Cp.2-1 Brand New Day With Bright Bride(4)
荒井由果那の実家のパン屋の名前は、ベーカリー・ラスカル。
「あらいぐま」だ。なんとも洒落っ気が利いている。由果那は父親のネーミングセンスにことあるごとに不平を漏らしているが。
暖かい色合いの木製のドアを開けると、上部に取り付けられた金色のベルがカランカランと綺麗な音を暖かなパンの匂いの満ちる店内に響かせた。
客のいない店内で、レジの奥に置いた椅子に腰かけて本を読んでいた女性が、由果那のそれによく似たきつめの視線を帰ってきた二人に投げる。
「おっ。お帰りユカ。タクも一緒かい」
由果那の母親、荒井礼央は軽い調子で帰って来た二人を迎えた。
「ただいま、ママ」
「こんにちは、レオさん」
拓矢は由果那と共に礼央に挨拶する。幼馴染で家同士の付き合いもある由果那の母親である礼央は事実上拓矢の叔母といっても差し支えないほどの関係なのだが、彼女はおばさん扱いされることを非常に嫌う。知り合った最初の頃にそう口を滑らせて鉄拳が飛んできたときから、拓矢は言葉に気をつけるようにしている。
「おかえり。毎度仲がよろしくて結構だね」
礼央はニヤリと微笑むと、二人をからかうような調子で言う。
「さ、二人とも。ここに来た理由はわかってるね?」
「自分の家に帰るのに理由が要るの、ママ?」
「あたしの訊いてることがわかんないのかな、ユカ?」
「はいはい、わかってますよ仕事でしょ。行くわよ拓矢」
おどける礼央を尻目に、由果那は拓矢の腕を引っ張ってスタッフルームに連れて行く。その間際、拓矢は礼央に頭を下げた。
「あ、レオさん、今日もよろしくお願いします!」
「相手にしなくていいの! いつものことでしょ」
などと揉めながら二人は店の袖に去っていく。礼央は笑いながら手を振って二人を見送った。
(まったく、律儀な子だねぇ。ユカにはいい相手だよ)
二人の様子に、礼央は微笑ましい気持になる。なんとなく、押しの強かった自分とそれに押されていた旦那を重ね合わせていた。
と、
(……ん?)
礼央はふと気配を感じて、店内に視線を回した。
(誰もいない……わよね。何だろ今の)
礼央は奇妙な気分を感じた。まるで誰かが店の中にいるような気がした。
店内は、焼けたパンの温かい香りで溢れ返っていた。
スタッフルームに入ると拓矢と由果那は荷物を置き、互いに背を向け合って店着に着替える。
「ねえ、拓矢」
着替えながら、由果那が拓矢に問いかけてきた。拓矢も服を脱ぎながらそれに答える。
「何?」
「あんた、あの子のどこに惚れたわけ?」
由果那の言葉に、拓矢のシャツのボタンを外す手が止まった。
(どこ、って……)
深く考えたことはなかった。自分は具体的に彼女のどこに惚れたのか、なんて。
シャツを脱ぎながら、由果那は言葉を続ける。
「別に、人を好きになるのにこれこれこういう理由がなきゃいけないなんてあたしも思わないけどさ。見てくれだけで、っていうんだったらさすがにあたしもちょっと
問い詰めるような由果那の言葉に、拓矢は頷いた。
あの子よりもあんたのことをずっと長い間想い続けてた子がいる――由果那はそう言いたいのだ。半端な理由では許さない、と。
拓矢は思考する。自分が瑠水を好きになった理由。
自分はまだ彼女のことを多くは知らない気がする。だが、彼女に心を惹かれたのは、単なる外見の美しさだけではないはずだ。そして、決して半端な理由でもない。それは言える。
「確かに、瑠水は綺麗だよ。けど、それだけじゃないと思う」
考えれば考えるほど答えは遠ざかっていくように思えた。なので、正直に心に浮かんだことを口にすることにした。
「彼女は……僕を救ってくれた。僕が壊れそうになった時に、誰にも助けてもらえない時にも、傍にいてくれた。彼女が傍にいてくれるようになってから、何だか胸の奥が軽くなって、これまで感じてた苦しさが減って……前よりも少しだけ、生きるのが怖くなくなった気がするんだ」
慎重に言葉を選ぶ拓矢を、由果那はその心を見定めるようにじっと聞いている。
「確かにまだまだ知らないことが多いけど、僕は、あの子を、ユカや奈美や姉さんやみんなと同じように、本当に大切だと思ってる。みんながいてくれるから僕が生きられるように、瑠水がいてくれるから僕は生きられる……今は、そんな気がしてる」
言葉にするうちに、瑠水に対する自分の思いが形を持っていくように、拓矢は感じていた。
「僕は瑠水を失いたくない。彼女に、傍にいてほしい。みんなが大好きで、失いたくないように……それが繋がるかわからないけど、だから僕は、瑠水が好きなんだと思う」
具体的な理由かどうかわからないけど、と拓矢は最後を濁す。由果那はそれを聞いて小さく呆れたように息を吐いた。
