Cp.1-2 Sunlight White(3)

 早足で息を切らして、拓矢は学校の門に駆け込んだ。8時27分。ギリギリ登校組のピークタイムだった。

 拓矢は息を整えながら階段を急ぎ足で登り、教室へ向かう。その隣には瑠水が距離を離すことなく並んで歩き、その少し後ろから奈美がついて来ている。

 廊下や階段は始業前の賑やかな人々が行き交っていたが、誰も瑠水の存在には気付かない。拓矢はいよいよもって彼女の話は真実であるということを体感し始めていた。

 というか、やっぱり――彼女にしてみれば当たり前のことなのだろうが。

(学校まで、ついて来ちゃうんだね……)

 朝は急いでいたから言及している暇もなかったのだが、今更のように拓矢は参った。

「私の命願はあなたと共にあることですから。あなたの傍に付き添うのは当然です」

 その内心を読み取った瑠水がにこりと微笑みながら、さも当然のように答えた。

 拓矢は自分に向けられるその眩しいばかりの綺麗な笑顔に、心が重くなるのを感じた。

 なぜだろう。

 こんなに飾り気なく綺麗な、天使そのもののような女性が自分に一途な想いを寄せてくれている。それが嬉しくないわけがないし、嫌なわけがない。なのにどうして、この心はこんなにも重く、暗くなるのか。

 拓矢の表情に映ったその暗さを見て、瑠水は悲しげな目をした。

「私に付き添われるのは、お嫌ですか?」

「え? あ、いや、ち、ちが、い、嫌じゃないんだ、けど……」

 拓矢は誤解をさせまいととっさにそれを否定していた。思わず声になってしまい、奈美を始め、周りにいた人達が何事かと驚いた様子を見せた。拓矢は胸の内が空回る羞恥で熱くなるのを感じた。

 拓矢は(経緯がどうであれ)初めてできた「彼女」――しかもおそらく、単純に付き合う別れる、といった世間並みのそれよりも遥かに意味合いが大きいもの――という立場の存在との付き合い方に戸惑っていた。自分がそんな存在を持つこと、そんな関係を持てることを想像すらしていなかった彼にとって、瑠水という「ある夜突然現れた、自分に愛と献身を誓ってくれる天外の美女、あるいは天使」という存在は、まさに青天の霹靂へきれきといった趣、全く予想もしていないことだった。故に全くそういった免疫を持たなかった拓矢は、接し方も知らず、ただ戸惑うしかできないのだった。

 そんな葛藤を胸の内に渦巻かせながら、拓矢は教室の前まで来ていた。

 薄い黄緑色の扉に手をかけ、スライドさせる。時刻は8時29分。拓矢にしては珍しいギリギリの時間だ。教室の中はホームルームを控えて雑談する声で賑わっていた。

 後ろのドアから入り、真っ直ぐに最角の自分の席へと向かう。荷物を降ろして机に倒れ込むと、自然と疲れを吐き出すような大きなため息が出た。昨日から今日に至るまで、あまりに不可思議な出来事がありすぎた。心も慣れないことだらけで疲れるというものだ。

 拓矢は重い頭を緩慢に上げ、何の気なしに周囲を見回した所で、その異変に気付いた。

(……あれ?)

 自分の傍はおろか、周りを見回しても、瑠水の姿がどこにもない。

 どこに行ったのだろうか。さっきは「離れるわけにはいかない」とか言ってたのに。

 しかし拓矢の奇妙な感覚は、そこに止まらなかった。

 瑠水の存在を感じる。すぐ近くどころではない。まるで自分と同じ所にいるかのような。

(――瑠水?)

