Cp.1-2 Sunlight White(8)
食事も済み、三人がお茶を飲み終えた(瑠水も彼女のやり方でご一緒した)後、
「ああ、そうだ。瑠水ちゃん」
「はい。なんでしょう?」
「ちょっと、席を外してもらえるかな? 拓矢と二人で話しておきたいことがあるの」
乙姫は瑠水に向かって、どこか思わせぶりにそう言った。
(……?)
急に振られた話に、拓矢はどこか穏やかならぬものを感じる中、
「……わかりました。では、部屋で待っていますね。拓矢」
瑠水は何かを察したのか、素直に従い、ドアをすり抜けて拓矢の部屋に戻っていった。不思議なことに、拓矢は離れたのに胸の中心で瑠水の場所がわかるように感じていた。
と、その時、思い出したように乙姫が拓矢に訊いた。
「ん? そういえば……タク、あの子はいつからここにいたの?」
「え? 昨日から……」
「んん? じゃあ昨日、あの子はどこで寝たの?」
「え、あ……ええ……っと」
拓矢は困惑した。事情が事情だったとはいえ、(事実として)一つの床を一夜共にした、しかも彼女は裸だったとは、いくら乙姫相手でもさすがに言いづらい。
その様子を見取った乙姫は、「ふむ?」と目を光らせた。彼女にとって、拓矢にハプニングが起こることは、心配事でもあるが、拓矢の生活に変化が訪れるという意味では喜ばしいものである時もあった。大体そうした恥ずかしい事情を察したのか、追及はそこまでにした。
そして、乙姫は改めて拓矢の方に向き直った。その表情は、告げたくない話を告げなくてはならない時のような、深刻そうな顔をしていた。
「タク、あの子にあの事は話してあるの?」
「あの事……?」
急に話を振られた拓矢は一瞬何の事かと思考を探りかけたが、すぐに乙姫の言うところに思い至った。
そして、瞬きの間に夢から覚まされたように表情をこわばらせた。
その様子を見取った乙姫は、深刻そうな顔をした。
「その様子だと、まだ話してないみたいね」
「……うん」
拓矢は力なく頷く。乙姫は心底心配そうな目をした。
「私もまだ、あの子の言う使命っていうものがどういうものなのか測りかねてるけど、話を聴く限り、あなたが彼女に深く関わるのは避けられない。あのこともあなたの大きな部分。これから深く関わっていくことになるのなら、たぶん、知らないままってわけにはいかないわ」
「…………」
拓矢は言葉を失くした。俯き、怯えたような目をしている。微かに体が震えていた。
それは――あの事件についての話は、拓矢にとって最も辛い思い出であり、心の傷だった。乙姫も拓矢のそんな心の古傷を掘り返したくはない。
だが、先の話を聴く限り、拓矢が何らかの危険に巻き込まれる可能性もあるようだった。もしこのまま何も知らないまま何か二人に不測の事態が起きてしまった場合、その時拓矢に取り返しのつかないことが起こりそうな、嫌な予感がしていた。
しかし拓矢が合意の上で現状に臨もうとする意志があるなら、それを自分の一存で無理矢理拒絶させることはしたくなかった。事情がどうであれ、拓矢に自発的な意志が生まれたことは喜ばしい変化であったし、その意志を尊重したかった。この提案は、現状を考えた上での、拓矢のことを考えた彼女なりの配慮だった。
「話すのが辛いようなら、私から話しておいてあげようか?」
見かねた乙姫が助け舟を出す。拓矢は迷っていた。
あの事を思い出そうとするだけで、胸が重く暗く辛く苦しくなる。できるなら思い出したくはない。
だが、乙姫の言うとおり、それは自分にとって大きなことであるのは明らかだった。瑠水と運命を共にするのなら、それは避けて通ることはできない。そして、自分と彼女の今後に関わる大事な話であるなら、それは自分から話さなければだめなような気がした。
「……いや、僕から話しておくよ。大事なことだから、自分で話したい」
拓矢は恐れに心を苛まれつつ、意志を込めて言い切った。瑠水への想いの力が、彼に恐れをも乗り越えようとする強さを与えようとしていた。
「そう……ごめんね、辛いこと、思い出させちゃって」
「ううん……ありがとう、姉さん。僕らのこと、認めてくれて」
拓矢は弱弱しく笑って返す。その言葉を聞いた乙姫はほっとしたように顔の力を抜いた。
「伊達に二年もあなたのそばにいないわよ。家族なんだからさ。当たり前でしょ」
そして、安心しなさい、とばかりに緩やかに笑った。拓矢はその優しさに、心の緊張が解されていくように感じた。
大切な人が自分を気遣ってくれる。それが拓矢にとって何よりの喜びだった。
それは、家族であり、友達であり。そして、これからは――彼女も。
瑠水の微笑みが脳裏に浮かぶ。その笑顔を想うと心が温かくなった。
しかし――心の奥底にあった恐れはまだ、拭いきれていなかった。
その夜の夢。
拓矢は、静かな草原に立っていた。
静かな風に草が揺れる他に一切の音はなく、朝の光が地平線から空を照らしている。
それは、儚いほどに優しい世界だった。
心は静かだった。しかし、何かざわめきのようなものが胸の奥にあった。
目を凝らすと、少し先にある丘の上に、光を浴びる三つの人影が見えた。
(――あれは……)
拓矢は、その三つの人影が誰なのか、すぐに悟った。
その途端、胸のざわめきが激しくなった。
拓矢は姿のない感情に導かれるように、少しずつ光の先へ、人影の方へ歩いていった。
一歩を踏み出すごとに、胸に痛みが走る。
近付いていけることが、喜ばしくもあり、恐ろしい。
(父さん……母さん……由衣……!)
