Cp.2-3 She's Stoming(1)

 拓矢達の住む神住原市は、東京都と神奈川県の境近くに位置している。

 元々は神住原というこの地域に古くから根を下ろしている二つの町だったが、今から二十年ほど前に行われた地方都市再生計画の一環で、当時新開発を推し進めていた現在の新都に当たる神住市と、川を隔てて隣り合っていた旧市・彌原町の間での地域再編成の合意により、両市は一つの町として再構成され、新生神住原市となった。成立後の現在では、両者の有していた旧き神域と新鋭都市という二つの色の同居する町として穏やかな人気を保っている。

 町は、中央を流れる御波川により、新都・神住市と旧市・彌原町の二つに分かたれている。

 新都と呼ばれる旧・神住市は、神住原市成立にあたり同市の地域再生計画による新開発・都市再生化が進められている市街地であり、再建都市のプロトタイプとして現在も注目を浴びている。地域再建を推し進める最新鋭のオフィスや商業施設が多く立ち並ぶ中、自然公園やレストスペースが至る所に設けられ、未来的ながら心のゆとりを感じさせている。こちらには乙姫の実家である名草家が市の成立前から居を構えており、乙姫はこの新都の市役所に勤めている。

 一方、旧市と今も呼ばれる住宅街こと旧・彌原町には一戸建ての住宅が多く立ち並び、昔ながらの町並みや学校、商店街、神社など、川向こうの市街地とは別の形でより市民に近い形の店舗や施設があり、昔ながらの市民の生活を支えている。都会の喧騒から離れた穏やかな空気が満ちており、人々は簡素ながら温かみのある生活を送っている。拓矢達の家、奈美の実家の病院、幸紀の実家の神社、由果那の実家のパン屋や学校はこちらの彌原町側にある。

 この二つの町を、御波川に架かる大鉄橋・彌原大橋が繋いでいるのが、神住原市の概観である。この鉄橋と構造自体は神住原市が成立する前から既にあり、新都市成立に当たりこの大橋も大規模な改修を受け、現在では車道・歩道共に両岸を繋ぐ交通の要衝となっている。

(っくそ……間に合ってくれよ……)

 その大橋の上を、拓矢は息を切らしながら、新都に向かって全力で駆けていた。焦りのせいか、一向に市街に近付いている気がしない。

 逸る気持ちを押し止めつつ、拓矢は自らの足の遅さと息の続かない自分にぎりと歯噛みする。しかし人間、足を使って移動するより他にない。

 と、思っていたところに、唐突に瑠水が言葉をかけてきた。

「拓矢、飛びましょう。私が『力』をお貸しします」

「え……」

 あまりにもさらりと提案された話に、拓矢は当惑する。

「飛ぶ、って、どうやって……飛べる力が、あるの?」

 拓矢のその言葉に、瑠水は頷きを返した。

「『神装』の一つに『翼』があります。あなたの魂と精神がその力を引き出すことができれば、私はその力を開放してあなたの使役できる力とすることができます。移動のためだけでなく、あの子に――スィリに対抗するためにも、飛行の能力は使えた方が良いでしょう」

 翠莉に、対抗。

 やはりとは思ったが、瑠水の切迫した声の色を見る限り、その可能性は高いらしい。

 だがそれ以外に、拓矢はどうしても問わずにはいられないことがあった。

「そんな……そんな簡単に、飛べるものなの?」

 鉄棒の逆上がりすらできなかったこの身が空を飛ぶなど、とうてい考えられなかった。

 拓矢の言葉に込められた疑念を読み取ったうえで、瑠水は語りかけた。

「あなたの心の中には、飛翔への願いがあるはずです。それを解き放ち、今の私とあなたの精神力と想像力を具現化することができれば、飛翔の翼は使えるようになるはずです」

「飛翔……」

 その言葉を受けて呟きを返した拓矢に、瑠水は肯きを返した。

「探してみてください、拓矢。あなたの魂の深奥に眠る、願いの力を」

 瑠水の言葉には、拓矢の内に眠るその力を確信しているような所があった。

(飛翔……僕の中の、飛翔の願い……)

 拓矢は想像してみる。心話のように、思惟の深淵の中に心の奥底を探る。

 空を飛ぶ。飛翔。地を離れる。解放。重力から抜け出す。自由。無限の空へと飛び込む……闇から抜け出す。光へ向かう。光の彼方の存在を求める、願い……!

 闇の中に、失った家族、友人達の顔、そして瑠水の姿が、瞼の裏に閃いた。

 そこまで回想した所で、拓矢はふいに思い至った。

 瑠水の言った通り、自分の中には、「飛翔」を――重力から解き放たれ、遥かな空の光を願う心がある。

 飛翔の力に必要なのが、単純な運動神経などではない、それを願う心だというのなら。

 使えるかもしれない。翼を。飛翔の願いの力を。

「わかった。使い方を教えて」

 拓矢の言葉に瑠水は頷き、霊的流体となって拓矢の魂の深奥に潜航。拓矢の精神に自らの精神を融け合わせ、形成のイメージを元に意識を集中・高揚させていく。

『拓矢。以前もお話ししましたが、精神体である私が提供できる力のほとんどは、あなたの意志によって起動され使役されるものです。その力の姿形・用法・強さ、その全てを決めるのは、あなたの想像力と意志力です。細かい補足は私がそのつど助けますが、基本はそこにあります。これから発現させる翼も同じことです。とりあえず、それを覚えておいてください』

 瑠水の説明に、拓矢は迷いなく了解の頷きを返す。

 その解説は、かつて最初の契約の時に瑠水から受けた「力」の使い方の説明で聞いていたことだった。ティムとの決闘に加え、悪夢の世界からの瑠水救出の際の赤組のレクチャーにより、今ではその力の使役の感覚は拓矢の内にもだいぶ馴染んできていた。

