Cp.1-3 Passionate/Scarlet Knight(4)

 二時間後。

 彌原町にある総合病院、桐谷病院の廊下のベンチに座り、拓矢は疲れ果ててうなだれていた。

 検査の結果、幸紀は原因不明の強烈な精神的ショックと判断され、運び込まれて二時間が経った現在も目を覚まさない。赤い火傷のような痕の他に外傷が一切ないことがその不可解さを助長し、回復の見込みも処置の手段も見当たらない状況だった。拓矢達の不安と憔悴の具合は、筆舌に尽くせないほどのものだった。

(僕のせいで……ユキが…………)

 一人茫然とうなだれる拓矢は、深い失意の底に落ちていた。自分のせいで大切な人が傷ついた、それは彼の最も大きな心の傷に触れることだった。

「拓矢……」

 傍らには瑠水が心配そうな表情で控えている。彼女も多大な力を使ったが、精神体であるその体には傷一つない。薄暗い病院の廊下を仄明るく照らすその灯光も、今の拓矢の心を照らすことはできなかった。今、拓矢の心には、使命のことも瑠水のことも何一つなかった。

 瑠水は、拓矢に言葉をかけることをためらった。心を通じ合わせている瑠水は、彼の心の内が、その混沌とした心情がわかる。だからこそ、下手な言葉をかけることはできなかった。どんな言葉も慰めにならないどころか余計に彼の心の闇を深くしてしまうように思えて、彼女にはせめて、ただ側にいることしかできなかった。

 その時、廊下に響く靴音と共に、近づいてくる人影があった。

 瑠水は視線を感じて振り向いた。そこにいたのは、由果那だった。

「……?」

 瑠水は小さな驚きを感じていた。間違いなく、その睨むような視線は瑠水に向けられている。そこに強い思念が込められていることも、瑠水には感じ取れた。

 由果那はしばらく厳しい視線で瑠水を睨みつけた後、おもむろに話しかけた。

「あんたに話があるの。ついてきてくれる?」

「……今、拓矢の傍を離れるのは」

「拓矢に関わることなの。いいからついてきて」

 苛立つようなその言葉には、今にも火が点きそうな激情が宿っていた。

 瑠水はその有無を言わせない言葉に、従うほかなかった。


 由果那が向かったのは病院の屋上だった。この桐谷病院は桐谷奈美の実家であり、由果那にとっては勝手知ったる友人の家と変わらない。

 由果那はここまで来る間、後ろについて来る瑠水に一瞥もくれなかった。言葉もなく表情も見えなかったが、その全身から煮え滾るような感情が滲み出ているのが感じ取れた。瑠水はそれに不穏な予感を覚えながら、彼女の後に続いて、夕暮れの空を一望できる屋上に出た。

 屋上からは彌原町と、御波川向こうの神住市の風景が一望できた。先程まで空を覆っていた暗幕のような重い雲は地平線に去りつつあり、沈みゆく太陽が地平を焼き尽くす炎のように空を燃え盛る紅に染めていた。

 落下防止のフェンス越しに見える赤い空を背に、由果那は瑠水に向き直った。

「あんた、自分が何したか、わかってる?」

 夕陽を背にした由果那の姿は、瑠水には影のように黒く染まって映った。

「え……」

 瑠水は戸惑った。彼女が問うているところが把握できなかった。

「私は、」

「拓矢を、傷付けた」

「ッ‼」

 由果那が吐き出したその言葉に、瑠水は胸を貫かれるような衝撃を感じた。

「それは――」

「私のせいじゃない、なんて言わないわよね?」

 冷徹に問う由果那のその言葉には、怒りというにも生ぬるい、憎悪にも似た激情が込められていた。瑠水はその気迫に気圧された。

 無論、瑠水は言い逃れをする気などはなかった。拓矢を自らの事情で戦いに巻き込んだことも、灼蘭達との戦いで拓矢を守れなかったことも事実だった。彼女はその現実から逃れるつもりはなかった。しかし、真正面から向かい合わせられると、心は激しく揺れた。

