Cp.2-2 Fuzzy Sky Color(9)

 瑠水の応急処置のおかげでどうにか生死に別状がないほどに安定した真事は、結局桐谷病院へ担ぎ込まれることになった。診断はまたも「原因不明の外傷による強烈な精神的ショック」であり、奈美の父親であり病院長である桐谷きりや義孝よしたかは、

「いったいこれはどういうことなんだ、拓矢君。君の連れてきた二人の怪我人が揃って同じような状態とは。見た所何らかの外傷による精神的な損傷のようだが、どのような類の傷なのか皆目見当がつかん。私は新種の症例としてこの事態を学会に報告しなければならないのか」

 と、未知の症例が立て続けに二回も訪れたことに頭を抱えていた。

 病室に担ぎ込まれた真事の様子が心配だった拓矢は、奈美に学校に遅れていく旨を言づけた。奈美も拓矢と残ろうとしたが、拓矢は由果那を変に心配させないためにも奈美には学校に行っておいてほしいと告げ、奈美も渋々ながら「お弁当、持っていくからね」とそれに従った。

 拓矢と瑠水が見守る中、翠莉は嗚咽を漏らしながら、ずっと真事の手を握り続けていた。真事を傷つけてしまった自分の罪に怯えるように肩は震え、瞳には真事の無事を祈る涙を滲ませていた。生還を祈るその姿にかつての奈美の姿を重ねて見た拓矢は、胸が痛みを伴う感情に染まるのを感じていた。

 薄曇りの空から降り注ぐ朝の光が差し込む中、沈黙が病室の中を染めていた。

 やがて、翠莉の手の中にあった少年の手が、微かな力を取り戻した。

「ん……」

 眩しそうに眼を開けた真事に、翠莉が身を乗り出さんばかりの勢いで、

「マコト! 大丈夫? 痛くない? 熱ひいた?」

「翠莉……ここは……?」

 意識を取り戻した真事に、拓矢が安堵の思いと共に状況を話す。

「よかった。無事だったね、真事君」

「拓矢さん……僕は?」

「翠莉ちゃんを庇ってティムに斬られて、気を失っていたんだよ。彼の剣は心を切り裂くらしいから……どこか、おかしいところはない?」

「そう、だったんですか。変な所は……特にないみたいですけど」

 茫然となっている真事に、翠莉が喜色の涙を浮かべて抱きつく。

「マコト、ごめんね。わたしのせいで危ない目に遭わせちゃって……でも、無事でよかったよぉっ。もう、ぜったいマコトにケガなんてさせないからね……っ?」

 喜びに涙する翠莉のその肩を、真事がそっと掴み、引き離した。

「マコ……ト?」

 その行動の意味が読み取れないで戸惑う翠莉に、虚ろな声で真事は言った。

「翠莉……ごめん。やっぱりだめだ」

「えっ……」

 虚を衝かれた翠莉に、真事は沈んだ心で告げていた。

「さっき、あいつに斬られそうになった時、僕は君を離してしまった。あれはきっと、怖かったからだ。あれだけ言っておいて、僕は君を守ることができなかった」

「マコト……?」

 告げられていく灰色の言葉に、茫然となる翠莉。

「僕じゃ、だめだ。僕は弱いから。君を守れない。きっと、君には追いつけない」

 その顔から血の気が引いていくのにも気づかず、真事は無様な思いを垂れ流す。

「僕なんかより強い人間なんて、君にふさわしい人間だって、きっと世界中探せばいくらでもいる。何も僕なんかじゃなくたって、もっと君を大事にできる人間だっているはずなのに」

 そして真事は、彼だけは決して口にしてはならない言葉を口にした。

「何で……僕なんかを選んでしまったのさ、翠莉」

「――――――――」

 その言葉に、魂が零れ落ちたように翠莉の表情から生気が消えた。

 再び、沈黙が場を支配する。それは魂を蝕むような虚ろに満ちていた。

「――――ないの?」

「え?」

 ふいに零れ落ちた声に、真事は翠莉の方を見た。

 翠莉は、今にも溢れそうな感情の涙を、泣き出しそうな目に溜めていた。

「マコトには、わたしよりもふさわしい人がいるの? わたしじゃ、だめなの?」

「翠莉……」

 胸の奥から溢れ出す悲しみが、口にするたびに翠莉の心と全身を荊のように痛めつけていく。その表情が見る間にぐしゃぐしゃに崩れ、翡翠色の瞳が涙に濡れていく。

「わたしは、わたしは、マコトといっしょにいたいの。マコトのために、ここに来たの。なのに……マコトは、わたしじゃダメなの? わたしは……マコトと一緒にいちゃいけないの?」

