が、瞳の奥に見えてくる。
今は、この青い空の下で、少しだけ、愛する人と一緒に眠ろう。
同じ空の下で、同じ心を分け合って、一緒の安らぎの中にいたい。
いつか訪れる永遠まで、そうやって一緒にいられたら。
きっと、翠莉が笑ってくれるから。
その笑顔に逢いたいから、僕は生きていたいんだって。
やっと、見つけられたんだ。僕の生きる理由、愛したい人――――。
翡翠色の太陽が超新星爆発を起こしたような衝撃が、噴水公園の中空に炸裂した。
彼らにしかわからない暴風の衝撃をどうにかやり過ごす中、拓矢はその炸裂の中心から、一滴のように零れ落ちる小さな光を目にしていた。翠色のその雫は、地面に落ちて消える前に、上空に残っていた真紅の魔神の掌に掬われていった。
衝撃が過ぎ去る中、拓矢は体内に残った活力を巡らせて体勢と気勢を整えながら、先程まで対峙していた場所を見る。黒の魔女の姿はやはり既に、影も形もなかった。
全ての脅威が過ぎ去っていくのを感じながら、拓矢は心が晴れ渡っていくのを感じていた。
「終わった、みたいだね」
『ええ。スィリも真事もどうにか無事のようです。迎えに行きましょう、拓矢』
「そうだね……行こう」
心の内に身を休める瑠水の傷が喜びに癒えつつあるのを感じながら、拓矢は頷いて立ち上がり、手を取り合って安らかに眠る真事と翠莉の無事を見に走っていった。
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