Cp.2-1 Brand New Day With Bright Bride(3)

 学校の近くまで来て人通りが多くなってくる頃になって、ようやく拓矢は奈美の猛烈なアタックから解放された。我に返った奈美は自分のしていたことにひどく顔を赤面させていた。

 2‐Bクラスの扉を開けると、一瞬クラス中の視線が自分に集中したのを見た。拓矢は一瞬不穏な心持ちになったが、気にしないふりをして自分の席に向かった。

 気のせいかもしれないが、さっきの視線は今までとは違う――何か、警戒心のようなものが混ざっていたように感じられた。自分が不安を感じたのもそのせいだろう。

 数日前、拓矢は瑠水の姉妹であり「使命」のライバルである赤の彩姫とその契約者の襲撃を受け、学校の屋上で激烈な戦闘を繰り広げた。認識隔絶領域を展開していたために屋上での戦いを知る者はいなかったが、その直前に教室でも小さな衝突を見せていたため、当事者が彼であることをクラスメイトは間近で見ている。異常な事情に警戒心を抱くのは当然でもあった。

 周りから奇異の視線がチクチクと刺さるように感じながら、拓矢は落ち着かない気分で自分の席に着いた。元から関わり合うことのない相手だとわかっていても、心が落ち着かない。いつものように意識を逸らそうと、窓の外に目を向けようとした。

 彼の陰鬱になりかける心中を察した瑠水は、何も言わず、拓矢の傍に立ちながら心を繋いで、拓矢に寄り添う想いを送り込んだ。言葉でもない純粋なその想いは明確な形を持たず、しかしそれゆえに形を違えられることなく拓矢の胸に沁みこんで、彼の心をじんわりと癒した。

 と、机の上に、コト、とミルクコーヒーの缶が置かれた。プルタブが開いている。

「飲む?」

 拓矢が声の方に顔を上げると、そこにはこちらを見下ろす荒井由果那の姿があった。

「いいの? これ、開いてるけど」

「何よ。あたしの口付いたのはイヤ?」

 由果那はきつい目つきで睨むように見てくる。その視線はしかし、少しも痛く感じなかった。

「そういうわけじゃないけど。じゃあ、一口」

 拓矢は感謝を示して、コーヒーを一口飲む。何となく、優しい味がした。

「おはよ、拓矢。と……あんたもいるのね」

「おはようございます、由果那」

 由果那の挨拶に、瑠水は自然に応えた。由果那は何が不服か鼻を鳴らす。

「おはよ。ま、変に責任感じられちゃこっちもたまんないからね」

 仕方なさそうに言う由果那の言葉は、暗に瑠水の存在を認めていることを示していた。瑠水はそれを感じ取って微笑んだ。瑠水のそのペースに呑まれる前に、由果那は話を切り替えた。

「拓矢、今日バイトでしょ。ウチまで一緒に帰ろ」

「あ、うん、いいよ」

 拓矢は普通に答えかけて、はたとすぐ隣にいる瑠水の存在を思い出した。瑠水はきょとんとした顔をして拓矢を見る。拓矢はそれを見ると、由果那に許可を求めるように言った。

「ユカ、瑠水も一緒に来るけどいいかな」

「邪魔になるからついて来んな。って言いたいとこだけど、どうせあんたは離れる気はないんでしょ」

 由果那は二人を試すように言った。瑠水はそれに微塵も動じず、さらりと答えた。

「はい」

「ったく……邪魔はしないでよ」

 由果那は渋々ながらそう言った。拓矢は彼女の心底の優しさに感謝する。

「ユカ、ユキは大丈夫かな」

「この前見に行った様子じゃ、もう心配はないでしょ。あいつのことだし、体がちゃんと動くようになればまた戻ってくるわよ」

 由果那の言葉に、拓矢はほっと胸をなでおろす。

 逆を言えば、あの幸紀が数日間寝込まなければいけないほどの重態だったということだが。

「ちょうどいいか。ユキがいない間に訊いておこ」

 由果那はそう言うと瑠水の方に向き直り、瑠水の目をキッと見据える。

「あんた、何者なの? どこから来たの? 何で拓矢を選んだの?」

 由果那は瑠水に訊いた。拓矢が瑠水を見ると、瑠水は心配ないとばかりに首を振った。

 瑠水はそれに改めて説明した。自分が幻想界から来た神の娘であること、この世界で生きるための試練を共にする伴侶として拓矢を選んだことを。

「神サマの娘、実体を持たない精神の世界の存在、か。まるっきり幽霊だわね」

「ユカ、そんな言い方は」

「あたしがそう思うってだけよ。何もあんた達を否定してるわけじゃない」

 由果那は拓矢を諫めると、重い感情のこもった深いため息を吐いた。

「はぁ……あたしは幽霊だとか神サマだとかあんまし信じる方じゃなかったんだけどさ。あんたの話がそうなると神サマに一回会ってみたい気分よね」

「えっ……?」

 意外な話の持って行き方に面食らった拓矢と瑠水を前に、由果那は自分の拳を突き合わせる。

「そんで、会ったら言ってやりたい。何で拓矢やユキや奈美をこんなひどい目に遭わせたのかって。友達や大切な人をひどい目に遭わせたり、遭わせられるヤツがいるのなら、神サマだろうとあたしは許さないから」

