Cp.2-3 She's Stoming(4)

 黒の魔女は、嘲るような笑みを浮かべながら、皮肉気な口調で返した。

「憶えていてもらえるなんて光栄ね。青の命士様イクサ。もう傷はいいのかしら?」

 あからさまにからかい手玉に取ろうとするかのような、悪意に満ちた薄笑う声。

 耳から入り、頭に入り、胸に入り込むその声に、魂を乱されるような不快を感じ、拓矢は顔をしかめる。付き合ってはならない、というティムの警告の意味を、拓矢は感覚的に理解した。

 表情を濁った色に染めた拓矢を見て、魔女は喜悦の表情を浮かべる。

「あら、私を見るだけで気分をしかめちゃったの? 嬉しいわぁ。あなた達が心を乱すのが、私の最高の快楽で生きがいなのだから。うふふふふふ」

 暗い色に染まった喜悦の笑いを漏らす魔女。憎しみと怒りの胸を濁す色に心を染められそうな拓矢を庇い前に出るように、瑠水が魔女に声をかけた。

「イェル。この前は、世話になりましたね」

 静かに燃える怒りを秘めた瑠水の声は、しかしなぜか、かつての友に話しかけるような気負いのなさを含んでいた。

(瑠水……?)

 違和感を覚える拓矢をよそに、黒の魔女と瑠水の間に言葉が交わされる。

「あら、珍しいわね、ルミナ。貞淑なあなたがそんな目をするなんて」

「あんな辱めを受け、拓矢を酷く傷つけられれば、怒りも湧こうというものです」

 魔女に対する瑠水の声は、怒りの色を滲ませながら、しかしやはりなお不思議な親しさを持っていた。さながらエルシアに――旧友に対する態度にも似たような。

 拓矢の困惑を脇目に、瑠水は詰問の言葉を魔女に投げた。

「イェル。貴女の憎しみも怒りも、私が癒してあげることができるものではないことは、わかっているつもりです。貴女の意志を咎めることができないことも」

 そう言いながら瑠水は魔女の黒い瞳を、心の内を見通そうとするように真っ向から見据えた。

「けれど、私にも守りたい人が、傷つけたくない人がいるのです。それを貴女が手にかけようとするのなら、私は貴女に刃向かうほかありません」

 そして、その視線の先にいる魔女の心の奥に訴えかけるかのように、言った。

「お願いです、イェル。もうこんなことはやめてください。私達をいくらかき乱し弄んでも、貴女の願いは叶いません。今の貴女の行動は、私達にとっても貴女にとっても、善ではないはずです。こんなことでは貴女自身も幸せにはなれません」

 切実な想いを込めて語りかけられた、希う説得のような瑠水の言葉。

 その言葉に、魔女の表情が見る間に憎悪に染まるように歪み、怨嗟の声を吐く。

「相変わらず品行方正でお利口ね、ルミナ。知ったような口を利いて。そんなお得意の小綺麗な理屈でこの私を組み伏せられるとでも思ってないでしょうね」

「ええ。今の私にも譲れないものがあります。貴女に私達と同じ道に戻ってほしいという思いは本当ですが、今の貴女が私の大切な人を傷つけようとするなら、私は貴女に立ち向かうしかありません。そのどちらも、本当の気持ちです」

 真っ向から立ち向かう姿勢の瑠水の言葉と瞳の光に、魔女はうんざりしたような表情を見せた。

「ふん。そんなことだろうと思ったわ。ま、気障キザな憐れみみたいなものを見せないだけマシか。それならこちらも遠慮なくあなたを虐められるしね。ふふふ」

 妖しい笑いと共に、魔女の全身から内なる闇を凝縮したような濃密な戦意が滲み出し、瘴気のように大気を侵食してゆく。その黒い瞳は爛々として、暗い衝動に染まっていた。

「イェル……!」

 口惜しげに魔女の名を呼ぶ瑠水を隣に、拓矢は胸の内に湧いたいくつもの疑問を一旦措き、現状を把握する。

 相手にしなくてはならないのは、目の前に現れた黒の魔女だけではない。魔女の上空には、今もなお翠色に脈打つ神の卵が浮かんでおり、その中では翠莉の変容が進んでいる。

 今、何よりも優先すべきは、翠莉の神体化と暴走を止めること。

 しかし、魔女がそれを阻もうとしている以上、相手にしないわけにもいきそうにない。

 拓矢の判断の揺れをさらに嘲笑うように、魔女が告げてくる。

「ああ、そうそう。この子、スィリは今宿主との心通を絶っていて、出力も全部この子のものだから、力が足りなくなればこの子の聖域能力は解除されるわ。そうなってもこの子は泣き疲れるまで暴れ続けるでしょうけどね」

「何ですって……!」

 悪辣にほくそ笑む魔女の言葉に、瑠水が言葉を失い愕然とする。

 認識を隔絶させることで霊体の存在を隠している聖域が解除されれば、翠莉はその姿を現世次元に晒してしまう上に、その存在の力が尽きるまで暴走させられるだろう。そうなれば周囲に被害が及ぶばかりではなく、諸悪の元凶として翠莉は世間に認識されてしまう上に、翠莉自身も力尽きてしまう。その後に翠莉がどんな状態になってしまうのか、想像するにも寒々しい。

