Cp.1-2 Sunlight White(1)
開け放したままだったカーテン越しに差し込んでくる二条の陽の光が、目に差し込んでくる。拓矢は眩しい陽光に目を細めながら、ゆっくりとその目を光に慣らした。
ベッドの上に体を起こし、明るい窓を見る。既に陽は登り、朝になっていた。
昨夜はあのまま眠ってしまっていたらしい。自分の頭が枕の位置にあったことを考えると、乙姫が寝付いてしまった自分をちゃんと直してくれたといったところだろうか、と拓矢は現在に至る状況を顧みる。顧みて――改めて思うことは。
(……夢じゃ、ないんだよね)
正直、まだ整理はついていない。昨日はえらく非現実的な世界に入り込んだような感覚を覚えている。夢と現実がごちゃまぜになったような気分。もっとも、瑠水の存在自体が夢の中の人のようなものであるので、それも仕方のないことかとも思う。
そこまで思ったところで、拓矢ははたと瑠水のことに思い至った。姿が見えないが、彼女はあの後どうしたのだろうか。
この部屋には拓矢の寝ているベッド以外に眠れるような場所はない。スペースということであれば床やクローゼットがあるにはあるが、よもやあのような姫君を毛布もなしに寝かせるような状況を想像するのは憚られた。昨夜の記憶を辿れば、彼女は拓矢の心に宿っていると言っていた。しかしでは今はどこに……?
まだまだ分からないことが多いな、と思考を一旦まとめてから、拓矢は瑠水の姿を求めて部屋を見回した。そしてふと手に触れるたおやかな指の感触を感じ――、
(ッ…………‼)
二つの理由から激しく動揺し、思わず息を呑んでいた。
一つには、彼女は意外にも拓矢のすぐ近くに――本当にすぐ近く、すなわち拓矢の隣に寝ていた。拓矢のベッドに入り込んで、弓なりの軌跡を描く綺麗な目蓋を閉じ、スゥスゥと静かな寝息を立てている。全てを忘れて見入ってしまいそうなくらい、それは安らかな寝顔だった。
それだけで既に拓矢の内心は大波乱であるところに、さらにもう一つ。
拓矢に寄り添うようにして横になっていた彼女はよく見ると、一糸纏わぬ、生まれたままの姿をしていたのだ。つまり、裸だった。
異世界の神の創り出したるその汚れなき純白の肢体は、この世のいかなる高名な彫刻家の傑作にしてもとても及びもつかない程の、信じられない位美しい全体の調和を体現していた。すらりと伸びた緩やかかつ凛とした脚線を描く脚、悩ましくも主張しすぎることのないほっそりとした腰回り。胸に実った手頃な大きさながら見事な張りと艶が見える二房の愛らしい乳房は禁忌の果実を連想させ、見る者の内に甘美な感覚を呼び起こす。全体のどこをとっても目が眩むような美しさであり、尚且つそれらすべてが一つに統合されて完全な形として存在している。拓矢の目には、その彼女の体は、まるで女性美の完成形・理想像そのものにすら見えた。
拓矢はあまりのことと彼女の美しさに我を忘れ、結果、そのままその美しすぎる無垢の裸身に呆けたように見惚れていた。体中がこの十七年間生きてきた中で間違いなく最高の温度上昇を記録しているのがわかった。こういう時に例えば驚いて叫んだりとか、そういう対処の仕方に慣れておらず、ただ呆然とするしか能のなかったことが、この時ばかりは全くもって幸運だった。
やがて、何の前触れもなく自然に、瑠水はスッと目を開けた。瑠璃色の宝石のような瞳が拓矢の眼を捉える。あまりに唐突だったので、拓矢は心臓が縮みそうな思いをした。
「おはようございます。どうしたのですか、拓矢? 気が動転しているようですけれど」
顔を熱くしながら自分の方を見ている拓矢に向かって、目を覚ました瑠水はゆっくりと体を起こして柔らかく微笑んだ。流れるような月光色の髪がベッドのシーツの上を滑る。惜しげもなく露わに晒された胸元の二房が直で目に入ってしまい、目のやり場に困った拓矢は言った。
「いや、その……何で、服、着てないの?」
「えっ?」
拓矢の言葉に瑠水は自分の身に目を遣り、初めて拓矢が動転している理由に気付いたらしい。
「あら……『
そして、頬を薄く染めて恥じらいの色を見せながら、しかしどこか拓矢の様子を可笑しがるように小さく笑うと、
「お待ちください。今、装衣を着けますね」
「えっ? あ、ああ、そういえば…」
拓矢はそこでまたも奇妙な事実に気付いた。昨夜彼女の着ていた月光の糸で織られていたような煌びやかなドレスがどこにも見当たらない。脱いだ形跡もないようだが、あれはどこに?