 そう言う由果那の目はまっすぐで、一片の迷いも恐れもなかった。

 由果那は二人を見ると肩の力と表情の固さをふっと抜いて、諦めたように笑った。

「瑠水。あんたが拓矢のことを本気で想っているんなら、あたしがそれにあれこれ横槍を入れるのは野暮だからそんなことはやめとくわ。拓矢もとっくにあんたにいかれちゃってるみたいだしね」

 拓矢も瑠水も由果那に余計な口は挟まなかった。由果那は再び真剣な目になる。

「けどね、これだけは言っとく。あんたが拓矢を巻き込んだのは事実なんだから、そこまで言うんならホントの本気でその使命とやらに取り組みなさい。そんで、あんたも拓矢も絶対に急にいなくなったりしないこと。あんた達がいなくなったり危ない目に遭ったりしたら、傷つくのはあんた達だけじゃない。あたし達だってあんた達のことを心配してるってこと、それは絶対に忘れるんじゃないわよ。あんたのことも認めてあげるから、変な心配かけないでよね」

 由果那は切実な目をして二人を見つめた。そこにはいつもの活発さは影を潜め、言い知れぬ不安が滲んでいた。

 拓矢に危険が及ぶのを恐れているのは、由果那も奈美と同じなのだ。そして、幸紀も。

 拓矢は由果那の目を見てそれを思い知った。そして、由果那の瞳を見つめ返して言った。

「ユカ、心配かけてごめん。これから何があるかも正直まだわからないけど、でも、僕は絶対に死なない。みんなに心配を全くかけないのはたぶん無理だけど、うまく言えないけど、その……それだけは約束するから」

 確約はできない。けれど心配はかけたくない。それをうまく言葉にするのは難しかった。

 由果那はそれを聞いて、呆れたように笑った。

「バカ。死なないって、そういう言い方がもう心配させるんだっての」

「ごめん。うまく言えなくて」

「いいよ。あんたの言いたいことはちゃんとわかったから」

 由果那はそう言ってニッと笑んでみせだ。屈託のないその笑顔はやけに拓矢の心に沁みた。


 放課後、拓矢は由果那と示し合わせて一緒に下校した。奈美も瑠水も一緒にいる。

 御波川の堤防に伸びる道を照らす夕陽は淡いオレンジ色を空気に溶けこませていた。拓矢達は校門を出て、夕陽を浴びる御波川にかかる彌原大橋に続くゆるやかな坂道を登っていく。

「進藤くん、大丈夫かな」

「気になるなら見舞いに行ってあげればいいじゃない。きっとピンピンしてるわよ」

「うん……だけど、最近凜乃ちゃんがよく来てるらしくて」

「ああ、あの兄萌えね。でも別に気にすることないでしょ。何だったらまた邪魔してやろ」

「由果那ちゃん……」

 右隣で由果那と奈美がそんな会話をしている隣、拓矢は瑠水と並んで歩いていた。左に並ぶ彼女と繋いだその手は、白雪のように細く冷たく柔らかい。

「瑠水」

「何でしょう、拓矢」

 拓矢の口から発せられた声に、同じく瑠水も言葉で答える。

 拓矢はその当たり前のようなことがどうしようもなく嬉しい。今朝感じた、想いが直接流れ込んでくるあの感じも心地よかったが、やはり言葉で話したい気持ちもあった。繋いだ手の感触も、発せられる言葉も、彼女が触れられる存在であるという確かな証のように思えるから。

「僕は……このままでいいのかな」

 ふいに口にされた拓矢の言葉に、瑠水は首を傾げた。

「どういうことですか?」

「君が何も思わないならいいんだけど……何だか、この間みたいなこともあったし、このまま動き出さないままでいいのかなって」

 先日の一件以来、平和な日が流れている反面、拓矢は何も動き出していないような気がしていた。それは、彼女と一緒にいる資格を失ってしまうような、そんな不安を生じさせていた。

 瑠水は拓矢の隣を歩きながら、その不安を払拭させるように微笑んで言った。

「私達の目的である問題を解決するには、今はまだ動き出せるだけの準備が十分に整っていません。目処もないまま無闇に飛び込むのはかえって危ないですし、今は様子見程度で大丈夫でしょう。来るべき時に向けて力を蓄えておく、それも立派な行動の一つだと思います」

「そう、なのかな」

「はい。それに、拓矢は何もしていないなんてことはないじゃないですか」

 瑠水は小さく笑うように、心の喜びを吐息と言葉に乗せていた。

「こうして私を傍に置いて大切にしてくれていますし……それに、私をあの絶望の中から助け出してくれました。私はあなたにいくら言葉を尽くしても、その喜びを伝え遂げるには足りません」

