Cp.1-5 Dawnlight of Love(4)

「瑠水!」

 ついに、拓矢は荊の十字架の中心、瑠水の目の前に辿り着いた。

 十字架に縛り付けられていた瑠水は荊の棘に全身を傷つけられ、その体は所々が闇に喰われたように剥がれ落ちていた。

「……た、く、や?」

 黒い血の涙を流し、虚ろな目で拓矢をゆっくりと見つめ、瑠水は弱弱しい声を零した。かつての愛情に満ちた潤いが削ぎ落とされた、生気のない声。その悲惨な色に、拓矢の胸の奥が痛みに締め付けられた。

「瑠水。助けに来たよ」

 拓矢の声は、そんな瑠水を生気づけようと、明るい色になっていた。瑠水との再会が果たされたことで、彼の中にある光の感情が再び蘇ったこともあった。

 瑠水は、しばらく虚ろな瞳で茫然と拓矢の眼を見ていた。拓矢も、彼女の瞳から目を逸らさなかった。彼らの外側では、黒の魔女の妨害を赤の彩姫達が阻む交戦が続いている。

 やがて、瑠水は口を開いた。

「どう、して」

「え?」

「どうして……こんなところに、来てしまったのですか」

 微かな理性を取り戻すと共に口にされたその言葉は、悲痛に満ちたものだった。彼女の目から、血のように濃い赤黒い涙が溢れ出した。

「私が、あなたに関わってしまったせいで、私はあなたを傷つけてしまった……私と関わることなどなければ、あなたは平和な日常の中で、ずっと大切な人達と幸せでいられたはずだったのに……」

 彼女の言葉は、明らかに自分を責めるものだった。魔の荊に心を侵食され、闇に喰われた心。自らを責めながらも何かを求めてしまう痛みから流される、悲痛の涙。

「私が、――わたしが、あなたに逢わなければ――――」

「瑠水‼」

 暗闇に飲まれ、その尊厳たる愛を否定しようとした彼女の言葉を遮るように、拓矢は悲切の想いで叫び、瑠水の体を抱き締めていた。それを彼女に言わせてはならないと思った。

 彼女の身体に巻き付いた荊の棘が拓矢の体に食い込み、じわりと血が滲む。さらに、地面から荊の蔦が幾本も鋭く伸び、拓矢の体に絡みついた。きつく棘を食い込ませながら、拓矢を瑠水から引き剥がそうとする。

「ぐ、ぅあぁ、っ……」

 魔の荊の力で脳内に蘇る悪夢の記憶に棘の痛みが増幅され、胸の芯を容赦なく揺さぶってくる。拓矢は締め付けられる痛みと、棘の力で頭の中を浸食し、胸の内に黒々と渦巻く負の念の責め苦に必死で抗い、離れまいと瑠水の体にしがみついた。

 拓矢の苦悶を目にした瑠水が、自らが傷に打たれるように悲痛な声を上げた。

「拓矢……ダメです、傷が……!」

「っ……平気だよ。君を守れなかった怖さに比べれば……こんなの」

 狼狽する瑠水に、心身を容赦なく責める痛みに耐えながら、拓矢は自嘲するように言う。荊の蔦が迫る真っ只中で、拓矢は腕の中にある瑠水の体の感触を思い出し、必死で心を奮い立たせていた。

「だめ……拓矢……わたしは……また、あなたを傷つけてしまう……‼」

 瑠水の悲痛な声と共に、嗚咽が漏れる。彼女の中で、「救われたい」思いと「傷つけたくない」思いがせめぎ合い、彼女の心を痛めつけていた。

 拓矢はその時、その感情の正体だとか、その負の念を解消させる方策だとか、難しいことは考えられなかった。彼はただ力を込めて瑠水を抱きしめながら、溢れ出る想いを言葉にした。強く、強く、離さないように、その冷たい身体を抱きしめながら。

「いいんだ」

「えっ……?」

 心身を責める苦痛に息も絶え絶えになりながら、拓矢は心の底から溢れ出る言葉を、瑠水に語りかける。彼女を自責の檻から救い出すために必要な、自分の想いを。

「僕が傷を受けたのは……君のせいじゃない。君と一緒にいることを選んだのも、ここに来たのも、全部、僕の意志だ。君は、何も悪くない……だから、自分を責めないで」

 痛みに耐えながら笑いかけようとする拓矢。その悲痛な表情に、瑠水の胸に涙が満ちる。

「でも……わたしは、あなたを危険に巻き込んでしまった……わたしと一緒にいれば、またあなたは……」

「いいんだ。わかってる、そんなの。でも、そんなのより……僕はもう、君を失うことの方が……怖いんだ」

 体中に絡みつく荊の蔦の力に必死で抵抗しながら、拓矢は必死の思いで言葉を紡ぐ。

「僕はもう、誰も失いたくない。守れたはずの人を、大好きな人を、自分のせいで失うなんて、もう嫌だ。僕は、どんな痛みより、君を……皆を失うことの方が……何よりも、怖い」