 拓矢の同意を得、瑠水は新たな「力」を開放するための祈詞スピラを唱え始める。

《青の色彩を冠す天虹の欠片より詞を捧ぐ(La mul asplemis mel sen melow )。我が深奥より来たる希望の雫よ(Ras mals sven lagnal melfilio)。鍵となりて(Aspaul)、閉ざされし光(Shemnail)、眠りし力の門を開き給え(melkt lo mal kledwish)。

 望みしは飛翔の力(Is mea pals las fyeale )。星の鎖から御身を大いなる天空へ解き放つ自由の翼(Las fhalt emlbelia saltyskeara)!》

 瑠水の詞が唱えられると共に、拓矢の胸の内に熱い想いが湧きあがる。

 心の奥深くに眠っていた、空の渇望、飛翔の願い、魂の解放。

 瑠水の光がその深奥の願望に触れ、心の封印は弾けた。

 魂の門が開かれ、全身に溢れ出す力を感じながら、拓矢の胸の中央から意志の声が発される。

 ずっと、飛びたいと思っていた。

 心を暗闇に縛り付ける、全ての束縛を、断ち切りたかった……!

《 ―― 飛ぶ ―― 》

 解き放たれた魂の願いが、瑠水の力により拓矢を包む聖域の内に現される。

 深奥の意志が、瑠水の練り上げた形成の霊力と混ざり合い、それは形を得るに至る。

《汝の願いを顕さん(Lis fer meie)――飛翔の願いを(Altisphiar)!》

 瑠水の言葉と共に、青い光の円陣が中空に現れ、拓矢の周囲を結界のように囲う。

「蒼聖碧流(フル・エリミエル)・基礎の形相(エイドス・イェソド)――《蒼き翼(アル・シェット)》」

 瑠水の声が身の内に響いた次の瞬間、拓矢の意志と瑠水の力が融合した光が拓矢の背中から溢れ出し、鷺のような一対の翼が現れた。背中から生えているのではなく、見えない結合で繋がっているように固定され漂っている、蒼白の光の翼。

 それは、心の奥にある願望の力が想像力により具現化した、願いの光翼。

 現れたその翼そのものが、拓矢の魂を飛翔へと向かわせる。

( ―― 飛べる ―― )

 幻想体へと転化した身と心が軽くなっているのを拓矢は感じ、一息。

「行こう、瑠水」

「ええ、行きましょう、拓矢」

 声と心を重ね、拓矢は空へ飛び込むように地を蹴る。その手を取り空へ導くように、存在を包み込む瑠水の翼が重力の束縛を断ち切り、拓矢を空へと舞い上がらせる。鳥のように羽ばたきの風で飛んでいるのではない、「飛翔を願う心」を瑠水の《聖域》の力が飛翔の「現象」へと変換し、奇跡のような力で聖域次元の内にある拓矢の体を空へと導いている感覚。

 浮遊と飛行の感覚を体と心で覚えるように、拓矢は上空へ向けて飛翔、彌原大橋の鉄橋部分の中程の高さまで上昇した所で、意を決して前進と加速を志向。瑠水がその意志を翼を通して全身に伝え、次の瞬間に拓矢は一気に加速。大空を行く青鷺のように悠と空を駆けた。

 時間を忘れるほどの飛行の感覚に、景色が流れる青の光の中に融けてゆく。

 体を支えるもののない空中を矢のように飛ぶ感覚は、慣れない身にはジェットコースターなど比ではないほどに怖い。しかし一方で、浮遊と疾駆の速度の内に自らが光のように融けて流れていく感覚は、鎖から解き放たれた天使の空帰りのような身と心の軽さを感じさせていた。

 眼下に御波川の水面を過ぎ、見る見るうちに新都の市街地が近づいてくる。

 その、不可視の青い光跡を流す飛行の中で、拓矢は瑠水に問いかけていた。

『瑠水。翠莉ちゃんは無事?』

 拓矢の問いに、瑠水は深刻そうな声を浮かべた。

『今の所はまだ存在の危機には至っていないようですが、精神を黒の狂気に侵食されて、自我を見失っているようです。このままでは、スィリは危険です』

 瑠水の深刻な言葉に、記憶を起こされた拓矢は暗澹たる心持ちになる。

 黒の闇に囚われた瑠水の混沌とした心を、拓矢は見て感じたことがある。

 自らを縛り付ける棘に心身を傷つけられ、血のような痛みの涙をとめどなく流す姿。

 できることなら二度と思い出したくない光景。翠莉と真事にも、そんな目に遭ってほしくない。

 拓矢の不安を見取った瑠水は、その不安を共有するように口にする。

『スィリは私達の中でも一際純真無垢で、明るく心優しい反面、脆く傷つきやすい子です。ただでさえ人を傷つけることを好まないあの子が、知らない内に自分の手で多くの傷を作ってしまったと知れば、あの子の心に刻まれる傷は計り知れません。そんな理由であの子が痛みを受けるのは、私にも耐えがたいことです』

 瑠水の言葉は、かつてないほど真に迫ったものだった。彼女にしても、妹のような翠莉が理由のない痛みと悲しみを負うことは容認できるものではないのだろう。

 大切な人に、傷ついて欲しくない……拓矢にはその想いが身に沁みるほどにわかった。

『いずれにせよ、このままではスィリが危険なことになります。急ぎましょう』

「うん……急ごう!」

 瑠水の深刻な声音に、拓矢は頷き、状況を見定め、決意を定め直すと、迷いと恐れを振り切るように、さらに加速した。


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