瑠水は白く輝く肢体を滑らかに流しながらベッドから降りて床の上に立ち、両手を胸の前で祈るように組んでそっと目を閉じた。
「
そう口にした途端、うっすらと光を帯びた彼女の体から弾けるように現れた光の粒が、彼女を装うようにその身に纏われていく。
青白い光の粒子が全身の輪郭を象ったところで、瑠水はそっと目を開けた。それと同時に彼女を包んでいた光は霧散し、瑠水は昨夜の夜闇の中に見たのと同じ、宝石をちりばめた月光の布のような煌めくドレスを再びその身に纏っていた。
「私は現実体を持たない存在なので、この世界の実体である衣服を直接身に着けることはできません。ですがその代わり、私の姿や装衣は想念によって自由に変化させることができます。普段はこの姿、この装衣ですが、お望みとあればどんな姿にもなりましょう」
呆然としていた拓矢にそう言うと、瑠水はその場で踊るようにくるりと一回転した。レースのようにすべらかなロングスカートが流麗に回り、光の粒が部屋の中に振り撒かれる。もう朝の陽差しが満ちているはずなのに、目の前の乙女からは冷たい朝を彩るような眩い光を感じた。
そうして、一通りの驚きが収まった後。
拓矢は、ひとまず一日を始めることにした。
「……おはよう、瑠水」
拓矢は、目の前にいる幻想の伴侶である乙女に、ぎこちなく初めの言葉をかけた。
「ええ。おはようございます、拓矢」
夢のような乙女は、夢から覚めたことを喜ぶように、微笑んでそれに応えた。
初夜、ならぬ初朝だった。
拓矢はその時、随分と久しく振りに、朝が悲しみに染められていない自分に気づいた。目の前で微笑むこの乙女に、朝が彩られているような心地だった。
と、壁に掛けてある時計が目に入った。それが示す時刻を見て、
「ん……やば」
拓矢は一旦、夢見心地から覚まされた。
支度を終えてリビングに入る手前、拓矢は一瞬逡巡した。
隣に付いて来ていた瑠水も足を止める。拓矢は逡巡の原因である彼女にチラと視線を向け、瑠水が「?」と小首を傾げたのを見て頭を悩ませかけた。
拓矢は彼女の存在とその在り方を何とか理解したが、他の者――乙姫は彼女の存在を知らず、どころか今はまだ彼女の姿を目にすることさえもできない、いわゆる全く理解のない状態である。自分にだけわかることを人にもわかるように説明するのは難しい。ましてどう考えても明らかに常識を逸脱しているこの状況と彼女の存在を、果たして乙姫は理解してくれるだろうか。
(考えても仕方ない…とにかく、今は行かないと)
やがて拓矢は覚悟を決めるように小さく息を吸い込むと、居間のドアを開けた。
「おはよう、姉さん」
「ん、おはよ……んん?」
顔を合わせた時に乙姫が訝しげな顔をしたことに、拓矢は動揺を禁じ得なかった。
「な、なに? 姉さん」
心なしか声が裏返りかけていた。まさか、何も話していないのに感づかれたのか。そう思って反射的に隣の瑠水に視線を投げるが、瑠水は首を横に振った。
乙姫はしばし拓矢を観察するように見つめていたが、やがて柔らかく微笑んだ。
「んー? いや、何だか今日はいつもより元気が良いなって思ってね」
「え……そ、そう?」
思わぬ所を突かれ返しの言葉を失った拓矢に、乙姫は軽く笑いかけた。
「伊達に二年も一つ屋根の下で暮らしてないってね。何かいい夢でも見たの?」
「あ、うん、ええと……」
拓矢は予想外の対応に返事に困り、口を濁した。やはりまだ気付いてはいないらしい。内心ほっとすると同時に、改めてどう説明すればよいのか途方に暮れようとしていた。