 疑念は心の声になり、案の定、答えはすぐに返ってきた。

『はい。ここにいますよ。あなたの心の中に』

 瑠水の声は、外からではなく内側から聞こえ、耳からではなく心に響いた。

『私の姿があなたを疲れさせてしまうようなら、私はあなたの心に姿を隠していることにします。これなら、そんなに気にされることもないでしょう?』

 そう話す瑠水の声は、まるで水鏡の向こうから聞こえてくるような不思議な響きをしていた。

『私に会いたくなったら、思い出してください。姿を現しますから』

 その言葉に導かれるように、拓矢は瑠水の姿を想像した。頭の中に彼女の清冽なイメージが形を成す。目に映るものではないが、そこには確かに瑠水の姿が見えていた。

 瑠水なりに困惑する自分に気を遣ってくれているのだろう。違和感もあるにはあったが、不慣れなことに少し間を置かせてくれた安心感と、瑠水が気を遣ってくれたということの方が大きく、ありがたかった。

『……うん』

 拓矢はもう何度目かの奇妙な、普通でない感覚を感じながら、だんだんとそうした「瑠水の感覚」に慣れ始めている自分に気付いた。それは不思議でありながら、決して気持ちの悪いものではなかった。

 姿は見えないが、瑠水が自分と一緒にいるということを確かに感じていた。体の触れ合いをも越えて、二つの心が溶け合い一つになっている感覚。そこには魂を許し合えるような穏やかな心地と安堵感があった。

 拓矢は瑠水の存在に心を満たされながら、窓の外に目を向けた。いつも見ていたその景色が、いつもよりも色鮮やかに輝いて見えていた。心に言いようのない喜びが溢れ、自然と笑みが浮かんでいた。

「どうしたんだろう、拓くん……何だか嬉しそう……?」

「ふうん、珍しいわね。何かあったのかな?」

「何だろうな。まあ、今は邪魔しないでやった方がいいかな」

「何でよ?」

「あいつが一人であんな嬉しそうな顔してるなんて、滅多にないからさ。いい気分に水を差すこともないだろ」

「うん……そうだね」

「ちぇー。何があったのか訊きたかったのになー」

「まあ、今は時間もないし、後でな」

 彼に声をかけようとしていた奈美、由果那、幸紀の三人は、三者三様の思いを浮かべながら、その様子を少し遠巻きに見ていた。

 やがて程なくして、始業を告げる8時30分のチャイムが鳴った。



 授業中、拓矢は席が窓際にあることもあって、窓の外を見ていることが多い。

 授業をサボろうとするような無頼な気概があるわけではないが、この年頃の常として、何かと現実から気を紛らわせようとする傾向はある。拓矢が外を何の気なしに見るのも、その内だった。

 普段なら、教師がチョークを黒板にカツカツと走らせる音を環境音に、グラウンドで体育の授業に励んでいるクラスの様子が豆粒のように小さく見えたりする。遠くから聞こえてくる威勢のいい声を耳にしながら、よくあんなに全力で走れるよな、と拓矢はぼんやりと思う。

 そして、空を見る。

 その日は雲一つない晴天で、青空は光に霞むような薄い水色をしていた。

 暇さえあれば拓矢は空を見ていた。空は時間や天候によって様々に姿や色を変え、空気の匂いまでも変える。いつ見ても飽きないその姿は、気を紛らわす相手には最適だった。

 今まではそんなふうに、一人で物思いにふけるのが常だった。

 しかし、その日は違った。

『拓矢、これは、何をしているのですか?』

 一人だけだった思考に、瑠水の声が入ってくる。拓矢は少し戸惑いながらも、その質問に答えた。今度はちゃんと人に気取られないように、思念による通信、『心話』を使って。

『えっと……今は英語の授業、かな』

『英語?』

 どうやらその部分も説明しなければならないらしい。拓矢は慣れない事態に困惑しながら、自分の中で言葉を探す。

『うーん……言葉の一種だよ』

『一種…意思疎通の手段に種類があるのですか?』

 驚いたように瑠水は言う。拓矢はむしろそちらの方に驚いた。

『そりゃ、国や地域によって使う言葉が違うから。ていうか、君だって日本語を使ってるじゃないか』

『私は日本語というものは知りませんよ?』

『え? いや、だって……ん?』

 拓矢の中でまたしても何かが引っかかる。

 彼女の話からすると、彼女は本当に言語に種類があることも、また故に日本語も知らない。だが、自分には彼女の言葉を日本語として認識している。どうやらまた詳しい解説が必要なようだった。

