Cp.2-3 She's Stoming(2)
市街地の空域に入り、眼下に現れた光景に、拓矢は思わず言葉を失った。
街路には、幾人もの人が、まるで通り魔に襲われたかのように倒れていた。
流血は、ない。肉体は傷ついていないようだった。
物理的な傷はないのに、人だけがまるで
突然の異常事態に、市街地には混乱の色が広がっていた。
「なんだ、これ……」
拓矢が絶句したのは、そんな市街の惨状だけにではない。
拓矢には、何が起きているのかがすべて見えていた。
町の建物や街路には、一切の傷――破壊の跡がないように、肉眼では見える。
しかし、《聖域次元》にいる拓矢には、まるで鋭利な刃に切り裂かれたようないくつもの黒く濁った色の傷跡が町のあちこちにあるのが見えた。
極めつけに、赤黒い、獣のような狂気の匂いが、空気に満ちている。血のような臭いが呼吸と共に胸に入り込むと、魂が乱されるようなおぞましさを覚える。
正気の光を奪われ、歪んだ邪念に支配された、狂気の臭いに満ちた世界。
それは、瑠水が囚われていたあの悪夢の世界と変わらなかった。
(何が起きたっていうんだ、いったい……!)
すでに見えているにもかかわらず、拓矢は胸中で歯噛みしていた。
体の傷ではないのに、倒れるほどの傷――拓矢は既にそれを、近しい人の身で目にしている。
魂への攻撃――この場でそれを行える者など、考えるまでもなかった。
命士と契約した霊体である彩姫は、命士の物性を介してこの世界の存在の霊質に干渉できるという。今でも真事と翠莉の契約が続いていて、翠莉がその現世への干渉能力を持ったまま暴走したとすれば、この状況にも説明がつきそうだった。
あの無邪気な子が、こんな無残な破壊を行うなんて……到底考えられない。
(翠莉ちゃん……!)
焦燥に歯を食い縛る拓矢は、ふと、視界の端に黒い光の瞬きを目にした。
『!』
次の瞬間、赤黒い翠色の閃光が鎌の刃のような軌道を描いて、宙に浮く拓矢に迫った。
襲い来る気配に、拓矢の全身に危機を知らせる本能的な怖気が走り、瑠水の意識が光のように反応、咄嗟に体を捻って薙ぐような襲撃を躱す。鋭利な空気の感触が背中を掠めた。
《lhynmwふsdがくsghcdかsbmはmxcgdksgfづkhだskあ――》
同時に、拓矢の胸の内にマグマのように赤黒い感情が沸き起こる。
胸を掠めたそれは、狂熱。理性を失った魂の、身を千切るほどの狂気の迸り。
「ッ……⁉」
嫌な胸のざわめきと共に拓矢を振り返るが、そこには黒い風の残滓が漂うのみ。
魔の刃風となって奔る風の妖精は、すでに中空を走って次の一撃への流れに移っていた。
「いけない、拓矢……!」
その間の一瞬で危険を察した瑠水が、危機を知らせる声を上げる。
それを理解するその時には既に、拓矢は翠莉の威力圏内に巻き込まれていた。
右。左。前。後。上。下。直。曲。捻。溜。
宙に浮く拓矢に、あらゆる空間を自在に飛び回る血風の刃が舞い踊る。
縦横無尽に襲い繰るその残影は、血のような赤黒い色に染められた若草色。
荒れ狂う暴風のような風の包囲が、狂騒の内に拓矢を八つ裂きにせんと迫る。
咄嗟の反応が追いつかない拓矢に代わり、瑠水が瞬時に対応に動いた。
《我が身に備わりし水の霊(Colt lu meil mearlemie)、その無形を纏いし庇護の衣となりて(Kaulm las to amklit)、彼の身を護りたまえ(melty klute)!》
「蒼聖碧流(フル・エリミエル)・知恵の形相(エイドス・コクマ)・守護の理(ディフェンド)――《纏水衣(アイル・エミナリオ)》!」
瑠水の詠唱が、言葉を紡ぐ速度すら超えた思念の幻律で紡がれる。
迫り来る刃が拓矢の身を切り裂く寸前に、その力は顕現に成功した。拓矢の体を厚い水の膜が鎧のように纏い、襲い来る風の刃が水圧に勢いを削がれて消える。
どうにか身を守ったのも束の間、間髪入れずに