「ったく……ほんっとにあんたは真面目ねぇ。そんなん『俺はあいつが好きなんだ、理由なんてねぇ!』みたいな感じで流すことだってできたでしょうに」
「え……理由が聞きたかったんじゃなかったの?」
「少なくとも、付き合ってる相手の好きな所を全部事細かに説明できる奴がいたらあたしは引くわ。好きって、そういうふうに説明できるもんじゃないでしょ、普通」
呆然とする拓矢に、由果那は不満げながら合点が言ったような顔をした。
「でもまあ、合格。あたしは別に内容を詳しく聞きたかったわけじゃない。あんたがちゃんとあの子のことを好きなのか、それが知りたかったのよ。奈美みたいにね」
「え……奈美?」
「あの子に同じこと訊いても、同じような答えが返ってきそうだから」
(ホントにあいつが好きなのね、って思えるような、真心のこもった答えがね)
由果那はそう言って小さく笑ってみせた。その表情には見かけよりも深いものが込められているのが感じられて、拓矢はなんとなく申し訳ない気分になった。
表情に影が差した拓矢を励ますように、由果那が彼の肩をポンと力強く叩く。
「ほら、仕事でしょ。あんたは何も間違ってない。だからシャキッとしなさい!」
「……!」
あんたは何も間違ってない――さらりと言われたその言葉は拓矢の心に響いた。
拓矢は胸の靄が晴れたのを感じて、由果那に頷きを返し、急いで着替えを済ませた。
仕事着に着替えて由果那と共に店に出た所で、拓矢は思わず呆然としてしまった。
「瑠水……?」
パン屋の店内で、瑠水が目を輝かせて感嘆の表情で天を――温かな光のライトの据えられた天井を仰いでいる。もちろん、ここでは拓矢と由果那以外には見えていない。
その表情は、まるで天上におわす神の栄光を祝福しているかのように見えた。
こちらの心に反応したのか、瑠水が至福の残り香を表情に漂わせながら姿勢を元に戻す。
「どうしたの? 瑠水」
「拓矢……ここがあなたの仕事場なのですか?」
「え、あ、うん……仕事場って言っても手伝い程度だけど」
拓矢の言葉を聞くと、瑠水は表情を輝かせた。
「すばらしい場所ですね。ここは愛と幸せに溢れています。ここにいるだけで『善』や『美』の力が満ちていくよう……」
そう言って瑠水は店の空気や光を味わうように店内を歩く。
拓矢はなんとなく理解した。パンの香りに至福を感じるのは、天使も同じらしい。
愛と幸せに溢れている――なるほど。
そりゃそうだ。文屋おじさんとその家族が心を込めて作ったパンと、そのお店なんだから。
拓矢はなんとなく誇らしい気持になり、瑠水に声をかけた。
「よかったら、食べてみる?」
「よいのですか?」
「今はだめだけどね。毎回仕事終わりにおじさんが余ったパンをくれるんだ。それでよかったら、あげるよ」
「本当ですか……嬉しいです!」
瑠水はそれを聞いて表情を輝かせた。それを見た拓矢も、心が温かくなった。
今日は絶対に、おいしいパンを貰わないと。
拓矢が気合を入れなおしたところに、店の扉が開いて、ベルの澄んだ音が店内に響いた。
「さあ、焼けたよー!」
日も暮れて終業時間が近くなったところで、店の奥の製パン工房から、由果那の父にしてパン屋の店主、「あらいぐま」こと荒井文屋が愛嬌のある顔でひょいとカウンターに現れた。ミトンをしたその手には焼きたてのパンを乗せた黒い金属製のプレートがつかまれている。
パンを店の台に並べた所で、文屋は仕事をしていた二人に労いの言葉をかけた。
「お疲れさま二人とも。今日もよく頑張ってくれたね」
「パパ、いいの? 工房から手ぇ放して」
「なあに、今日の製造はこれで終わり、僕は仕事終わりさ」
由果那の野次も朗らかに返すと、文屋は拓矢を見た。
「タク、今日はずいぶん調子がよさそうじゃないか」
「え……そうですか?」
拓矢は驚いた。自分ではそんなことを感じていなかった。文屋は拓矢の当惑をよそに、何が合点が言ったのか、うんうん、と頷いている。
「いつもより動きにも声にも活力がある。見てればわかるよ」
「そんなに大して動いてないと思うけど……」
「柔能く剛を制す、だよユカ。覚えておきなさい」
どこで覚えてきたか知れない言葉に続け、文屋は拓矢に視線を戻す。
「いやあ、元気があるのはよいことだ。あの頃のことがあった君なら、特にね」
あの頃。
文屋の感慨深げな言葉の最後に、拓矢の胸はふいに疼いた。
「君が元気でいてくれると、おじさんも嬉しいよ。もちろん、ママもユカもね」
「パパ! あたしのこと勝手に代表するなっ!」
文屋の言葉に、照れくささからムキになってたて突く由果那を見て、礼央は楽しそうに笑っている。拓矢は、その微笑ましい光景に、二つの相反する感情が胸に生じるのを感じた。