それは、三年前に事故で亡くなった、拓矢の家族だった。
失ったはずのもの。それは、二度と取り戻せるはずのないもの。
たとえ夢だとしても、再会を願わないはずがない。
だというのに、拓矢の胸には恐れが渦巻いていた。
それが失われたものだということを知っているからこそ、拓矢は不安に駆られる。
たとえまた逢えたとしても、彼らはもう、失われたもの。
また、失われてしまったら。そんな恐れが、彼の胸の奥に眠っていた。
拓矢は、光に照らされた三人の元へと近づいていく。
三人の呼ぶ声が聞こえる。逆光で、三人の顔は見えない。
「拓矢。遅かったな」
灰色の髪をした父・冬吾の穏やかな声。
「ほら拓矢。いらっしゃい。朝日が綺麗よ」
栗色の髪をした母・優子のやわらかな声。
「もー、お兄ちゃん、遅い!早く来てよ!」
そして、太陽のように明るい妹の由衣のはしゃぐ元気な声。
三人の声が胸の奥に響くたび、拓矢は目頭が熱くなる。
もう、逢えない。二度と。――そのはずだった。夢だとしても、また逢えるなんて。
夢であることを心のどこかで知りながら、それを塗り替えるように、拓矢の胸の内に喜びの光が溢れていく。
そして拓矢は、三人の元へ辿り着く。
表情の見えない影のような三人は、しかし笑っていることがわかった。
拓矢は、何もかもを振り切って、胸の内に溢れ出る感情のままに、目の前の小さな妹を抱きしめた。
一瞬、確かにやわらかな体の感触を抱きしめ、心を喜びが満たしたのを感じた。
次の瞬間――世界は色を逆転させていた。
神々しい朝日の光の満ちた空は、禍々しい赤黒い色に塗り潰され、
黄金色の草原は、その輝きを奪われて枯れ果てた色になり、
清々しい香りを運んだ涼やかな風は、毒々しい臭いを含んだ生温いものに変わった。
拓矢は、世界が表情を裏返したのを、暗くなった瞼の色と風の臭いで悟った。
そして、目を開けた。
血塗られた色の空の下、目の前には、三つの黒い柱のようなものがあった。
血糊のような風が纏わりつくように緩く吹き抜ける中、自分はその、人の形をした粘りつく赤黒い血塊の一つを抱きしめていた。
それが、先程まで家族だったものだということは、どうしても頭の中に染み込まなかった。いや、むしろ自分の存在を守ろうとする内なる何かが、全力でその事実が頭に浸み込むのを阻止しているようだった。
「おにい――ちゃん、――どうし、て――」
目の前の、赤黒い血の塊と化した由衣の口が動き、べたついた声を発した。
(――――‼)
拓矢は、全身を猛烈な恐怖にがんじがらめに縛られた。
その時、強い風が吹き、家族だったものは粘ついた塵と化して風にかき消された。
赤黒い塵は拓矢の体に纏わりついた。その手が、体が、血の色に汚されていた。
焼ける血の臭いの立ち込めるあの日の記憶が、傷口から血が溢れるように蘇る。
( ―――――――――――――――― )
思惟も、呼吸も――全ての機能が、停止していた。
拓矢の胸の奥から、どす黒い何かが溢れ出そうとしていた。
恐怖、悲しみ、悔恨、絶望――たった一つの言葉ではどうしても説明のつかない負の感情の怒涛が拓矢の奥底で激しく渦を巻き、濁流となって彼の心を飲み込もうとしていた。
動けない。全身が混沌の感情に痺れさせられて、動かない。
呑まれる。自分の内にある闇に、呑み込まれる。
震えすらない。自分の意識が、黒く塗りつぶされていく。
心が、どろりとした闇に覆い尽されようとしていた。
その時――胸の奥に、小さな光がきらりと瞬いたのを、拓矢は感じた。
『なんて、痛ましい……これが、あなたの心の傷なのですね』
声と共にどこからか現れた光が、流れる清水のように拓矢を包み込んだ。
(…………瑠、水?)