 瑠水が言葉を継げなくなるのも構わず、由果那は言葉を続けた。

「あんたが知ってるか知らないけどね。拓矢は二度、死にかけたことがあるのよ」

 そう言いながら、由果那は身を翻し、夕陽が沈む空を遠い目で見つめた。彼女の心が一転して沈むような悲しみの色に染まったのを瑠水は見た。

「あいつ、三年前に飛行機事故で家族を亡くしたの。それであいつだけが生き残って、あいつはすごく心が傷ついて……あたし達はあいつが壊れないように、みんなであいつを助けようとしてた。けど……二年前のあの時…………ユキが助けられなかったら、拓矢は死んでたかもしれなかった!」

 由果那は屋上の縁に近寄り、落下防止用のフェンスを感情のままに掴んだ。

「……あの後すぐ、拓矢とユキはこの病院に担ぎ込まれた。奈美はずっと泣いてて……ユキも死にかけて……拓矢は…………意識が戻った後も、目が虚ろで……死人みたいになって……!」

 由果那の声が震えた。彼女の心が激しく震えているのが瑠水にはわかった。

「あの後、みんなで拓矢を見守ってきた。あいつが落ち着いて心を取り戻すまで、あたし達は毎日病院に通った。退院した後も、家族がいなくなったあいつをここで守るために、乙姫さんがこの町に来てくれた。その後も、拓矢の心が壊れないように、あたし達はみんなであいつを助けて……守ってきた。あいつが今みたいに笑えるようになるまで……ずっと怖かった。あいつが――拓矢がいなくなりそうで、怖かった。だから、あいつがまた笑えるようになった時、すごく嬉しかった……!」

 悲しみから沈み、そして喜びへと浮かび上がるように、由果那の心は次々と色を変えた。その色彩は鮮やかで、力に溢れ、美しい真心の色だった。

 そしてその色が、喜びから燃え滾る怒りと憎悪に色を変えた。

 力任せにフェンスの金網を掴み、激情のままに由果那は叫んだ。

「それをあんたは、ぶち壊そうとしたのよッ‼」

「――――‼」

 瑠水は息を呑んだ。心が太い杭に貫かれたような衝撃に、一瞬息が止まった。

 由果那の言葉は止まらず、加速度的に熱を帯びていく。

「あんたは、知らないでしょ! 拓矢が今みたいになれるまで、あいつもみんなもどれだけ大変な思いをしてたか! 奈美が、ユキが、あたしが、乙姫さんが、みんながどれだけ拓矢のことを心配してたか! 奈美が……どんな気持ちであいつのことを想ってたか!」

 由果那は怒気を荒げ瑠水ににじり寄る。瑠水は思わず後ずさり、縁へと追いつめられていった。

「ちょっと前にあいつと出会ったばかりのあんたに、あいつの何がわかるっていうのよ‼」

「……‼」

 由果那は絶叫し、瑠水を掴みかからんばかりの勢いで縁のフェンスまで追い詰めていた。瑠水はその剣幕に圧倒されながら、由果那の顔を近くで見た。その目には、単純な怒りでも悲しみでもない、絡み合う心が映っていた。

 瑠水は言葉を出せなかった。由果那の突き刺すような真剣な思いに当てられて、心は揺れ、体が震えていた。

 由果那は間近で怒気を込めて瑠水をしばらく睨みつけると、やがて身を引いた。

「あんたのせいで、あいつはまた死にかけの目に遭って、ユキまで失いそうになってるのよ。あいつがどれだけ怖い思いをしたか、あんたにわかる?」

「…………」

 瑠水は答えられなかった。答えるだけの言葉を繰ることはできた。だが、今の状況で自分の言葉は、何を口にしようとも何らの力も持たないことを痛感していた。

「あんたの使命だか何だか、あたしは知らない。たとえあんたにどんな事情があったって、関係ない。あたし達から……奈美からあいつを奪うのを、あたしは絶対に許さないから」

 由果那はそう戒めるように言い置くと、屋上を出て行った。

 瑠水は一人屋上に取り残された。陽は沈みかけ、空は陽の赤と雲の灰色が混ざり合った魔的な闇の紫色に浸食され始めていた。

「…………」

 瑠水は心に深い傷を負っていた。今すぐにでも拓矢の下に戻りたかった。だが、今の心で拓矢の前に出ることはできなかった。彼の前に立てる自信がなくなっていた。

(私は……拓矢を、傷付けた……)

 告げられた認識が、熱くなった頭に浸み込むように理解されていく。

(彼の、平穏を、私が壊した……)