 見る見るうちに涙に崩れていく翠莉の表情を見て、真事は己の間違いを悟った。

「翠莉……」

「マコトのバカ!」

 しかし、一足遅く、翠莉は泣き崩れそうな表情で背を向けて、病室から出て行ってしまった。

「あ……」

 後に残され呆然とする真事。

 その様を見ていた瑠水が、小さく息を吐いた。

「真事。今のはいけません。あなたはスィリの気持ちを考えていましたか?」

 瑠水の言葉は、わずかに糾弾の色を帯びていた。

「私達彩姫は、あなた達命士の魂の願いを聞いて生まれ、あなた達を魂の伴侶として選んで、この世界に来ているのです。存在を同じくするにふさわしい者として、世界中の人間の中から、ただあなた達だけを選んでいるのです。である以上、翠莉にとってあなたよりふさわしい人間は、世界中のどこにもいないのです」

「――――!」

 胸を衝かれた真事に、瑠水は深刻な調子で続ける。

「スィリは彩姫の中でも一際純真無垢で、傷つきやすい子です。加えて、先程までの戦いで、あの子はあなたを傷つけてしまったことをひどく悔いているようでした。きっと、先程のあなたの言葉で、見限られたと思ってしまったのでしょう」

「そんな……僕は、そんなつもりじゃ」

「あなたがそこまで考えていなかったにせよ、あの子は変に気にしてしまう所もあります。きっとあの子は過度に責任を感じてしまったのでしょう。こんなことを言うのも何ですが、スィリの気持ちをもっと気遣ってあげることができていれば、あんな言葉は出てこないはずです」

 そして瑠水は、荒療治と知りながら、真事に痛烈な言葉を突き付けた。

「スィリがどれだけあなたのことが好きだったか、あなたはわからなかったのですね」

「…………」

 瑠水の言葉に、真事は言葉を失い、俯いた。

 瑠水にしてみれば、きっと彩姫がどれほどの強い想いで命士を愛しているかが真事に伝わっていなかったことが悲しかったのだろう。それは妹のように大切な身内である翠莉のことのためでもあり、瑠水自身の経験から来ることでもあった。

 命を、魂を、存在を賭けた愛。

 全てを懸けて瑠水を守った拓矢は、その気持ちを理解することができた。

 本当に好きな、大切な人を失うのがどれほど怖いかを、拓矢は身を以て知っている。

 だからこそ、真事に、同じ過ちを繰り返してほしくはなかった。

 だが、話は……危機的状況はそこでは終わらない。

「ですが、あの子にも落ち度はあります。話すべきことをあなたに話していなかったのだから」

「……え?」

「私から話すのも何ですが、今のあの子がこれ以上どうなってしまうかわかりません。手遅れになる前に私からお話ししましょう。あの子の……彩姫イリアに課された存在の問題について」

 そして瑠水は、深刻な面持ちのまま、真事に翠莉の話していなかった、彩姫の真実を語る。

 イリスから分裂して生まれた翠莉が、内にあるイリスとの存在齟齬の問題を抱えていること。その問題をそのままにすれば、いずれ存在分裂により自我を失ってしまう可能性があること。

 その問題を解決する方策の一つとして、全ての彩姫の存在を一つに統合するという方法があること。そのために、彩姫の存在を喰らい合う戦いが起こりうること。負ければ、彩姫を奪われてしまうこと。

 全てを聞き終え、愕然とした真事の眼が、体が、湧き上がる危機の思いに震えていた。

「そんな……何で、何で教えてくれなかったんだ!」

 自らの不覚に震える真事に、瑠水はなおも重い口調で告げる。

「優しくて素直なあの子のことです、不用意にあなたを危険に巻き込みたくなかったのでしょう。もっとも、ティムの言った通り、それはあなた達の危険を回避させるどころか、あなたを危険に気付かせない結果にしかならなかったのですが」