その様子を見ていた乙姫は、細い左手首に巻かれていた銀の腕時計に目を遣り、言った。
「ま、それはそれでいいんだけど……時間、大丈夫なの?」
「え?」
乙姫の指摘と同時に、呼び鈴が鳴る。拓矢は現実の厳しさ――時間は戻らないという真実を小さく(体感的には大きく)痛感する羽目になった。
「時間ないな……姉さんごめん、色々は帰ってきたら話すよ」
「はいはい。パン持って行きなさい。朝ご飯はどうする? 目玉焼きだけだけど」
「ごめん、できたら食べちゃって。夕飯は僕がやるから。じゃあ、行ってきます」
「あら、そう? それじゃあお願いしようかな。あんまり焦っちゃダメよ。気をつけてね」
「うん。行ってきます」
拓矢はあたふたと出支度をすると、トーストを鞄に入れて玄関に急いだ。
(色々、ねぇ……私の知らない所で何があったのかしら)
その様子を見送った乙姫は、拓矢の言葉尻を聞き漏らさなかった。拓矢は正直者で隠し事が下手だ。やっぱり何かあったのね、と乙姫は二年の姉としての付き合いの勘で直感した。
彼の様子を見た限り、どうやら悪いことではなかったらしいが――だが、拓矢に何かしらの変化が訪れる、それ自体が望ましいものであると同時に、心配なことだった。
何も知らない人からすれば、過保護に思えるかもしれない。
けれど、あんなことがあった後では、心配になるのも仕方ないだろう。
拓矢はだいぶ、回復した。
しかし、いつ何があって彼の心が崩れてしまうかもわからない。
その可能性を思うと、心配せずにはいられないのだった。
乙姫は拓矢の変化をわずかに感じ取り、神妙な面持ちで紅茶をすすった。
熱を湛えた紅茶が、茶色を通り越して赤色に見えた。
逸る思いで玄関のドアを開けると、いつものように玄関前で奈美が待っていた。勢いよく飛び出してきた拓矢に虚を突かれた奈美は一瞬驚く様子を見せたが、拓矢の顔を見るとすぐに安心したような穏やかな顔に戻って微笑んだ。
「おはよう。ごめん奈美、遅くなった」
「うん、大丈夫だよ。これくらいなら十分間に合うはず」
「そうだね。少し急げる?」
「うん。でも、拓くんが慌ててるなんて珍しいね」
そんな会話を交わしながら、拓矢と奈美の二人は学校への道を少し急ぎ足で歩く。
別に遅刻の一回や二回で成績がどうということもないのだが、拓矢は変に生真面目なところがあり、そうした規則の類はできるだけ守ろうとする性質があった。
出発前の時間はいつもより若干慌ただしくなったが、頭は湯上りで毒気を抜かれたように軽く、すっきりと意識は醒めている。昨日の夢に囚われていたような頭の混乱はもうなく、むしろ胸の奥に溜まっていた澱みが水に流されたような爽快さがあった。
通学路に繋がる御波川の堤防沿いまで差しかかった所で、奈美が話しかけてきた。
「そういえば、拓くん……昨日、何で急に走って行っちゃったの?」
「え? あ、ああ…あの時か」
拓矢はその言葉に昨日の状況を思い返す。謎の白い影を追って走っていった時のことだろう。それについて説明しようとすると、必然的に自分にまつわる諸々の事情――具体的には瑠水の説明に触れなければならなそうだった。果たして奈美は理解してくれるだろうか。
そんなことを考えていると、隣を歩く奈美が微かな声で笑うように言った。
「いきなり行っちゃったから、びっくりしたよ。それに……」
奈美は弱弱しく笑いながらそう言うと、口調を少し陰らせた。
「またどこかに行っちゃうんじゃないかって、怖かった」
