Cp.1-2 Sunlight White(5)

 陽が沈みかけ、空が鮮やかな赤から宵の深い青に色を塗り替える頃。

 拓矢は由果那の説教をくらって心身へとへとになりながら、家に帰ってきた。

 乙姫は仕事でまだ帰ってきていない。リビングには彼女の流れるような綺麗で簡素な筆跡で「今夜、夕飯お願いね ひめ」と、薄紅色のキスマーク付きの書置きがあった。

 情操教育に悪い、と従姉の悪戯心に胸をやられながら、拓矢は暗くなっていた部屋の明かりを点け、心なしかいつも以上に広く見えるリビングの空間を見回す。

 普段なら、夕時には奈美が夕食や家事の手伝いで家に来てくれているのだが。

(無理だろうな……今日は)

 先程の様子、その経緯、彼女の弱気な性格からすればそう思わざるを得ない。

 誰に言われたわけでもないが、罪な男である。

 小さな息を吐いて自分の部屋に戻って荷物を置き、シャワーを浴びようと風呂場に向かった。

 汗をかいたシャツのボタンを外して、拓矢は全ての衣類を脱ぎ去り、浴室に入る。

 湯を張っていない、乾いた浴室は物寂しい静けさに満ちていた。鏡に映った自分の細く薄い貧弱な体に、言いようのない物悲しさを感じる。

 裸であるために風呂場の空気は当然寒く、拓矢はいそいそとシャワーのレバーを捻った。冷たい水が勢いよく流れ出し、体が縮む思いで水を浴びていると、やがて水は温かい湯になり、天に昇るような安堵感が温もりと共に全身を包み込む。しばらくかけ流しにして体を温めながら、

(それにしても……本当に、何ていうか、濃すぎる一日だったな……)

 拓矢は何だかやけに忙しなかった今日一日前後のことを振り返った。

 昨日、突然現れた夢幻の天女との出逢い。それが全ての発端だろう。直接的でなくても、彼女と出逢ったことが今日のこの、それまでの日常が色を変えたような感覚の理由であることは明らかなように思えた。昨日と今日、たった一日で、世界の色はこんなにも変わるものなのだろうか。

 一方で、彼女の言う「使命」や「戦い」というのも、今のところ取り立てて大きな事態はまだ起こっていないようだった。色々説明を受けはしたが、実際に何が起きるのかわからず、何の体験もない以上、やはりまだ実感というものは薄かった。そのおかげで彼女と出逢えたということに関しては幸運だったと思っているが、正直今はそのくらいの認識しかない。彼女も特に自分を急かすようなこともしてこないし、要である彼女がそうならそれでいいのだろう……。

 その時の拓矢には、瑠水の言う「使命」や「戦い」に対する現実感も危機感もあまりなかった。それよりも彼の内にあったのは、瑠水との出逢いと、それによって変わり始めている自分の世界のことだった。

 瑠水が現れたことによって、自分の世界は変わろうとしている。

 自分の気持ちとしては、あまり変に変わってほしくはない、と思う。人生が楽しいかどうかは別として、乙姫や奈美、幸紀や由果那、大切な人達と続けられる日常の大切さは、誰よりも身に沁みてわかっているつもりだ。その日常を、壊したくはないし、壊されたくもないと思う。

 そこに突然現れた、そんな日常を変える存在。

 それは自分にとって、受け容れるべきものなのか。まだ、判断はしきれない。

 ただ、彼女を想う心の潤いは、自分の暗く沈んだ部分を癒してくれている。それは自分にとって喜ばしいことだった。だから、これまでの日常を変質させる存在だからという理由だけで彼女の存在を否定したくはなかった。たとえそれが、まだ彼女がどういう存在なのかを知らないためであるとしても。

 などと頭の中で問答のように考えていて、ふと気づいた。

 瑠水は今、どこにいるのだろう?

 渦巻く思考で頭が一杯で、彼女のことまで頭が回っていなかったらしい。

 確か、学校にいた時に聞いた話では、自分の心の中に存在を隠せるらしい。ということは、今も彼女は姿を現していないだけで、自分の中にいるということだろうか。

 全く、やはり奇妙な感覚だと思う。だが、都合が良かった。何せ、今自分は裸なのだ。いくら彼女に心を許されているとはいえ、さすがに女性に全裸を見られるのは忍びない――――、

(…………あれ?)