「くっ……」
『拓矢、落ち着いて! 私が補助します!』
言葉と共に、瑠水は拓矢の魂に同化し、その心身に全神経を血液のように行き渡らせる。拓矢の動揺を冷静の水に洗い流し、思考を澄み渡らせ、緊張を解し、魂を清浄化する。
瑠水の浄化処理が終わり、拓矢が冷静に動けるようになるのと、疾風の刃が迫るのは、一瞬にして紙一重の差のことだった。
「蒼聖碧流(フル・エリミエル)・勝利の形相(エイドス・ネツァク)・纏剣の姿(フォルマ・ブレイド)――《瑠水月剣(ルミナス・ソード)》!」
念と共に空間から出現した青い剣を手にし、拓矢は迫り来る風刃の猛威をかいくぐる。向かってくる刃を澄まされた視識で見切って青い光跡を引く剣で断ち切り、防ぎきれない分は纏う水の鎧でやり過ごし、強風に煽られるようにバランスを崩しながらも、嵐から逃れる鳥のように飛翔の力を維持して飛び続けた。動きを止めてしまえば、なす術もなくこの風に切り刻まれると直感して。
中空で襲い来る風の猛威の中を必死で捌きながら、拓矢は危急の声を上げた。
「瑠水、このままじゃ……!」
『スィリの本体を捉えましょう。これはすべて、スィリの《風光》の力です。あの子の動きを止めないことには、あの子の心を浄化することもできません』
瑠水はそう言うが、拓矢には風の中に隠れて高速で飛び回る翠莉の姿を視認することができない。瑠水の力で感覚能力を澄まされているにもかかわらず、それでも撹乱を加えた高速飛行を捉えるなどは、今の拓矢には至難の業だ。
「けど、どうすれば……速すぎて見えないよ!」
『拓矢は回避を、身を守ることに集中してください。私がやります』
言うなり、瑠水がその魂の力を目覚めさせ、その体が拓矢の背中に追従するように現れる。拓矢に同化し力を分け与えていながら、今の瑠水は拓矢に背中を合わせるようにその霊体を現し、自身独立して力を行使していた。その間にも襲い来る風の刃を拓矢が必死で捌く中、
『そこですね!』
閃くような言葉と同時、光速の反応でその接近を察知した瑠水が即座に拓矢の周囲に水光の障壁を展開し、死角から空を穿つように迫っていた翠色の突閃を水圧で受け止める。さらにその霊体から青白い霊気が溢れ、拓矢の体を囲う青い光の方陣が呼応するように光を放つ。
《量の理を占める水(Glam di cion)、彼の源より溢れ大気を満たし(amfelt lem aragoun)、その圧の内に光を捕えん(greim amrou mi felnyeia)》
「蒼聖碧流(フル・エリミエル)・知恵の形相(エイドス・コクマ)・捕縛の理(バインド)――《空密の水牢(コルドス・エンギオ)》」
力を発現させる詞が唱えられると同時、二人を取り巻く空間に変化が起きた。
拓矢と瑠水を中心に空中の一定範囲に区切るような円形の線が引かれ、囲われた空間を、まるで球体に水が流れ込むように、質量と圧力を持った青い水の光が埋めていく。
線で囲われた範囲は、ちょうど拓矢達を襲っていた小さな嵐をすっぽりと囲うほどのものだった。荒れ狂う風はまるでガラス玉の中に囚われたようになり、そこに水が満ちていくとなれば、どうなるかは目に見えていた。
物理的に言っても、空間を埋める水の中では空気は少なくとも空中のように自由には動けない。どうやら瑠水の《水光》の力は翠莉の《風光》の力に対して、天敵的な相性を持っていたらしい。
暴れ回っていた風が、中を占める水に呑まれて消えていく。
やがて、水の牢獄は嵐の中心を完全にその内に捕えた。
「どんな鳥も、水の中では飛べません。少しだけ許してね、スィリ」
水牢の中心で拓矢を包む障壁を張りながら、瑠水がすまなさそうに呟いた。
空気を奪われた水の中、翠莉はやがてもがく力を失った。
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