 瑠水はそう言って、拓矢の方に顔を向けた。見上げるその目が熱い潤みを帯びている。

「私はあなたを愛しています。この身も心も全て、あなたに捧げたい。だから、不安にならないでください。あなたは私の全てを委ねる、私の依代なのですから」

「瑠水……」

 潤う瞳で自分を見つめる瑠水の言葉、そこに込められた真心に、拓矢は胸を衝かれた。

 それを見ていた由果那が、奈美を引き連れてずいと迫ってきた。

「ちょ~っとぉ~た~く~や~ぁ? な~にをあたし達を差し置いて二人っきりでいい雰囲気になっちゃってるのかなぁ~?」

「ゆ、由果那ちゃん、そんなこと――」

「えいやっ!」「ひゃあっ⁉」「うわっ!」

 由果那が奈美を拓矢に向けて突き飛ばした。拓矢はそれを受け止め、自然、奈美は拓矢の腕に抱きとめられた形になる。拓矢が顔を上げた時には、由果那が夕焼けの道を先に行っていた。

「ゆ、由果那!」

「あ~あ! 綺麗どころ二人にそんなに愛されるなんて幸せ者ね! 羨ましいよあたしゃ! さっさと来ないと置いてくぞー」

「ま、待ってくれよ! 一緒に行こうって言ったのそっちだろ!」

「な~んのことかなぁ? あたしより一分以上遅れたら今日はパン分けてあげないからねっ」

「それは困る! 姉さんがパンを待ってるんだ!」

「だったらさっさと来なさい、よっ!」

 気合一声、由果那は猛然と走り出した。

「ま、待ってって!」

 拓矢も何かに急かされるように走り出そうとしたところで、はたと奈美の存在に気付いた。由果那と同じバイト先とは、彼女は途中で帰り道が分かれるのである。

「奈美、僕これからバイトなんだけど……」

「うん。私のことは気にしなくていいよ。遅れたら、パン、貰えないんでしょ?」

 何か別れ際の言葉を探そうとする拓矢に向けて、奈美は小さく頷いてみせた。

「大丈夫。今日はちゃんとお手伝いに行くから。先に乙姫さんと待ってるね」

 そして、肩口辺りの髪をくるくると弄びながら、くすりと笑って言った。夕陽の鮮烈なオレンジ色の光が、向かい合う彼女を横から照らしていた。

 彼女には、夕暮れの眩しい光がよく似合う。

 刹那、そんなことを思った拓矢は、目に入った光の煌きにはたと我に返った。振り返ると、由果那の姿はすでに夕陽の風景の中に見えなくなっている。

「じゃあ、行ってくる! 家で待ってて! 気をつけて帰ってね!」

 拓矢はそう言い残すと振り返り、由果那を追いかけて走り出した。それに追従しようとした瑠水は、しかしその直前、わずかに動きを止めていた。

 走り去っていく拓矢にひらひらと手を振る奈美を、瑠水は立ち止まって見ていた。なぜそうしたのかはわからない。ただ、彼女に何か気を引かれる空気を感じていた。

 奈美が瑠水に気付いて彼女の方を見た。夕陽の明るい橙色の光の中、二人の視線が交差する。二人とも、互いを見る目に睨むようなきつさはなく、しかしお互いを圧しあうように、静かな意志をその視線に乗せてぶつけ合っていた。

 奈美はやがて、一寸も曲がらない眼差しのまま、ふっと表情を和らげて笑った。

(!)

 目は逸らさず、弱気も見せない。そこには諦めや遠慮といった弱さを感じさせるものはなく、やわらかながら意志に満ちた、強い微笑みだった。

 言葉でもなく、明確な敵意でもなく、奈美は自らの意志を示してみせていた。

 あなたには、負けない。拓くんは、渡さないから。

 そう語っていた奈美の瞳の強い力に、瑠水は思わず瞠目していた。言葉なき意志の純粋な力に、どんな口先三寸の言葉を弄しても勝てるはずがない。それを感じさせる強さが、その時の奈美の目にはあった。

 瑠水は、奈美の強い瞳を真っ向から見返すと、瞬きと共に拓矢の元へ光の速さで舞い戻った。

 突然再び姿を現した瑠水に、拓矢は走る体のバランスを崩しかけるほど驚いた。

「うわ⁉ ど、どうしたの瑠水? 今までどこにいたの?」

 驚きをまだ顔に残している拓矢に、瑠水は何事もなかったかのように微笑んだ。

「いいえ、何でもありません。ただ、夕陽が綺麗だったもので、つい立ち止まって見惚れてしまっていました」

 瑠水は笑顔で、僅かな心の揺れをごまかした。

 由果那を追いかけてひた走る拓矢に地を滑るようについて行きながら、瑠水の胸には小さな感情が生まれていた。それは、恐れというのがもっとも近かった。初めて自分の好敵手を強く意識した、そんな感情だった。

 あの瞳の力に、私はちゃんと対抗できただろうか。

 拓矢に向けたやわらかな笑顔の奥で、瑠水はそんなことを思っていた。



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