深淵に落ちかけていた拓矢は、光に包まれながら、その名を思い浮かべていた。
流光の神女の姿となった瑠水は、燦然と輝く鳳翼の体で拓矢を包み抱きながら、
『もう、大丈夫。私があなたを守ります。どんな恐れも、私が癒してあげますから』
拓矢の傷つき毒された心を清めるように、聖なる想いを込めて言った。
それは、暗闇に垂らされた一筋の光のように、拓矢の心の奥に入り込んだ。そして、その光は内側から彼の心の傷痕に沁み渡り、毒々しい感情に塗り潰された魂を、濯ぐように塗り替えていく。
( ―――――――――――――――! )
光に照らされた心が、弾けた。
拓矢は、言葉にならない声で、心の奥に渦巻いていた毒を吐き出し始めた。とめどなく涙を流し、溢れ出すままに叫びをあげ、己を引き裂いてしまいたい衝動に衝き動かされながら、自らの内にある穢れを浄化するように、ただひたすらに泣き叫び続けた。
そうだ。わかっていたんだ。どれだけ泣いても、皆が帰って来ることはないって。それでも、その深い傷を忘れることなんてできなくて、ずっと心の奥に抱え続けていて。
でも、本当は、あの日からずっと消えなかったその心の痛みを、誰かに知ってほしかった。理解して、受け容れて、傍にいてもらいたかった。
ずっと怖くて、震えていた。身勝手な願いだとわかっていても、それでも……誰かに、この恐れの傍に寄り添って、大丈夫だって言ってほしかった。
瑠水は、溢れ出す感情に壊れそうになっている拓矢を必死で保とうと、全身全霊を込めて拓矢を抱きしめ続けた。血の色に染まった絶望に塗り潰された世界の中、彼女の光は自らの傷に怯える拓矢を救うために輝いていた。
《大丈夫。私が傍にいますから――――》
砕け散りそうな心の深奥に呼びかける声を、拓矢は震える魂の中に感じた。
ただそれだけの想いを、瑠水は一心に込め続けた。それが、拓矢の血に染まった心を浄化し、彼の罅割れた魂を癒す力となった。
拓矢は、心が力を失い意識が途切れるまで、血を吐くように泣き叫び続けた。
どこまでも深い暗闇に包まれる意識の中、自分を包み込む優しい光が、傷を抱えた魂の傍に寄り添っていてくれることを、拓矢は感じていた。
終わりのない、底の知れない闇に落ちていく中、ただ一つの清らかな光に守られながら、拓矢は暗澹たる思いに溺れるように眠りに沈んでいった。
✢
差し込んできた光の痛みで、目が覚めた。
気が付くと、朝になっていた。拓矢は再び、深い海から浮かび上がってきたように眠りから覚めた。
昨夜の夢は、強く記憶に刻まれていた。怖かった。もし瑠水が現れてくれなかったら、夢の中とはいえ自分は心を壊されてしまったかもしれない。
ふと隣を見ると、裸の瑠水が拓矢に寄り添うようにその体に腕を重ねて眠っていた。静かな寝息を立てるその寝顔は、身の穢れを忘れそうなほどに安らかだった。
拓矢はそっと、その安らかな寝顔の瑠水の額に触れた。手触りのよい彼女の額は心なしかほんのりと温かくて、拓矢は自分の心も温かくなるのを感じた。
瑠水の静かな寝息を聞きながら、拓矢はカーテンを開けた。窓から朝の陽ざしが差し込む。今日も空は快晴、呑気な太陽は陽気な光を世界に降り注がせている。
拓矢はその快晴を、何だか嬉しく思った。
昨日までの自分はこんな風には思わなかったはずだ。朝が来る度にやるせない思いに苛まれていた。燦々と降り注ぐ日差しが恨めしかった。
けれど今は、光があることが、空が晴れていることが、温かいことが、心の底から嬉しい。生きていることが、喜びのように溢れてくるようだ。
そう思えるようになったのは。
拓矢は、ベッドで自分の隣に眠る瑠水を愛しげに見つめる。
その想いが、彼女の夢と繋がったのか、拓矢は眠る瑠水の心の声を感じた。
『……ん……拓矢……』
想いが重なる感覚と共に、瑠水の微睡む思念が拓矢の心に流れ込んでくる。海のように深く大らかな想いで満ちたそれは夢見る眠り子を宿す羊水のように温かく、拓矢の魂を溢れる思いで満たした。
彼女は自分を、悪夢から救ってくれた。
もし彼女が悪夢にうなされるようなことがあれば、今度は僕が助けたい。
瑠水を、助けたい。瑠水の力になりたい。
拓矢は強く、そう思った。
日差しを浴びて部屋と体が温まっていく。拓矢は伸びをして、朝の光を思いっきり浴びた。
何の根拠もないけれど、今日は何だか、いい日になりそうな気がした。
こうして、拓矢は瑠水の存在を知り始め、その心を深く通わせ始めていた。
乙姫は瑠水の存在を、拓矢の彼女として認め、その存在を受け容れていた。
次に明かすべきは友人達――幸紀あたりなのだろうが、うまく説明できるかは自信がなかった。
だが、拓矢の中で瑠水の存在は、既に確たるものとなっていた。
拓矢は瑠水といることに、幸せを感じ始めていた。
しかし、平穏はすぐに、唐突に崩れ去る。
そして、使命は動き出し、
拓矢は、自分の現実を知らされることになる。
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