『どういうこと? 僕には君の言葉が日本語に聞こえるんだけど』

『それは私の思念があなたに伝わるように変換されているからです』

 予想通り、瑠水はその仕組みを話してくれた。

『私達精神体は全て意思の疎通に同一の方法である心意通信レコンを使います。それは同じ精神の世界の者同士ならもちろん通じますし、私達のように心を通わせる者同士なら、お互いの思念がお互いにわかるように自動的に変換されて伝わるのですよ』

 瑠水の説明を、拓矢は理解に変換する。

『それって、心を通じ合わせる人となら何でも通じるってこと?』

『あなたの観念に照らすなら、そういうことにもなるようですね。言葉ではなく、言葉が伝えようとする思念そのものをやり取りするようなものです。だからあなたの世界における言語の壁というものは、私達の間には存在しないようですね』

 説明を聞いて、拓矢は妙にしっくりくるところがあった。これまでのやたら難しい彼女の感覚の説明や、彼女が自分の心を読み取っていたのもそこに由来するのかもしれないと一人得心していた。

『学び舎、ですか……何だか、不思議な感覚ですね』

 そんな中、ふとしみじみと呟いた瑠水に、拓矢の中に純粋な疑問が湧いた。

『瑠水は、学校とか行ったりしてないんだよね、たぶん』

『ええ。私達はイリスの中に宿っている間に自身を形作るものを彼女の観察を介して得ていたので、必要なものを新たに学ぶということはありませんでした』

 いちいち話のスケールが大きな瑠水の答えに、拓矢は問いを重ねた。

『じゃあ、言葉とかはどこで覚えたの?』

『それも、イリスが観察によって学んでいたものから得ました。私達イリアを構成するものは、基本的にイリスが「観察」を通じて得ていた、彼女自身の経験によるものです』

『観察、って?』

 その問いに、瑠水が一瞬自らの過去を振り返るような思いになったのを、拓矢は感じ取った。

『イリスは、眠りの中に漂うことを望んでいたルクスに対し、外界である目覚めの世界――この現在界マテリアラに興味を示すことがありました。彼女は幻想界アニマリアからこの現在界を観察して、様々なものを学んでいたのです。ルクスはそれを眠りの妨げとして嫌がっていたようですが』

 瑠水の言葉にわずかな陰りが生まれたのを、拓矢は感じ取った。

 今までの彼女の経緯からすれば、それが何を意味するのかわかる。

 眠りを望んだルクスが、目覚めを望んだイリスとその内のイリアと決裂したことで、瑠水達の今の状況が生まれたのだ。瑠水からすれば現在界に降りることが望みだったらしいが、それはいかなる理由であれ、彼女を命がけの戦いの中に放り込んだことに違いはない。

『イリスが私達の想いに呼応することで分裂するとは思っていませんでしたが、あなたの元へ降りたいと思っていたのは私の意志です。他のイリアもそれは同じでしょう。私達は私達の願いのために、この状況を受け容れたのです。ですから、拓矢が気に病むことは何もありませんよ』

 瑠水はそう言ったが、その心の内に渦巻く薄暗い思いを、拓矢は察した。

 かつての友――あるいは姉妹が、今は悲願のために競い合う敵。それは、事によれば争いも、もっと言えば殺し合いも辞さない関係。自分にしてみれば、例えば何か一つのものを巡って幸紀や由果那と争うようなものだ(奈美はその想像に入らなかった)。

(僕だったら……)

 拓矢は想像できなかった。もしも大切なものを巡って幸紀や由果那と争うようなことになったなら、自分は戦えるのだろうか。

『少し、例え話をしましょうか』

 瑠水はまたもそんな拓矢の心中を読み取っていたらしく、一つの提案をしてきた。

『例え話?』

『そう。例えば……あなたの大切な人、この場合は、彼ですね』

 瑠水はそう言って、幸紀の席を指差した。彼は適度に緊張感を抜いた悠然とした態度で授業を聞いている。さほど真面目くさった様子を見せず、しかし成績はちゃんとしているあたりが彼の非凡なところだった。

『ユキのこと?』

『そう。例えばの話ですが、もし彼が私をあなたから奪おうとしたら、あなたはどうしますか?』

「え……」

 思わぬ話に拓矢は面食らった。もしも幸紀が瑠水を奪おうとしたら?

