Cp.2-3 She's Stoming(3)
翠莉の動きが完全に止まったことを確認し、瑠水は水の牢獄を解き、翠莉の体を抱きとめて拓矢と共に路上に降りた。聖域を展開しているので世界の流れからは隔絶されているが、周囲の市街は突如として起こった謎の横転事件に騒然となり始めている。
「大丈夫でしたか、拓矢?」
「うん。僕はかすった程度だから。でも、瑠水の力ってあんなこともできるんだね」
「私の力は『水』を模倣するものなので、その性質を利用したまでのことです。もっとも、あまり使いたくはない力の使い方でしたが」
会話を交わしながら、拓矢と瑠水は人通りのない場所で翠莉の容態を見る。
市街の混乱はさておいて、今は翠莉を何とかしなくてはならない。
「瑠水、どう? 翠莉ちゃんは無事?」
拓矢の言葉に、瑠水は気絶しながらも苦悶に染まる翠莉の表情を見ながら難しい顔をした。
「今は、私の水の力に胸を満たされて気を失っているだけのようです。この子を狂乱に至らしめた黒の狂気は、まだこの子の心から消え去っていません」
深刻な様子の瑠水の言葉に、拓矢もまた暗澹たる思いになる。
瑠水の水牢で溺れて気を失った翠莉は、今もなお苦しみに息を詰まらせたような苦悶の表情をしており、その体からは時折黒い邪気が滲み出すようにうっすらと表れている。黒の狂気がまだ彼女の中にあるということの表れだろう。
瑠水の言うとおり、今は溺れて気を失っているというだけのことらしい。つまり、このまま意識が戻れば、彼女は再び内にある狂気に支配されて暴走を始めかねないということだった。
「このままでは、この子はまた狂気に支配されてしまいます。この子の魂に染み付いた狂気を取り除いてあげなければなりません」
「何とか、ならない?」
拓矢の不安げな声に、瑠水は決然とした言葉を返した。
「無論です。そのために私はここに来たのですから。任せてください」
言って、瑠水は屈み込み、地に横たえた翠莉の胸にそっと白い手を重ねる。
「《献せしは我が悲哀(Solty me reim res firres)、我が身を流れる清水よ(Kelniy mie claulcion)……報われぬ罪に穢れし彼の者の心を禊ぎ給え(alma lumel asphalmeit)》」
《蒼聖碧流(フル・エリミエル)・慈悲の形相(エイドス・ケセド)・浄化の理(ピュリファイア)――「清流の禊(シンクィリオ)」》
祝詞のように紡がれる幻律と共に、瑠水の体から精神の高まりと共に仄かな光が立ち上り、その腕を通じて輸血のように青白い光が翠莉の胸から体へ、魂の奥へ流れ込んでゆく。
「う、っ、うあ、あ、あぁっ……!」
流れ込む浄化の力に、翠莉が苦悶の声を上げ始めた。
「瑠水……!」
「彼女の中にある狂気が、私の浄化の力に抵抗しているのです。大丈夫、病気を治すための熱と同じです。今は、戦わせるしかありません」
瑠水は緊張した面持ちで、彼女なりに加減をしながら絶え間なく翠莉に力を注ぎ込んでいく。翠莉の苦悶の声に胸を締められながら、拓矢はそれを見守ることしかできなかった。
やがて、瑠水はさらに難しい表情になって、呟くように言った。
「まずいですね……どうやら、この状態は私一人で取り除けるものではないようです」
「どういうこと?」
拓矢の訊き返しに、瑠水は深刻そうな目を見せながら首を振った。
「おそらく、魔女に植えつけられた狂気と、この子の根源的な暴走の感情が、心の中で結合してしまっているのです。植えつけられた表層的な影響力だけならば、私の浄化の力で洗い流すこともできるのですが、心に根付いている闇を完全に浄化することは、私の力では難しいです」
