Cp.1 Ep. Beginning Moonlight

 その後は、少々慌ただしかった。

 乙姫からはこの上ない力で抱きしめられ、由果那からは理由のわからないビンタを一発かまされた後で再び説教を喰らい、奈美は涙が枯れるまで泣いていた。

 それぞれの形で、拓矢が無事に帰ってきたことを喜んでいたというのを拓矢も感じることができた。拓矢は乙姫には腕の力に抱きしめられるままにし、由果那のビンタに文句を言うこともなく素直に説教を受け、奈美が泣き止むまでそばにいて彼女を慰めた。

 それらが一段落した頃、改めて瑠水は今回の件について、拓矢を危険に巻き込んだことを認め、三人に頭を下げて詫びた。そして、

「それでも、私は拓矢と共にいたいのです。どうか、私を認めてください」

 と、使命とは関わらない彼女自身の意志を決然と告げた。

 その話を受けた三人の内、乙姫は拓矢の陥った危機への不安を覚え、由果那に至っては露骨に苦い顔をしたが、奈美と拓矢の説得もあり、結局「拓矢のため」という意識から、彼女のことを認めることで意見が一致した。

「正直あんたは気に食わないけど、無理やり引き離したら拓矢が元気失くすだろうからね……いいわよ、一応認めてあげる。その代わり、拓矢を泣かせたら絶対許さないからね」

 由果那はあくまで厳しい態度を取りつつも、拓矢のために瑠水の存在を認めた。

「好き合ってる二人を無理やり引きはがすのは無粋ってものよね……わかったわ。その代わり、二人とも、何があっても絶対に無事でいなさい。約束して。あなた達が危ない目に遭うことがあれば、私達皆が悲しむってことを忘れないで。あなた達はもう、私の大切な家族なんだから」

 乙姫は二人を真っ直ぐな瞳で凛と見つめ、二人を守る保護者としての心を伝えた。

 そして、奈美は。

「瑠水ちゃん。私、負けないから」

 瑠水に向けて、決意を込めてそう告げた。それは同時に拓矢の心にも響くことになった。

 瑠水はそこに込められた心を――奈美の、女としての覚悟を見て取り、相対する答えを返す。

「わかりました。けれど私も、拓矢は譲りませんよ」

 一人の男を愛する女として、相手の想いを無視することはできない。

 その強い想いに敬意を表し、瑠水はそれに対抗する意志を示すことで応えた。

 交わされる二人の視線は、激しく衝突するというよりも、絡み合う二つの流れのような、熱くも緩やかなものだった。二人の対峙し合う姿に、拓矢の胸がじわりと熱くなる。

(ふっふ……若者よ、今は大いに恋するがよい。人はそうやって己を知っていくからの)

 宗善はそんな彼らの様子を見て、満足げに笑んでいた。

 その後、拓矢が律儀に約束を守って凜乃の部屋を訪れ、大喜びした凜乃を加えて、進藤家の人々とお茶を飲むわずかな夜の時間を過ごしたのは、余談である。


   ✢


 その夜、拓矢は久方ぶりに安らかな眠りについた。

 この数日間、突然始まった日常の変容の慌ただしさが、瑠水が戻ってきたことでようやく一段落したことによって疲れが押し寄せてきたということもあったが、それと同時に、彼女の訪れによって自分を取り巻く人たちの想いを感じる濃密な時間を過ごしたという実感もあった。何より、瑠水が傍にいる――それを感じられることは、彼にこの上ない心の安息と平穏をもたらした。

 瞼を閉じて思考を手放すと、意識は自然と暗い闇の安寧の中に落ちていった。暗闇に飲まれることも、もう怖くはなかった。心には、暗闇の中でも見失うことのない光があるから。

 そして、今や彼にとって眠りとは、夢の世界への入り口を意味していた。


 夢の中で目を覚ますと、そこは月夜の水園だった。

 夜空の紺青は闇味の綺麗な青空であり、世界を心安らぐ静寂の中に包み込んでいる。天頂には白銀の月が冷たくも優しい光を降り注がせていて、月から零れ落ちた欠片のような白い光が蛍火のように空気に漂い舞っていた。

 そして、その視線の先に、青い天女は月光を浴びて蕭然と佇んでいた。

「瑠水……」

 拓矢の心から、愛しい人の名前が零れ落ちていた。

 その声に、瑠水が月光色の透き通る儚げな相貌を振り向かせる。

 月と水の織りなす音だけがそよぐ静寂の中、二人は見つめ合う。

 今なら彼女にまつわるどんな言葉も真実になりそうで、しかし、見つめ合うだけで満たされ合う今、それは必要ないと感じた。

 深い青の満ちる月夜の水園の中、拓矢が、水の中にある足をゆっくりと前に動かした。瑠水もそれに呼応するように静かに歩き出し、水をかき分けながら二人は歩み寄っていく。

 月の放つさざめきに水の揺れる音が、静かな世界に響く。

 やがて、手を伸ばせばその頬に触れられるほどに、その距離は近くなる。

 眼前にいる瑠水を見つめながら、いくつもの思いが拓矢の胸の内を駆け巡った。

 ある日突然現れて、自分の世界を変えてしまった彼女。彼女と出逢う前の世界の平穏は過ぎ去り、自分は彼女のために、かつてない波乱に巻き込まれようとしている。それを認めた上で、その出逢いは果たして、幸運だったといえるか。