 切なるその言葉に胸の痛みが蘇ったのか、再びその痛みを――失うことの痛みを恐れるように、拓矢は引き離されないようにぎゅっと強く瑠水を抱きしめた。腕の中にある大切な人の存在を、二度と失いたくなかった。

「それに……君だって、僕を助けに来てくれた。夢の中で、僕が壊れそうになった時に」

 拓矢は、苦痛に全身を苛まれながら、そう口にしてなおも微かに微笑んでみせた。

「君は、僕を救ってくれた。だから、もしも君が苦しむようなことがあったら、今度は僕が君を救けたいって、思ってたんだ。僕は今まで、誰かのために、何もできなかったから」

 拓矢は、暗闇をかき分けるような声で、心の底にあった想いを言の葉に乗せた。

「僕は今まで、ずっと自分を認められなかった。たくさんの大好きな人達に助けられて、生きていられて……それでも、自分を認めることができなかった。家族を助けられなくて、友達にも自分のせいで心配をかけて……自分が生きていることを、素直に認められなかった。だけど、君と出逢えて、君を好きになって……僕は初めて、誰かのために生きていたいって……生きていられるのが、嬉しいって思えた」

「たく、や……」

 瑠水の心に拓矢の言葉が沁み込んでゆく。彼女の心を閉じ込めていた氷が溶けかけていた。

「君に出逢えて、君が傍にいてくれて、それだけで嬉しかった。息ができるようになったみたいで、光が見えたみたいで、嬉しかった。君が来てくれたから、僕はやっと、生きていられることが幸せだって、素直に感じられるようになったんだ。君が、僕を……たった一人の暗闇の中にいた僕を、照らしてくれたんだ」

 拓矢は、瑠水を強く抱きしめながら、想いを込めて言葉を紡いだ。

「これから先も僕が幸せでいられるとしたら、それは君のおかげだ。君が、僕を救ってくれた。僕はもう……君を失いたくない。君を失って生きるのは……悲しい」

「…………!」

 想いを素直に形にした拓矢の言葉に、瑠水の心を覆う殻に、光が差し込む。

「君が何者でも、災いをもたらす人でもいい。君のために僕が必要なら、僕は君の力になる。君が何者だろうと、僕は、君と一緒に生きていたい」

「拓、矢……」

 強い想いを込めたその言葉に、瑠水の目の奥に、微かな光が瞬いた。強く抱きしめる力をも介して伝わるその想いの力が、彼女を覆っていた闇の殻に罅を入れつつあった。

 拓矢は、わずかに抱擁を解くと、揺れない瞳で真っ直ぐに目の前の瑠水の瞳を見つめた。

「君が僕を選んでくれたように、僕は今、君を選ぶ。もう二度と、僕のせいで、君も、皆も、誰も失わせない。もう二度と、君を一人にさせたりしないから」

 多くのものを失ってきたあの日から心を覆ってきた全ての闇を振り切り、拓矢は己の決意を口にした。ついに言葉にされたその誓いの想いに、瑠水の魂が反応し、輝きを放つのが、拓矢にも見えた。

 その光を目覚めさせれば、彼女は闇から解き放たれる。その思念が、拓矢を為すべき方向へと導いていた。

 拓矢は、溢れる想いの流れのままに、目の前で綺麗な涙を流す、愛する天使に告げる。

「一緒に帰ろう、瑠水。大丈夫だよ。何があっても、君の傍には、僕がいるから」

「――拓、矢――!」

 その言葉が、彼女の心を解放する、はずだった。

 瑠水の瞳に、輝く色彩の光が戻ろうとした、その時。

『おにいちゃん……どうして、わたしたちをおいていっちゃうの?』

「――――‼」

 脳裏に、懐かしく、そして恐ろしい声と共に灰と血の色がフラッシュバックし、拓矢は一瞬思考を乱された。それが罠だったことに、気を割く時間はなかった。

「「拓矢タクヤ!」」

 ドッ――――

 赤の二人の叫ぶような声が響いたのを耳にしながら、拓矢は目の前の光景に――と言うより自分に起きた変化に意識の焦点が合わなかった。

 胸元から、荊がドリルのような形を取って伸びている。

 正確には――拓矢の胸を、黒の魔女の腕から生えた荊のドリルが貫いていた。

「――――ぁ――――」

 ドドドドドドド、ッ――――

 無数の黒い荊が処刑のように、力を失った拓矢の全身を貫いた。

 地上から荊を伸ばした黒の魔女が、狂気的な笑みを浮かべていた。

 目の前にいる瑠水の表情が、驚愕から狂騒と絶望のそれに変わる。

「――――――拓矢ぁぁぁぁぁぁぁ――――――‼」

 ついに、瑠水の心から、闇の覆いを突き破った強い想いが放たれた。

 だが、このままではすぐに揺り返しのように絶望に陥ってしまうだろう。そうなればもう、彼女の心を救うことはできないような気がした。

 拓矢が死の実感を覚える中、その事実と自らの命運を自覚した時、かつてないほど強い感情が心中に湧き起こった。

 彼女の心を蹂躙し弄んだ、黒の魔女への怒り。

 瑠水と共に生きることはできそうにないことへの、悲しみ。

 そして、彼女を救わなければ、という想い。

 せめぎ合った三つの感情。

 拓矢は、怒りに身を任せるでもなく、悲しみに溺れるでもなく、為すべきことを為すことを選んだ。

(神様……もしも見ているのなら、最後に少しだけ、僕に力をください)