瑠水の言葉に、拓矢は絶望的な気持ちになりながらなおも訊いた。
「そんな……それじゃあ、どうすれば」
「狂気と融合している根源的な部分――この子の心に根付いている闇をそのまま引き抜くしかないでしょう。ですがそれには、私よりもより強くこの子の心に直接干渉できる力が、そしてそれを持つ人が必要です」
「それって……」
すぐにその言葉に思い至った拓矢に、瑠水は硬い表情で頷きを返した。
より強く、翠莉の心に干渉できる存在。
それは、一人しか思い当たらないし、おそらく彼以外には当てはまらない。
翠莉を救うことができるのは、彼以外にはありえない。
かつてただ一人、闇の荊に囚われた瑠水の心の奥に分け入ることができた拓矢のように。
「瑠水」
悲しみの響きを帯びた声に瑠水が振り向いたのを察知しながら、拓矢は話した。
「さっき、この子の刃が掠った時、この子の胸の中の声が、聞こえたんだ。すごいノイズに乱されてて、地獄みたいに熱かったけど、それは聞こえた」
そして、瑠水の腕の中で苦しむ翠莉に悲しみに満ちた目を向け、言った。
「この子は、翠莉ちゃんは、彼を呼んでた。子供みたいに、泣きながら」
口にしながら、胸の中に翠莉の泣き叫ぶ声が蘇り、拓矢は胸を痛く締め付けられる。
《 マ コ ト ……!》
赤黒い、血のように粘つく感情に絡めとられながら、彼女は彼の名を涙を流して泣きながら叫んでいた。心を蝕む狂気の中にありながら、その感情は彼女の生命の灯として生きていたのを、拓矢は確かに見た。しかし、このままではそれも狂気に呑まれてしまうかもしれない。
(真事君……!)
拓矢は、切望するようにその名を唱えていた。
君がいなくちゃ、だめなんだ。
彼女を失わせるわけには、いかない。
それができるのは、君だけなんだ。
切迫した思いが拓矢の胸中を巡る。
しかし不遇にも、時間はその時を待たなかった。
突如、翠莉の瞳がカッと見開かれた。その色は、狂気に彩られた血のような深紅。
「!」
「いけない……!」
覚醒した翠莉の体から黒い邪気が膨れ上がるのと、危険を察した瑠水が抑制の力を高めるのは同時だった。翠莉と瑠水、二人の体から溢れ出す、黒に染められた翠と迸る蒼の光が、互いを押し切ろうとするように荒れ狂いながら絡み合う。
炎とも風ともつかない、嵐のような力の風圧に当てられながら、拓矢は吹き荒れる風音に掻き消されないように大声で、荒れ狂う光の竜巻の中心にいる瑠水の名を呼んだ。
「瑠水……!」
瑠水は答える間もなく、必死の表情で翠莉の心臓に当たる胸の上に手を押し当て、力を注ぎ込み続けている。何とかして再び暴走しようとしている翠莉を鎮めようとしていた。
しかし、荒れ狂い始めた嵐は、もはや止めようがなかった。
「あああああぁぁあぁぁァァァァァァァァ―――――――――――ッ‼」
瞳を血走らせた翠莉の空を切り裂くような叫びと共に、翠と蒼、混ざり合い暴れていた二つの風の塊が、風船のように弾けた。瑠水の体が、弾けた風圧に吹き飛ばされる。
「あ……っ!」
「瑠水!」
吹き飛ぶ瑠水の体を、拓矢は咄嗟に自らの身を盾にして受け止める。瑠水を抱き留める形で、拓矢は瑠水を抱きかかえたまま路面を転がった。
「痛つつ……大丈夫、瑠水?」
「っ、ええ、私は……けれど……!」
瑠水は言葉と共に視線を上に向ける。拓矢もそれに導かれるように上空に目を向けた。
そして、そこに――かつてないほど異様なものを見た。
「なんだ、あれ……?」
見上げた先、宙空に舞い上がった翠莉を中心に、熱を帯びた光が球状に膨れあがった。