 まだ出逢ってそんなに時間もなく、まだまだ彼女にまつわることで知らないことはきっと多い。彼女に関わっていくことで、ますます自分は今までの道を外れ、彼女の導く世界に深く入り込んでいくことになるような予感があった。それは、今までの日常の世界にもう引き返せなくなる――その世界を変える、あるいは壊すことを意味しているだろうということも。

「拓矢……」

 瑠水は、拓矢の瞳の奥にある心に問うように、改めて拓矢に問いかける。

「私は……あなたの大切なものを壊してしまうかもしれない。

 私と関わることは、あなたを傷つけるかもしれない。

 それでも……私と一緒にいてくれますか?」

 そして瑠水は、揺れる瞳で拓矢を見た。初めてこの夢の園を訪れたあの時と同じ、願いと恐れを宿した綺麗な瞳で。

 一緒にいたい、と――その瞳は言っていた。

 その手を取れば、きっともう戻れない。拓矢にはもう、それがわかる。

 けれど、それを恐れることはもうなかった。

 目の前にいる、愛しい人。彼女を想うと、自分という存在の全てが満たされる。

 この心に満ちる想いは、誰も否定することはできない。そして、否定させはしない。

 たとえ彼女がどんな存在であろうとも、彼女が大切な存在であることに変わりはない。彼女が災いをもたらす者なら、自分はその運命を受け入れた上で、災いから大切なものを守り、彼女を愛するまでだ。それがどんな困難でも、一つでも譲るわけにはいかない。

 瑠水が好きだ。大切だ。僕は、彼女と一緒に生きたい。

 それが今までの日常を変える道だとしても、どんな困難が待っているとしても、僕はその道を選ぶ。彼女と――大切な人と、共に生きるために。

 そして、守ってみせる。大切なもの、全部。

 たとえこの身に余る試練であったとしても、この命の全てを懸けてでも。

 それが、僕の生きる道――「善」だ。

「ねえ、瑠水」

 拓矢は迷いを拭い去り、目の前で答えを待つ、青い天使に語りかけた。

「僕も、改めて言うよ。君と一緒にいさせてほしい」

 単なる事実以上の意味が込められたその言葉に、瑠水が潤んだ目を見開いた。

「危険も困難も、わかった以上全部受け容れる。それでも僕は、君と一緒にいたい」

 そう決意を告げて、拓矢は、そっと瑠水の手を自分から取り、言った。

「僕は、君もみんなも、皆大切だ。だから、全部守りたい。どれだけ大変だったって、僕はもう、誰も失いたくない。姉さんも、ユキも、ユカも、奈美も、瑠水も……皆、大好きだから。それを守るためなら、僕はもう、逃げたりしないから」

「拓矢……」

 瑠水は拓矢の目をじっと見つめていた。彼が自らの意志でその手を取ったこと――その意味を瑠水も理解し、胸を震わせていた。

 拓矢は、目の前の瑠水の透き通った瞳を真っ直ぐに見つめて、告げた。

「一緒に生きて、戦おう。君がいてくれるなら、僕はもう逃げないよ。

 だから……これからも、そばにいてくれるかな」

 心は、決まった。

 もう、逃げない。

 大切な人達を守るためなら、僕はもう逃げない。

 生きて、戦おう。もう、何も失いたくないから。

 君を守るためなら、僕は戦える。

 これから先にどんな苛烈なものが待っているとしても――その想いが折れないのなら、もう迷うことはなさそうだった。

 拓矢の言葉に、瑠水は瞳を潤ませ、涙を浮かべた笑顔で頷いた。

「ありがとう、拓矢。私も、私とあなたに誓います。私も、もう二度とあなたを悲しませたくない。あなたを守るため、私も全てを賭して、あなたの力になります。

 私の方こそ……光悦の至りです。これからもそばにいさせてください、拓矢」

 喜びの潤みを湛えた瑠水の笑顔は、透き通った涙のように綺麗だった。

 二人は視線を交わす。瞳が光を映し合い、心に、鮮やかな色彩を湛えた想いが溢れ出す。

 二人を祝福するように、月の光が水面を揺らす波音を世界に響かせ、青白い蛍火が夜を覆う空に舞う。

 二人の間に、境界は消え、響き合う心の光が重なり合う。

「望むは汝、願うは永遠。永遠に寄り添うくちづけを……

《al linne,kres lient.la fors contlive lixs――》」

 瑠水が歌うように唱え、拓矢が頷き、二人は互いに抱き合い、寄り添う。

「私達は、一つです。一緒に生きましょう。愛しています、拓矢。私の命士様イクサ

「瑠水……」

 溢れる想いに惹き合うように、拓矢と瑠水は抱き合い、ゆっくりと唇を重ねた。

 紺青の夜空、月夜の明かりの下、二人は眠りから覚めるまで、いつまでも互いを抱きしめ合い、心の温もりを通わせていた。


  


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る