 瑠水を守るためには幸紀と争わなければならず、幸紀と争いたくなければ瑠水を手放さなければならない。自分はそれを許せるか。そして、どちらを選ぶのか。

 そこに考えが至った時、拓矢は瑠水がこんな例え話をした理由がわかった。同時に、瑠水の心持ちもある程度理解できた。それを見取ったように瑠水が言った。

『そういうことです。自分の大切なものを守るためには、それを脅かす相手とは戦うしかない。その相手が誰であっても。たとえかつての友だったとしても。争いから逃げてしまえば、それは同時に自分の大切なものまで失ってしまうことになる。私はそうするわけにはいきません』

 そう語る瑠水の言葉には、己を懸ける信念にも似た熱意が込められていた。

私達彩姫イリアは、選んだ命士イクサと共に生きることを望んだだけの存在であり、その望みによって生まれ、生きている存在です。私や他の彩姫達にとって、「愛するイクサと共にある」という自身に課した使命とは、そういうもの――自らの存在に関わる、譲れないものなのです』

 そう語る瑠水の瞳は強く澄んだ光を宿していた。その瞳の意志の光に思わず見入っていた拓矢の中に、ふいにある疑問が浮かび、それは言葉になっていた。

『じゃあ、その使命が上手くいかなかったら、君は……彩姫はどうなってしまうの?』

 立場をかけて争うのなら、当然その座に就けない者達――敗北者が出てくる。瑠水の言い様では、まるでその座に落ちた者は生きる理由を失くすほどの言い様だ。争いの果てに脱落した瑠水や他の彩姫が自らの生に絶望してしまうような姿を思い浮かべるのは胸が痛かった。

 瑠水は拓矢のその発想に驚いたようだったが、やがてふっと心を緩めたように笑んだ。

『優しいのですね、拓矢は。私だけでなく、他の彩姫のことまで気に掛けるなんて』

『やっぱり、わかるんだね…』

 拓矢は、かなわない、という気分になる。やはり奥の方まで御見通しらしい。

 瑠水はそんな拓矢の気心に気をよくしたように、明るい調子で言った。

『ご心配には及びません。私には、拓矢――あなたがいますから』

「えっ」

 さらりと口にされた愛の言葉に拓矢は一瞬動揺する。心の内から自分を見つめてくる瑠水の言葉は、一点の濁りもなく透き通った真心の色をしていたように感じられた。

『少なくとも今は、あなたが私を認めてくれている限り、私は私を支えることができます。他のイリアにしてもそれは同じでしょう。ご心配には及びません』

『そっか……なら、よかった』

 瑠水が自身を犠牲にするような考えに縛られていないことを知り、拓矢はひとまず安心する。

 仮に別に自分達の話でなくても、そんな話では心配にはなるのが拓矢だった。飾りのない善意の思い遣りの表れているそんな態度に、瑠水は嬉しそうに表情を綻ばせた。

『それで、拓矢はもしそうなったらどうしてくださるんですか?』

『え? 例えの話じゃないの?』

『もしものことです』

 そう言う瑠水が何かを期待するような目をしているのを、拓矢は読み取れてしまった。

(まあ……いいよね。どのみち本心でもあるし)

 そう心の中で前置きをする。瑠水に読み取られていないことを祈った。

『もしそうなったら、戦うよ。僕は君を守りたい。ユキとは…できれば戦いたくないけどさ』

 その答えは万全の自信を持ってはいなかったが、決して嘘ではなかった。

 瑠水はそれを聞いて嬉しそうに顔を綻ばせた。拓矢はその笑顔に心が上気するのを感じて、恥ずかしそうに頭をかいた。

 ちなみにこの会話は全て二人の心の間で交わされたものであり、音声は出していないため、人に気付かれることはなかった。その後も二人のとりとめのない会話は誰にも邪魔されることなく、その日の授業が終わるまで続いた。

 それが、思わぬトラブルを引き起こす元になるなど、考えもしていなかった。


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