そこに現れたのは、表面を黒い炎のような揺らめきに覆われた、翠色に燃える太陽だった。
大気を震わす力を放ちながら、心臓のように波打ち、脈動している。
それはまるで、今にも孵りそうな、不死鳥を宿した炎の卵のようでもあった。
そして、その形容は正しかった。
中空に浮かぶ翠色の光球を見上げながら、瑠水が唇を引き結ぶ。
「拓矢……戦いの準備をしましょう。あの子がこの状態であの形態になってしまったら、私達も対抗するしかありません」
苦渋の意志に満ちた声。不穏を覚えた拓矢は、訊ねていた。
「あの状態、って……?」
「あの子は今、黒の魔女の注ぎ込んだ狂気によって、その存在の舵を完全に見失っています。あの子は自らの内から湧き出る制御不能な感情と狂気によって、訳も分からず力を振り乱している状態です。そして今、あの子は私達彩姫の持つ力の中でも、最も危険な力を発現させようとしています。王冠の形相(エイドス・ケテル)――《神体化》の力を」
「神体、化……」
深遠な言葉に畏れの念を感じながら、拓矢は中空に浮かぶ太陽のような光球を見上げる。
翠莉を中核に抱き脈動するそれはまさしく、神獣の卵だった。
「神体化というのは、私達彩姫の存在の体現する全ての要素を、神体という戦闘神格に昇華顕現させる、超越形態への変化の能力です。神体と化した彩姫は人の身を超えた超越的な力を発揮しますが、存在の力を大量に開放するために魂の消耗が激しく、過度な時間の変化は存在の失調に繋がります。その力とリスクの大きさ故に容易には使うことのできない、危険な力です」
中空を見上げながら語る瑠水の声には、切迫した思いが混じっていた。
「ですが今、あの子、スィリは、自らを統御できない状態のまま神体化しようとしています。このままあの子が神体化すれば、見境もなく、制御も効かないままとめどなく、力尽きるまで暴走を続けてしまうでしょう。そうなれば、周囲への被害はおろか、あの子の存在まで消費され、燃え尽きてしまうかもしれません」
「そんな……!」
瑠水に告げられた状況に拓矢は危機を覚え、上空に浮かぶ翠光の太陽を見上げた。
このままでは、翠莉の存在そのものに危機が及ぶ。手遅れになる前に、止めなければならない。
「瑠水。今からそれを止めることは、できる?」
拓矢の切迫した声に、瑠水は緊張の面持ちながら頷いた。
「神体化には、自らの存在を変容させる時間があります。神体化が完了してしまえば、その威力を止めることは難しくなります。今しかありません。急ぎましょう」
「残念だけど、そうはさせないわよ。ルミナ」
そこに突如、その場にいないはずの声が割り込んできた。
嫌に耳に憶えのある、嘲笑うような響きの、棘のある冷たい声。
その声の憶えに至った時、拓矢と瑠水は揃って背筋をゾクリと震わせた。
「この声は……まさか」
驚愕と戦慄の中、拓矢と瑠水はその出現を目にする。
中空に浮かぶ巨大な光球の真下、二人の前方の空間が、黒い光と共に歪んだ。
次元を歪ませたその扉を通り、彼女はその場に姿を現す。
光を映さない漆黒の衣装に纏われた、病的なまでに色のない白い肌。
氷のように冷たく、錐のように鋭い、地獄の炎のように燃える瞳。
全ての色彩を拒絶するような、無彩色に彩られた冷徹な美貌。
目に映る全てを切り裂き弄び嘲笑う、悪魔のような笑み。
見紛いようもない、悪夢の使者。
瑠水を悪夢の中に捕らえ、傷付け、虐め、弄び、悪夢の色に染め上げた張本人。
「黒の、魔女……!」
拓矢の口から、煮え滾るような感情に染まった声が漏れていた。
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