「っ……」

 真事の瞳に明らかな焦燥が走る。その様子は、ついこの間までの自分の姿とそっくりだと拓矢は思った。自分と同じような思いをさせたくない、取り返しのつかないことにはさせたくない……そんな想いが、拓矢に自然と真事を励まさせていた。

「真事君。今なら、きっとまだ呼び止めれば間に合うよ。心話なら届くんじゃないかな」

「……わかりました。やってみます」

 拓矢の言葉を受け、真事は意を決したように目を閉じ、意識を集中させる。心話回線を通じて、翠莉との意思疎通を図っているのだろう。

 やがて、真事はゆっくりと目を開けた。

「……拓矢さん」

 真事は、魂の抜けかかったような声で言った。

「どうしたの?」

「何か、変なんです。翠莉の心を……魂を、感じられない」

「え……」

 その言葉に、拓矢の胸の奥が、嫌な予感にざわめいた。


 病室を飛び出した翠莉は、そのまま空へ飛び出していた。

 何も考えられなかった。体を動かさなければ、感情に絞め殺されてしまいそうだった。

 いくら飛んでも、胸をかき乱す感情はまだ治まらず、涙はとめどなく溢れ出す。

「マコト……どうして……?」

 胸の奥に浮かぶのは、いつまでたっても彼のことだった。

 自分では力になれない、もっと強い人間を探せばよかった、と真事は言った。

 まるで、ゆえに自分が翠莉のそばにはいられないとでも言うように。

(そんなの……わたしがそんなことでマコトを嫌いになるわけないのに!)

 見当違いもいい所だった。

 戦う強さとか、そんな理由で、自分は彼を選んだんじゃない。強かろうが弱かろうが、そんな理由で、彼を嫌いになるわけがない。

 彼が心の底から自分を求めてくれていたから、自分は彼のもとに来た。彼がどんな人間でも、どこまでも一緒に生きていくつもりだった。

 なのに。

 どうして、あんなことを言うの。

 どうして、一緒にいられないなんて。

 わたしは、あなたと一緒にいるために生まれてきたのに。

 わたしには、あなたしかいないのに――――

「……マコトの、バカ」

 ぐす、と鼻をすすり、翠莉は上空で飛行を止めた。

 眼下には、大河を挟む整然とした都市、神住原市の市街が広がっている。

「……どうしよう」

 空の中に立ち尽くしたまま、翠莉は途方に暮れた。

 今の乱れすぎた気持ちのままでは、真事の所に戻れる気がしない。そうかといって、この世界では真事の他に身寄りはない。

(どうしよ……シャリィのところに行こうかな。サキがいてくれたならよかったんだけどなぁ。仲直り……できるかな)