九を満たす温かさと、一にも満たない冷たさを。
自分が失ったものを、無意識に目の前の家族に重ねてしまう。わずかに生じたそれは、妬みか、悲しみか。
しかし、今を生きる拓矢の意識は、そんな正体の知れないあいまいな負の念よりも、彼らが自分に与え、示してくれるたくさんのものの方がずっと大切だとすぐに気付き直す。そうしてほんのわずか生じた後ろ暗い感情は、すぐにパンの香りと温もりに飲まれて消えた。
葛藤は一瞬の間に過ぎ去り、拓矢の心は優しい温かさに包まれていた。
「最近、何か励みになるようなことでもあったのかい?」
「あれだよ、旦那。この年頃の男の子っていったら、ひとつしかないじゃないか」
「なーるほど。ずばり『恋』だねっ!」
「決め顔で言うなっ! 腹立つわその顔っ!」
「え……何でわかるんですか?」
「あんたも乗せられるんじゃないのっ! ややこしくなるでしょ!」
勢い込む由果那に、文屋と礼央はますます興味を募らせ、拓矢はまたも対応に困った。
などと、いつものような朗らかなやり取りもありつつ、やがて店は終業の時間を迎えた。
帰り道、着替えを済ませた拓矢はいつものように由果那に送られて家まで帰る。
頭上に満ちる空はすでに暗く澄んだ夜闇を広げており、地平線は染まりゆく朱の闇を滲ませている。その境界は夜の訪れる闇の天幕のようで、夜空には星がちかちかと瞬いていた。
歩きながら、拓矢は賄い代わりに文屋から貰ったパンの包みを開く。中から温かく香ばしい香りが溢れ出し、隣を歩く瑠水が表情を明るくする。彼女の好みがまだよくわからないので、とりあえず一番シンプルなロールパンを取り出した。
「瑠水。はい、これ」
拓矢は瑠水にパンを渡そうとして、彼女はこの物としてのパンを持つことはできないことを思い出す。どうしようかと思案していると、
「そのまま、持っていてください。今、頂きます」
瑠水はそう言って、拓矢が手に持ったパンに手を触れた。霊体の彼女が触れたことでパンの霊質体が彼女の手元に移る。
「温かい……」
焼きたてのパンを手に持って、瑠水は顔をほうっと綻ばせていた。
拓矢はその表情に、自分も幸せな気分になった。
「感謝しなさいよ。本来なら売り物でいくらかするんだから」
「うん。ありがとう、由果那」
由果那の冗談も拓矢には通じない。由果那は呆れたようにため息をつきながらも、小さく笑んでいた。
静かな夜道を並んで歩きながら、拓矢の隣を歩く瑠水が慣れない仕草でそっとパンを齧った。
「美味しい……!」
途端、瑠水は胸から溢れ出したような至福の声を漏らした。
「パン一つ食べるのに、まるでこの世の至福みたいな顔すんのね」
「このパンには温かい愛情が籠っています。なんて美味しいのでしょう……」
満ちる幸福に顔を綻ばせる瑠水。あまりに幸福そうな様子に、拓矢と由果那も思わずくすりと笑ってしまう。
「文屋おじさんに今度そう言ってあげよう。きっと喜ぶよ」
「あのねえ。そのためにはパパ達にもこの子を認めてもらわないと話が通じないでしょ」
「あ、そっか……じゃあおじさん達にも瑠水を紹介しよう」
「だからねえ……」
拓矢の提案に由果那は呆れたようにため息を漏らす。それを見ていた瑠水はくすりと笑った。
「胸が、温かい……これが、幸せというものなのでしょうか」
そして、まるで幸せというものがどんなものなのか知らなかったかのように、言った。
「不思議です……この世界には、私の知らないものがまだまだあるのでしょうね」
そう呟く瑠水の瞳は、喜びに青く煌いていた。拓矢はその様子に自分まで嬉しくなる。
「今度、また貰ってくるよ。次はまた別のパンを貰えると思う」
「本当ですか? 嬉しいです。まだまだたくさんのパンがあるのですね」
「うん。いいよね、ユカ?」
「ったく……そんなのだめって言えるわけないじゃない」
由果那が愚痴るように言うと、拓矢は瑠水と顔を見合わせて笑った。
その様子を見て、由果那の口からは心が漏れていた。
「本当に嬉しそうね、拓矢」
「え?」
拓矢は思わず訊き返し、由果那を見る。
由果那は、可愛がっていた弟が離れていく姉のような、複雑な声音で言った。
「パパも言ってたけど、最近のあんた、前より元気になってるみたい。どう考えても、それってその子が原因だよね。……正直、ちょっと悔しいくらい」
「ユカ……」
由果那の声が寂しげな思いを湛えて揺れていたのを、拓矢は聞いた。
「ねえ、拓矢。あんた、」
拓矢から目を逸らすように前を向きながら、由果那は何かを呟きかけた。
だが、その言葉は訪れた異変により遮られた。
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