Cp.1-4 Haze of Deep Grief(1)

 小鳥のさえずりが、虚ろな頭に聞こえる。

 日が既に昼の頂点に差しかかるころになって、拓矢はむくりとベッドから這い出した。

 隣に寄り添うように横たわっていた彼女は、今はもういない。彼女の滑らかな肌の擦れる感触を、拓矢は恋しさを感じながら、遠い記憶のようにぼんやりと思い出していた。

「…………」

 窓から差し込む光、歌う小鳥の声、新鮮なはずの目覚めの空気。

 それらの何一つ、拓矢の心を照らせるものはなかった。

 拓矢は習慣にただ従って、ベッドから起き、服を着替え、学校に行く支度を整えた。

「おはよう、姉さん――」

 習慣の挨拶と共にリビングに入ると、乙姫と、その向かいに座っていた奈美が揃って視線を向けてきた。奈美は拓矢の虚ろな目にわずかな怯えを見せたが、勇気を振り絞って声をかけた。

「……おはよう、拓くん」

「奈美……何でここにいるの? もう昼なのに」

「拓くんがそんな様子だから……心配で」

 奈美は控えめながら心底からの心配を口にする。その気遣いが、今は胸に痛い。

「僕のことなんて、放っておいてくれてもいいのに」

「拓くん……」

 拓矢の心無い言葉に、奈美が胸を刺されたように息を呑んだ。乙姫がそれをたしなめる。

「タク。奈美ちゃんはわざわざあなたのために学校に行くのを待ってくれたのよ。そんな言い方は奈美ちゃんに失礼じゃない?」

「そうだね。ごめん、奈美」

 乙姫の叱責と奈美の怯えた視線を躱すように言うと、拓矢はおよそ「笑顔」というには程遠い虚ろな笑みを顔に浮かべ、テーブルについて「いただきます」と小さな声で言って、目の前の皿に載せてあったパンをかじる。ひどく味気なかった。

 拓矢が黙々とパンをかじり箸と食器がぶつかり合う金属音が沈黙の中のリビングに響き、その場に満ちる息苦しさを際立たせている。

「……ねえ、タク?」

 乙姫がおもむろに口にしたのを聞いて、拓矢は顔を上げた。

「なに、姉さん」

「今日は……学校、休んだら?」

 乙姫の心配そうな声色に、拓矢は微塵も表情を変えずに訊き返した。

「なんで?」

「今のあなた、すごく無理してるように見えるの。今は少し休んだ方が――」

「大丈夫だよ。学校には、行かなくちゃ……」

 そう、弱弱しい声で半ば遮るように言い、拓矢はもう一度微かに笑ってみせた。

 その、仮面を貼り付けたような虚ろな笑顔に、乙姫と奈美は戦慄を覚えた。

「じゃあ、行ってきます」

「待って、タク!」

 テーブルを離れ玄関に向かった拓矢を、乙姫は強い語調で引き止めた。しかし拓矢はそれを意にも介さず、靴を履こうとしている。

 乙姫は拓矢の腕を掴んだ。糸杉のようにか弱い、力のない怯えた腕だった。

「……姉さん」

「――本当に、大丈夫なの?」

 そう言った乙姫の言葉は、ほとんど恐怖を前にした哀願のそれだった。

 かつて、拓矢が自殺を企てた後、その後しばらく拓矢はこんな虚ろな状態だった。どんな言葉も届かず、心を暗闇に飲まれた状態。あの時は細心の注意を払いながら彼と会話や接触を繰り返すことで、何とか彼を闇の状態から引き上げることができた。それが今は逆に、再び闇へ落ちようとしている。乙姫はその予感に危機的な不安を覚えたのだった。

 実際、この一週間から今の彼の状態を見ても、大丈夫ではないことは火を見るより明らかだった。保護者という以前に彼のことを想う一人の人間として、乙姫は拓矢を守ろうとしていた。