 うーん、と身の振り方を考え込む翠莉の所へ、


 ビュルッ! と、突如、地上から黒い荊が、蛇のように鋭く伸びてきた。


「え、ッ……」

 何を思う間もなかった。

 気の乱れていた翠莉は、反応する間もなく黒い荊に全身を絡めとられた。

「あ、うッ⁉」

 全身に絡みついた荊の棘が、翠莉の可憐な肌に、吸血鬼の牙のように食い込む。

「痛、ッ……!」

 チクリとした痛みと共に、胸の奥にざわりとした何かが蠢くのを感じた時、翠莉は戦慄した。

 だが、もう遅かった。

 棘の牙から、悪魔の血のような邪悪な力が液となって翠莉の躰に流し込まれる。

「あ、あ……い、いや、ぁ、ぁあうああぁああぁぁッ‼」

 魂を侵される恐怖と、存在を書き換えられる痛みに、翠莉が絶叫を上げた。

 邪念に染まった悪しき血が、無垢な魂を塗り潰すように染め上げていく。

 黒い荊が、繭のように翠莉を包み込み、歪んだ成虫へと作り変えていく。

「あっ、あぁ、っ、い、やあっ……! たす、けて、ッ、マコト――――ッ!」

 魂消たまぎる絶叫を最後に、翠莉の精神は闇に呑まれた。

 やがて、包み込む黒い荊の繭が解ける。

 そこに、翠緑の少女の光は既になかった。

 生命の血色を奪われた、石のように冷たい色の肌。

 荒ぶる感情の滾る、悪しき激情に侵された血色の瞳。

 纏う風すら、血風のように赤く、狂った殺意に色づいている。

 そこには、爽風の色を狂気に染められた翠莉が、荒ぶる邪気を纏って中空に座していた。

「マ《Lwi《コklau《sトeil《kilい《meやil……た《raGista》す《el《raGzal》け《for《meて《frame――‼』

 ノイズのように狂気にかき乱される翠莉の精神は、もはや正気を保てない。

 暴虐の嵐のように荒れ狂う感情が、翠莉の心身を支配する。

 そこに、どこからか響いた思念の声。

『さあ、狂い疲れるがいいわ。解き放ちなさい、スィリ。あなたの闇を!』

 崩壊を誘うような、妖しく危険な声。

「 ――――――    ―――――― !」

 その声が魂を震わせた時、翠莉の心が感情の衝撃に砕けるように弾けた。

 

 突然、拓矢達の胸に、黒いノイズが走った。

「ッ⁉」

 突然胸を襲ったざわめきに、拓矢は言い知れぬ悪い予感を覚える。

 一瞬の内に胸を過ぎった、血色の黒に溶かされる緑色の光、それらをかき乱す激しいノイズ。

「何だ、今の……」

 不穏な思いに胸を染められる拓矢に、瑠水が深刻な面持ちで告げた。

「拓矢。この波動は、イェルの……黒の魔女のものです。おそらく、彼女の襲撃を受けて、スィリの魂が狂気に侵食されています」

「何だって……!」

 告げられた事態に、拓矢は全身が総毛立つ。

 魂を揺さぶる喪失の恐怖に急かされ、拓矢はすでに動き出していた。

「瑠水、翠莉ちゃんの場所、わかる?」

「ええ。精神索敵はそれほど得意でもありませんが、これほどの強い波動なら感知できます。どうやら、破壊の気配と共に市街地で暴走しているようですね」

「市街地……」

 瑠水の観察結果に、拓矢はさらなる戦慄に見舞われた。

 市街地――神住市新都の市街はそれなりの規模を持ち、人の行き来の量も多い。もしも翠莉が暴走の末に市街を破壊しようものなら、市街に混乱が生じるだけでなく、翠莉自身も破壊の爪跡を自らに感じることになるだろう。ただでさえ無垢で何かを傷つけることを嫌う翠莉のことだ。自分の手でそんな破壊をもたらしたと知れば、翠莉が心に深い傷を負うのは想像に難くない。

 いずれにしても、翠莉にとってとりかえしのつかないことになりかねない。

「真事君。行ける?」

 拓矢は駆けだそうと逸る気持ちを抑えて、真事に声をかけた。

 翠莉を救いに行くのなら、彼がいなければ始まらない。

 一も二もなく、真事はついて来る――そう、思っていた。

 だと、いうのに。

「…………」

 真事は、顔を俯かせて、言葉を発しない。

「真事、君?」

 予想外の様子に戸惑う拓矢に、真事はぽつりと零した。

「だめです。僕じゃ、翠莉は止められない。それに、翠莉を手放したのは、僕のせいだ。僕に……翠莉を助ける資格なんて……」

 後悔と、絶望に満ちた言葉。このままでは翠莉を失ってしまうかもしれないのに、なおも自意識の泥沼に浸かったままの心。

 その言葉に、拓矢は、どうしようもなく悲しくなった。

 かつて、拓矢は自らの不覚悟から、自らの命を失いかけ、大切な人の心配を失いかけ、そして、瑠水を失いかけた。それは、拓矢の心の真ん中に、終生消えない杭として残っている。