 何かが引っかかったような感じがした。

 状況を整理してみよう。

 今、自分は全裸でシャワーを浴びている。

 瑠水は、学校で聞いた通り、自分の心の中に存在を隠すことができる。

 つまり――今、瑠水は、ここにいる。

 もっと言えば、今この状況の自分を見ている?

(…………)

 拓矢の思考が停止する。シャワーの音が浴室内に乾いたように響く。

 瑠水は、今、裸の自分を見ている……?

 全身が、火照る。状況を確認しようと、口が動きかけた。

「…… 、」

 いや呼んではだめだ。彼女のことを意識したら現れてしまうかもしれない。浴室で二人きりというのはさすがに色々な意味でマズい。下手をしたら、自分の何か大切なものが壊れてしまうかもしれない。良識とか理性とか自制心とか倫理観念とか人格制御とか。

 拓矢は必死で妄念のように頭に絡みつく瑠水の意識を振り払おうとした。しかし、意識しまいとすればするほど、かえって意識というのは強くなる。

 瑠水と浴室で二人きり。浴室となれば、彼女もまた――、

 脳裏に、瑠水の清冽にして魅惑のシルエットが水に濡れる様が描かれる。

 途端、拓矢の中に欲求と自制、相反する二つの感情が生まれ、拮抗を始めた。

(馬鹿、何を考えてるんだ僕は! そんなことを考えちゃいけない!)

 でも、やっぱり瑠水の裸って……

『(見たい?)』

 瑠水のものではない、自身をそそのかすような心の声を、拓矢は聞いた気がした。途端、心の望む欲求が熱く燃え上がり、内心の葛藤がより強くなる。

(いや、だからそんなこと考えちゃだめだって……見たいは、見たいけど…!)

『拓矢? どうしました?』

 その意識の呵責に勘付いたのか、瑠水が拓矢の心に様子を窺うように姿を現した。そして、心を覗くように拓矢の内心の葛藤を見て取ると、可笑しそうにくすりと笑った。

『なるほど、そういうことですね。遠慮なんてなさらなくてもいいんですよ?』

「えっ…」

 瑠水の言葉に、拓矢は虚を突かれた。

 彼女にとって、強い気持ちとは良くも悪くも「善」に近いものなのだ。拓矢の混じり気のない純真な欲求、殻を破ろうとしているむき出しの感情。それに応えるために彼女はそれを感じ取って行動を起こした。

 拓矢の後ろで何かが光り、砂金が零れ落ちるような音がした。

「さあ、拓矢。こちらをご覧になって」

 彼女の甘い声が耳に聞こえる。鏡に、淡白く光る肌の色が映っていた。

 自制をかける理性と欲求を焚き付ける本能が、拓矢の意識の奥で最後の激突をする。

 理性は必死で抵抗するも、ついに本能(欲望)に押し切られ、叩き伏せられた。

 心の底から湧く純粋な愛欲に身を任せるのに、己の魂にどんな悪がそこにあろう、と。

 内心の決着を見た拓矢は、胸をざわつかせ、肩を震わせながら恐る恐る振り返る。

 そこには、どんな芸術に描かれた女神も敵わない、一糸纏わぬ天上の裸体があった。

 白金の糸布のような光沢を宿す薄白青の髪、きめ細やかなシルクのような穢れのない滑らかな肌、過度でも貧相でもない神的な凹凸の均率、胸に実る愛らしい二房の果実、魅惑の輪郭を象る繊細で魔的な曲線美。見る者を遍く魅了する、神の手による理想的な、聖なる女性の造形。

「さあ、どうぞご遠慮なく。私を、あなたのお好きになさってください」

 瑠水は神秘的な恥じらいの笑みを浮かべながら、裸身を隠す両腕を解く。

 女神も裸足で逃げ出すような聖なる乙女の身体が、目の前で自分に捧げられるのを待っていた。

 拓矢は思わずくらついた。その場で理性が崩壊しなかったことを、褒めてやりたかった。


「拓矢、いかがですか?」

 背中に胸の柔らかいものを押し付けながら、瑠水が窺うように訊いてくる。

 前言撤回――理性は、崩壊こそしなかったが、あまりの高熱に溶解しかけていた。

 自らの内に渦巻く欲求と自制の折衝案として拓矢は瑠水に「背中を流して」もらうことにしたのだが、その精神への破壊力は強烈なものだった。

 瑠水が拓矢をその体で包み込むようにして、全身に手を這わせてくる。滑らかな質感を持つ手が全身をゆっくりと撫で回し、背中には天上の弾力を持つ至福の果実がむにゅと押し付けられる。その魅惑の感触に、拓矢の全身にゾクリと甘酸っぱい感覚が走り抜ける。彼女は実体を持っていない、という話も、全身に密着する柔肌の実感の前に吹き飛んでいた。