 瑠水は、様々な感情の入り混じり震える声で魔女に語りかけた。

「イェル……貴女、どこまで堕ちてしまったのですか」

「今さら何よ。そんなことはあなた達だってとっくにわかっているものだと思っていたけどね。まだわからないようなら、何度でもわからせてあげるわ。さあ、どうするの、ルミナ?」

 開き直るように言い放つ魔女は、一切の糾弾をすら嘲笑うような殺伐さを漂わせていた。

 言葉に尽くせない悲哀の色の感情に瞳と肩と唇を震わせる瑠水。

 その、悔悟の責に震える細い肩を、拓矢は隣に立ち、そっと力強く抱き寄せた。

「拓矢……?」

 驚きに潤んだ目を瞠る瑠水に、拓矢は自分の心に丁寧に選んだ、飾らない言葉をかける。

「瑠水。あの人と君との間に何があったのか、僕にはわからない。あの魔女との間で君が何をそんなに苦痛に感じてるのか、その理由はまだ僕にはわからない」

 そして、憂いを帯びた瞳で、瑠水の揺れていた瞳を見つめながら、言った。

「けど、どんな事情があったとしても、僕は君にそんなつらそうな顔をしてほしくない。理由はわからなくても、君にそんな悲しみを味わわせたくない」

 言って、拓矢は瑠水の肩に手を置いた。その手から、想いが温もりとなって心に沁み渡る。その温度が瑠水の心を縛る荊のような感情を溶かすことを願いながら、拓矢は言った。

「だから、君をそんな思いにさせてるものから、僕は君を守りたい。君の痛みを和らげるそのために、僕も君を助ける力になりたい。これって……身勝手かな?」

「拓矢……」

 拓矢の不器用ながら純粋で真摯な想いを浴びた瑠水は、やがてやわらかな微笑みを取り戻し、小さく首を横に振った。

「いいえ。そんなことはありません。私も、拓矢を悲しい想いにはさせたくありませんから。そのためなら、私も……戦えます」

 そして、自信を取り戻した表情を見せる。それを安心と共に見届け、

「瑠水。どうする?」

「今私達が為すべきことはスィリの解放です。それにはイェルの――魔女の妨害を掻い潜りながら、あの卵の中核にいるスィリの心に接触するしかありません」

 拓矢の言葉に、瑠水はわずかに考え込んだ後、作戦の言葉を返した。

「イェルの能力は非常に高い上、神体の卵殻は分厚い霊力の壁のようなものです。突き破るにはかなりの貫通力が必要な上、その中にいるスィリの心に根付いた狂気を取り除くには、先程話したような困難な状況があります」

 より根源部に干渉できる者が必要という話だろう、と拓矢は思い出す。

 状況はかなり厳しいようだったが、拓矢に引き下がる気は起きなかった。

(せめて、もう一人相手になる人でもいてくれれば……いや)

 脳裏に浮かんだ弱気な考えを、拓矢はすぐに振り捨てる。

 瑠水を、大切な人を守るのに、いつの時も手助けを必要とするわけにはいかない。

 ただ一人では大切な人も守れない、そんな自分は嫌だった。

 一度その手で瑠水を奪われ穢された魔女を目の前にして、その想いはすぐに強固になる。

 瑠水は、大切な人は、僕がこの手で守る。そのために、戦う。

 その決意が形を成した時、拓矢の口からは自然と呼びかける言葉が紡がれていた。

「瑠水。戦おう。今は翠莉ちゃんを助けないと」

 心の中心から溢れ出た、純粋な言葉。

 その清浄で純真な力を宿した言葉に、瑠水は応えるように頷き、拓矢にその手を差し出す。

「拓矢、手を貸してください。私はあなたの力になります」

 その意味を悟った拓矢も頷きを返し、その手を絡めるように重ねた。

 繋がれた手を通して二人の心が回線のように繋がり、澱みない意思が通じ合う。

 拓矢の水のように透き通った意志に応じ、瑠水がその形態を変えていく。

 やがて、青白い光と化した瑠水の手を、拓矢は振り抜くように払った。

 その手には、剣に姿を変えた瑠水が、青白く澄んだ錬気を纏って握られていた。

《「具現(Forme)」蒼聖碧流(フル・エリミエル)・勝利の形相(エイドス・ネツァク)・纏剣の姿(フォルマ・ブレイド)――「瑠水月剣(ルミナス・ソード)」》。

「『聖域エリア展開フィールド』」

 言葉を重ね、力の発現と共に、青い光の方陣が拓矢の周囲を囲む。

 青く眩い光を身に纏い、氷色の流剣を手にし、拓矢は眼前の魔女を見据えた。

 迷いなく透き通った想いを宿したその瞳は、蒼玉のような青色に染まっていた。

 

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