 今、目の前にいる少年は、その自分と同じ過ちを犯そうとしている。

 だからこそ、その言葉が自然と心から零れ落ちていた。

「……本当に、それでいいの? 真事君」

 拓矢の言葉は、耐え難い悲しみに染められていた。

 真事はそれでも、言葉を失ったまま、顔を上げない。

 沈痛な沈黙が、部屋に満ちる。

 やがて、拓矢は瞬きを一つすると、

「瑠水。行こう」

 迷いを振り切るように、顔を上げた。

「はい!」

 瑠水は迷いなく凛と返し、拓矢の意志を汲み取る。

 背を向け、病室を出ようとするその寸前、拓矢は、真事に言葉をかけた。

「真事君。先に行って、翠莉ちゃんを止めてみる。だから、待ってるよ」

 熱を帯びた言葉を残し、拓矢は真事の病室を出る。

 ――絶対に、だめだ。

 蘇る喪失の恐怖に、拓矢の魂が震える。

 翠莉の精神世界で語られた真事の想いを、拓矢は知っている。

 真事が、翠莉を大切に想っていることを、拓矢は知っている。

 ただ自信が持てないためにその想いを遂げることができないことも、拓矢は知っている。

 だからこそ。

 ――絶対に。絶対に、翠莉ちゃんを失わせてはいけない。

 拓矢は決意を固めていた。

 今の真事は、かつての拓矢そのものだった。自らの不覚悟のために大切なものを永久に失おうとしていたかつての自分が、今の真事に寸分違わず重なっていた。

 だからこそ。自分と同じ傷を、耐え難いほど苦しい痛みを、彼に背負わせたくはない。

 自分は、こんなにも痛いのだから。

 大切な人を失うことは、言葉に尽くせないほど、魂を傷つけてしまうのだから。

 それを、同じ痛みを、たとえ自分でないにせよ、もう二度と味わいたくはない。

 であるならば。

 目の前の真事を、かつての過ちを犯そうとしている自分を、見過ごせるわけがなかった。

 拓矢が病室を去った後も、真事はなおも俯いていた。

(僕に……何ができるっていうんだ……)

 その胸の内を、渦巻く想いに責められながら。


 病室を出ると、扉の脇の壁にティムが背中を預けて立っていた。

「ティム……もしかして、聞いてた?」

 問いかけに対し、ティムは憮然と鼻を鳴らした。

「ふん。この間までのお前といいあれといい、私以外の命士はどいつもこいつも腑抜けが多すぎる。一人では姫を救けに行こうとすらできんとは、呆れて物も言えん」

「……そうだね。返す言葉もないよ」

 ティムの辛辣な言葉に、拓矢は困ったように笑って頭を掻く。その表情にはもはや恐れや迷いはなかった。ティムは拓矢のそんな顔を見て、厳粛な表情のまま、その視線の鋭さを微かに和らげた。

「だが、お前は少しはものになったようだな。行くのか」

「うん。君の言う通り、今の彼は前までの僕と同じだ。だから、放っておけないよ。前までの僕は、僕も……見てられないから」

 それは、自らの痛みと向き合い、覚悟を決めた心だった。戦いに赴こうとする意志を示す拓矢の瞳に、曇りはなかった。

 ティムはそれに興気な顔をしながら、ふん、と鼻を鳴らし、

「私は行かんぞ。あのような、覚悟はおろか想いすら定まらない腑抜けに力を貸してやる道理はない。行くならば一人で行け。今回は私は力を貸さん」

「うん。わかった」

 腹を決めていた拓矢は、ティムの言葉を素直に受け入れた。

「いってらっしゃい。あなた達の善に炎の光輝があるように祈ってるわ。大丈夫よ。いざとなったら助けに駆けつけてあげるわ。ティムはこう見えて結構なお節介だし、あたしが命じれば嫌とは言えないんだから」

「エルシア様。余計なことを仰らないでください」

 エルシアの言葉に、ティムが迷惑そうな表情を浮かべる。

「ええ。もしもの時は頼りにさせてもらいますね、エルシア」

「ありがとう、灼蘭エルシア、ティム。それじゃあ、行ってくるよ」

 その言葉を受け取った拓矢は、隣にいる、もう二度と失いたくない愛しい天使に視線を向け、共に生きる言葉をかける。

「行こう、瑠水。翠莉ちゃんを、――真事君を、救けよう」

「はい。行きましょう、拓矢」

 信頼と共に見つめ返す瑠水の凛とした言葉を受け、拓矢は足を前に踏み出す。

 大切なものを守るために。もう二度と、失わないために。

 自らの傷をもう二度と繰り返させないために、拓矢は走り出した。


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