 しかし、乙姫のそんな気遣いも、今の拓矢の心の奥には届かないようだった。

「大丈夫だって。奈美も来てくれてるんだし、行かないと。気を付けるから」

 拓矢は中身のない声でダメ押しのように言った。「行くな」と強要すれば受け容れそうな、抵抗するつもりのない弱い声ではあったが、それだけに、下手に強要すればかえって彼が壊れてしまいそうな危うさを感じさせた。故に、乙姫も奈美もそれ以上強気に返せなかった。

 その危うさを察した奈美が、乙姫に強気に申し出た。

「乙姫さん。今日は私が拓くんの様子を見ます。拓くんは私が絶対にちゃんと送って帰ってきますから」

 乙姫と同じく、あの頃の拓矢の危機を知っている奈美の目はかつてないほどに真剣だった。奈美の覚悟を秘めた目に、乙姫はためらった後に、拓矢の腕を掴む手を離した。

「ごめんなさい、奈美ちゃん。タクをお願い。――タク、気を付けて。まっすぐ帰ってきてね」

「うん。わかった。行ってきます」

 拓矢は不安げな顔をしたままの乙姫に背を向け、ドアを開けた。彼女の言葉の何一つ、拓矢の暗闇に沈んだ意識の中には残っていなかった。

 降り注ぐ日差しが、眩しいながらもその光で空を白く染めている。拓矢は何とはなしにその輝く閃光の球を凝視するように見つめようとした。しかし目を焼かれるような感覚に思わず目をつぶり、手でその光を遮った。

 目には眩しい。ただ、それだけだ。

 太陽とは神と等しい存在だ、といつか博識だった父から聞いた記憶がある。その光を見つめ続けることができないほど眩しい、届かない存在だからなんだと。

(神、か……)

 拓矢は虚空のような心で、その言葉を呟いた。

 太陽カミサマの光ですら、今の彼の心の闇を払うことはできなかった。

 つい一週間前までは、あんなに美しく素晴らしいものに思えた世界。

 たった一人の人を失うだけで、こんなにも世界は色を失うものなのか。

 拓矢は心が深い深い暗闇に沈んでいくのを感じた。しかし、心とは関係なしに、体に染みついた日常の習慣が、彼の足を操るように動かした。

 奈美はそんな拓矢の様子にあの頃のような恐れを感じながら、拓矢の心を刺激しないように、付かず離れずの距離で拓矢のそばに並んで歩いて行った。


 朝起きる。着替える。朝食を食べる。学校に行く。授業を聞く。昼食を食べる。家に帰る。バイトのある日はバイトに行く。夕飯を作る。夕食を食べる。トイレに行く。寝る。

 生きる。生命活動。ただ、それだけ。

 一週間前、拓矢がティムに敗れ、彼と傷を負った幸紀が病院に運び込まれた後、瑠水は突如として行方をくらました。拓矢は半狂乱の体になって病院中を探したが見つからず、心話も反応を返さなかった。「瑠水がいない」と取り乱す拓矢の姿に、かつての危機的状況と同じ危険な焦燥の模様を感じ取った乙姫達は、何とかして拓矢を鎮めた。だが、結局その日も、それから数日が経っても、瑠水が拓矢の下に帰ってくることはなかった。

 それからというもの、拓矢は生気を失っていき、ただ惰性のように習慣と生体リズムというレールに従って生存するだけの存在と成り果てていた。ちゃんと朝は規則正しい時間に起き、食事も摂り、学校にも行く。生活自体は一見して崩れているようには見えなかったが、周りの人間には彼から魂が抜けていることが明らかにわかった。人に心配をかけさせまいとする、染みついた意識による感情のない空虚な笑顔や言動が、なおさら悲痛に映った。

 拓矢の心には今、一つの光も色彩もなかった。何一つ、拓矢の心を動かせるものはなかった。心に浮かぶ全ては雲か霞のように実体のない虚しいものでしかなく、精彩を欠いていた。救いも見えないまま、終わりのない深海のような暗闇に、心は落ち続けていた。


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