 死に際の静けさか、拓矢は何処とも知れぬ神に祈り、最後の力を振り絞った。

 荊に貫かれ崩れ落ちそうになる体を無理やりに動かして、瑠水の体を死力を込めて抱きしめて十字架からの落下を防ぐ。そして、再び瑠水を真正面から見つめた。

 貫かれた体からは、赤黒い血が滴り落ちている。全身を狂気の毒が蝕んでいるのがわかる。この深手では、もう長くはもたないだろう。

 そう思うと奇妙なことに、何だか吹っ切れたように頭や胸の中が軽かった。

 これで、最後になるのなら。

 拓矢は荊の束縛に抗い、目の前にいる愛しい人の顔を、血に濡れた両手でそっと包み込んだ。頬に触れる、やわらかな肌の感触。今までにこうやって彼女の頬に触れたことはなかった。

「拓矢……」

 懇願するように拓矢を見つめる瑠水の目には、本来の青い光が戻りかけていた。その瞳を潤ませる涙も、透明な水に戻っている。あと一手あれば、彼女は囚われから解放されるだろう。

 それが、こんな形になることを、拓矢は素直に誰にともなく感謝した。

 彼女の目を見つめたまま、少しずつ、少しづつその距離を失くしていく。これが最後になるのなら、その瞳の光を、手に触れる頬の温もりとやわらかさを、この愛おしい感覚を心に焼き付けて逝きたかった。

 ゼロ距離まで、もう間もない距離。

 世界が、止まる。

「……拓矢……‼」

 震える声で涙しながら自分の名前を呼ぶ、愛おしい響きの声。そこに込められていた綺麗な想いを――彼女の自分を想う心を感じた時、拓矢は心が至上の喜びに震えるのを感じた。

 瑠水。

 言葉にせず、拓矢は心を震わせて涙しながら、そっと唇を重ねた。


  瑠水――――愛してる。


 唇を通じて、拓矢は彼女の中に自分を注ぎ込むように、心からの想いを伝えた。

 その時、拓矢の心には何もなかった。音も、光も、色彩も。

 ただひとつ、瑠水の光だけが心の中にあった。喜びに心を震わせて泣いていた瑠水。その時、彼女の光だけが、暗闇から解き放たれた拓矢の世界の全てだった。

 永遠の眠りにつくときも、彼女のことだけは忘れたくない――そう、祈った。

 そして――。

 ――――ゃ――――

 今際の際に、拓矢は触れ合った唇の奥、彼女の心から、自分を呼ぶ声を聞いた。

 ――――た く や――――

 その声が、光の中にいる自分に聞こえている、ということと、それが何を意味しているのかということに気が付くのに、随分長い時間がかかったように思った。

 彼女の心が、光を取り戻したのだ。

 ――――拓 矢――――

 最後の呼びかけは、拓矢のそれと同じく、心の――真意の溢れ出した声だった。

 その時、光に満ち溢れた彼女の心に寄生するのを耐えかねたように、彼女の胸に植え付けられた魔の荊の種に、ピシリ、と罅が入り――粉々に砕け散った。

 それを爆心とするかのように、瑠水の体から眩い光が広がり、悪しき色に染められた世界を埋め尽くしてゆく。大地に巣食うようにのたくっていた荊の蔦が清らかな青の光に飲み込まれ、空気を埋め尽くす赤黒い怨念の瘴気は蒼光の風に吹き去り、大地を覆う水面は光を映す水鏡の清らかさを取り戻し、青白の月の光が邪念の毒に染められた世界を浄化していく。

 瑠水の心が、黒く暗い邪念の闇から解放され、清浄な青い光に満ちる光景。

 それは、夜明けの地平の光のように、拓矢の魂を明るく美しい思いで染めた。

 荊が消失し、宙に浮いた拓矢は、世界を染める煌めく青い光の中心、荊から解放された無垢に輝く裸身の瑠水を、最後にもう一度、別れを惜しむようにそっと強く抱きしめた。そして、

 ――瑠水。ありがとう。愛してる……僕を、救ってくれた……僕の……――

 最後の別れの言葉を、真心を込めて告げた。

 その言葉を最期に、拓矢の意識が力を失う。現世に残してきた人達のことが、朦朧とする脳裏を光芒のように過ぎり、光と闇の意識の狭間に消えていく。

 命が力を失い、無の暗闇へと沈みゆく、その最後の意識に、彼女の声が響いた。

 ――拓矢……ありがとう。やはり、あなたは、私の――――

 全てが眠りに沈むその最後に、彼女の綺麗な涙の煌めきが胸の奥に瞬いたのを、拓矢は見た気がした。


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