「……!」
奈美のその口調には、恐れが滲んでいた。拓矢はそれを聞いて自分の失態を悟った。
昨日はのっぴきならぬ事情があったとはいえ、三人を振り切って行ってしまったのは事実だ。そして、自分が彼らの前からいきなり姿を消すということがどれほど彼らにとって、まして奈美にとって不安を覚えさせることであったかということを、あの時の拓矢は失念していた。
自戒の思いが胸を掠める中、拓矢は、隣を歩く奈美の寂しげな声を聞いた。
「拓くん……もう、いなくならないで。私は、拓くんとずっと一緒にいたい」
「奈美……」
奈美が切々と言葉を紡ぎ、わずかに拓矢の方に身を寄せる。
右隣に俯きながら立つ奈美の姿はとても儚げで、強く引き寄せれば壊れてしまいそうに思えた。自分のせいで大切な人を不安にさせてしまったことに、拓矢は胸を痛めた。
そうだ。忘れちゃいけない。僕はもう、みんなを悲しませるわけにはいかないんだ…。
心の奥のやわらかい部分が疼き、拓矢は奈美を慰めようとその手を握ろうとして、
『拓矢?』
「ふわっ⁉」
耳元で囁くような近さでいきなり瑠水が声をかけてきて、拓矢は反射的に身を震わせた。連鎖的に拓矢の隣にいた奈美も夢から覚めたようにびくりとする。
「た、拓くん⁉ どうしたの? また何か――」
「あ、い、いや、何でもないよ! ちょっと、寝ぼけてるみたいで……」
突然の異常な反応の言い訳をしている最中、瑠水が二人の間にだけ通じ合う声で話しかけてきた。
『この女性は、何者なのですか?』
どうやら奈美の存在が気になったらしい。拓矢は瑠水に対し普通に肉声で答える。それがどれだけ世間的に見ればおかしな行為であるかにも気付かず。
「え、あ、ああ、奈美だよ。桐谷奈美。僕の幼馴染」
『幼馴染?』
「小さい頃からの友達っていう意味だよ」
拓矢の言葉に、瑠水は不思議そうな声で問い返してきた。
『なるほど、つまりは友人ですか。ですが、彼女は本当にそれだけの存在なのですか?』
「え? それってどういう――」
問い返した拓矢は、奈美の怪訝そうな声を聞いて、我に返った。
「……拓くん? 誰と話してるの?」
「え? あ、いや、その……」
拓矢の挙動を不審に思った奈美に声をかけられ、拓矢は返しに戸惑った。彼女にしてみれば、拓矢はいきなり虚空に向かって誰かと話すように独り言を話し始めたように見えたのである。
「あ、そ、それより、時間ない! 少し急ごう、奈美!」
「あ、う、うん……?」
拓矢は何とかその場をごまかし、奈美と二人で少し小走りになって学校へと急いだ。
右隣の奈美に対して左隣には瑠水が、拓矢に影のように寄り添うように並んで地を滑るように移動している。足元は見えないが、どうやらただ単に足を進めているわけではなさそうだった。白銀色のドレスのスカートと月光色の長い髪が、風と光に流れるように靡いていた。
彼女には重さもないのだろうか、と、拓矢は走りながら彼女の不思議について考える。
昨日の夢――月夜の水園と、そこで瑠水から聞かされた、彼女の《使命》の詳細。
それは、彼女の存在と同じく、日常から大きく外れたものであり、しかし、拓矢にとっては避けようのない事実となって受け容れられた。
走る速度で切る空気が小さな風となって、拓矢の頬を撫でながら駆け抜けていく。
その涼やかさに、拓矢は夢の中の夜気の涼しさを思い出していた。
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