 それは心に沁み込み、彼女の全身を麻痺させ、

(――――私の、せいで――――)

 正常な思考さえも、霞ませていく。

(―――――――――――――ッ)

 涙が、溢れてきた。傷口から滲み出る悲しみが、心を覆い尽した。

 その、溢れ出そうとする悲しみを、

 嘲笑うように、


『あら。随分とやられてるみたいじゃない。可哀想ねえ、ルミナ』


 背後から何者かが囁いた。

「⁉」

 瑠水は一瞬判断が遅れた。その隙に、

『うふふ、悲しみに沈むお姫様に、プレゼント』

 それは、瑠水の胸元に何かを植え付けた。瑠水は自分の胸元を見て、驚愕した。

(これは……‼)

 そこにあったのは、黒く光る棘だった。

 この状況、そして謎の声の主とこの棘の正体を瑠水は即座に看破し、戦慄した。

 瑠水の胸元にとりついた黒い棘が、妖しい黒紫の光と共に蔦を生やし、瑠水の全身に纏わりついていく。

「くっ……」

 瑠水はその蔦を払い取ろうとしたが、蔦の侵食は止まらない。

 さらに、この蔦の恐ろしいところは、それだけではなかった。

 体を覆い尽くしていく蔦の棘が、瑠水の滑らかな白い肌に突き刺さる。

「痛ッ……」

 チクリとする体の痛みに刺激されるように、瑠水の心に痛みの記憶が閃く。

《僕が……ユキを……》

 心を痛め、失意に沈む拓矢の姿と声、暗く沈んだ心。

「‼」

 瑠水の心に、錐で貫かれるような鋭い痛みが走った。

《あんたは、拓矢を傷つけた》

《あんたは、拓矢の平穏をぶち壊そうとしたのよッ‼》

《あんたに、あいつの何がわかるっていうのよ‼》

 責められる記憶が次々と心に蘇り、瑠水の心を突き刺していく。

 この黒い棘は、植え付けた者の暗い心を増幅させ、その負の心を養分として育ち、植え付けたものの心身を絡め取る、魔の荊だった。

 瑠水は、これが使える者を知っている。

 だが、何か行動を起こすには、あまりにも条件が悪すぎた。

 棘が次々と瑠水の体に食い込んでいく。それと同時に、痛みを伴う記憶が瑠水の心を埋め尽くしていく。視線、声、言葉、感情――彼女の記憶の中にあったその全てが悪辣な棘となって心を突き刺し、絡め取り、抵抗する力を奪っていく。

(――――――ッ……ぁ……)

 全身を縛られ、海の底に溺れていくように、瑠水の心は闇の中に沈んでいった。

 暗闇に包まれ、闇に溺れていく意識の中で、

「拓……矢……」

 瑠水は縋るように、その名を呼んだ。


(――瑠水?)

 茫然としていた拓矢は、彼女の声を聞いた気がして、顔を上げた。

(彼女の方から僕を呼ぶなんて、珍しいな……どこにいるんだろう)

 そう思いながら、心が引かれる方に向かって重い足を動かそうとして、

(…………?)

 そして、違和感に気付いた。

『瑠水?』

 声をかけても、瑠水の反応を感じない。心の声が、届かない。

 彼女との心の繋がりが、途切れていた。

 それだけではなかった。

 彼女の存在を、感じられない。

 まるで、心の中から彼女の存在が抜け落ちたような。

(瑠水……!)

 拓矢は胸騒ぎを覚えた。

 また、大切な人を失ってしまうような予感に襲われた。

「瑠水!」

 拓矢は駆けだした。心の位置を必死で探る。微かに彼女の気配を感じたのは、屋上だった。

 あの日の記憶が不穏に重なる。それすらも振り払って、拓矢は瑠水を探して走った。

 屋上に駆け上がり、ドアを開け放つ。

 そこには、誰もいなかった。

 ただ、不気味な風が吹き、闇色の雲が空を覆い尽そうとしていた。

「瑠水……」

 零れ落ちた言葉は、夕闇を含んだ風に溶けて消えた。

 誰にも、届かなかった。


 その日。

 赤の彩命士、灼蘭とティムに敗れたその日、瑠水は拓矢の前から姿を消した。

 何度呼びかけても、彼女の声が返ってくることはなかった。

 拓矢はまた、大切な人を失った。

  

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