「る、瑠水……」

「何でしょう?」

 不思議そうに訊き返してくる瑠水に、拓矢は全身を撫で回される快感に痺れそうになりながら、どうにか言葉を絞り出した。

「こ、これ……その……は、恥ずかしいん、だけど」

「ですが、これは拓矢が望んだことでしょう? それとも、まだこれではお気に召しませんか?」

 微塵の穢れも感じさせない瑠水の清廉無垢な言葉に、拓矢は再びぐっと言葉に詰まる。

 自分がこの状況を望んでいた、素直に言おう、それはある一面では事実だ。しかし、こうも現実になるものとは思わなかった。

「る、瑠水は、いいの?」

「何がですか?」

「だから、その……いきなり僕の前で裸になるなんて」

「あら。愛する人に裸を見られることに、悦びこそすれ何の恥がありましょう?」

 拓矢の言葉に、瑠水は可笑しそうにくすりと笑い、愛おしそうに耳元で語りかける。

「私はあなたの魂の伴侶です。あなたにこの身と心の全ての愛を捧げること、それが私の望みなのですから。あなたが望むならば、私はあなたの望みのためにこの心身の全てを捧げて構いません。だから拓矢が遠慮することは何もありませんよ」

 両手ですべすべと拓矢の全身を愛おしそうに撫で回しながら瑠水はそう口にし、

「それに、せっかくこうして一緒になれたのですから、私はこの心のある内にあなたに触れて、魂に焼きつくほどにあなたを感じていたいのです。だから、お嫌でなければ、どうかこの身の闇が埋まるまで、私にもあなたを感じさせてください」

 そう言って瑠水は嬉しそうに拓矢の身に後ろからじゃれかかるように手を回し、ぎゅっと体を密着させてくる。全身にみっちりと感じさせられる、吸い付くような乙女の瑞々しく穢れ無き柔肌。

 触れ合う身体を通じて伝わる熱に、拓矢は全身全霊を蕩かされる気分だった。天国がどんな場所なのか、少し垣間見た気がした。

 それにしても、と、拓矢はひとかけら残った冷たい理性で考える。

 彼女は自分に対して全く行為に対する余計な恥じらいや迷いというものがない。男の前であっさりと裸をさらすなんて、一般的な良識のある女性ならそうそうできないだろう。そのあたりも、彼女のこっちの世界の一般的な感覚との違うところなのだろうか。

 いけない、と拓矢は必死で上気する感情にブレーキをかけようとする。制御しておかないと、際限なく湧き出す欲求が暴走しそうで、さすがにマズい。

 それでも、彼女の「愛する者に全てを捧げる」ような迷いやためらいの無さはある意味凄いと思う。この調子じゃ、自分がやろうと思うことを何でも実行しそうな勢いだ。そう、やろうと思えば――――、

(やろうと、思えば…………⁉)

 彼女は――――、

 その思考に至った時、拓矢の中で何か危険なものが心臓の中で沸騰しかけた。暴走し脱線しかけた欲動を全理性の力が何とか押し止めようとする内部の激闘があった。

(マズい……さすがにそれはマズいって!)

 しかし、拓矢は理性あれど、どこまでも自分の感情に素直なのであった。

 少年としても、人間としても。そして――男としても。

「あら……?」

 瑠水の、拓矢の全身を滑らかに撫でていた手が動きを止めた。そして、背中越しにある男の一点をまじまじと見ている。

「まあ……これが、拓矢の……」

 そして、感心するようにうっとりと嘆息し、何を思ったかそれに触ろうと手を伸ばす。

 拓矢は、全身の体液が蒸発するほどの熱を持つのを感じた。

 まずい。このままでは、本当に理性が溶ける。

「どうやら、ここが一番『感じられる』ようですね……では、失礼いたしますね」

「ちょ、だ、な、そ、それは、そこは、だ…………――――――――」

 柔らかな手の感触が、拓矢の男としての軸を包み込んだ。

 ……そこから先の記憶は、理性が溶解していたせいか、記憶に残っていない。

 ただ、麗しの乙女に最頂点を握られるという、体中が沸騰するような恍惚だけがあった。

 結局、汗を流すつもりで入ったシャワーで、余計に汗をかいたように感じた。

 

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