Cp.1-1 Beginning Blue(5)
月明かりの静かに差し込む部屋の中、瑠水はベッドの
「月の綺麗な夜ですね」
窓から部屋に注ぐ月明かりを浴びながら、瑠水は中天に浮かぶ銀色に輝く月を見上げ、感じ入るように口にした。その言葉は夜の水辺のように静かに、そしてどこか悲しげにさざめいて聞こえた。
拓矢はそれを美しいと思いながら、何も言えなかった。彼女のそのあまりにも幻想的な姿に見惚れていたというのもあったが、彼女の口からこの不可解な状況に説明を与えてもらうのを待たなければならないと思っていたのもあった。瑠水は拓矢のその内心を読み取ったように、拓矢にすまなさそうな笑みを向けた。
「お話しするべきことが、沢山ありますね」
拓矢が頷きを返すのを見て、瑠水は緩やかな清水の流れのような声で話し始めた。
「私は、
瑠水はそう言って、拓矢に氷を融かすようなやわらかな笑みを見せる。そのどこか寂しげながら喜色を浮かべた笑顔は、見ていると移ってくる感情に胸が滲むようだった。
だが、彼女の笑顔にはどこか影があるのを拓矢は感じ取った。そして、心からの喜びの感情さえも暗い色に染めてしまうようなそれは、彼女の抱える問題がそう単純でないことを測り知るにもまた十分だった。
「何か、事情があるんだね?」
ただ出逢えたことを素直に喜ぶわけにはいかないような事情が…そう拓矢は察した。とはいえ、拓矢はその事情のことを何も知らなかったし、彼女の想いに知らない横から口を出したりもしたくなかったために、それだけを訊ねるに留めた。瑠水は拓矢のその配慮を奥まで読み取ったようにふと寂しげに笑むと、彼女の事情の説明を始めた。
「私は、幻想界に棲む二心一体の神体の片割れである女性神『イリス』の分身の一体として生まれました。イリスの中でそれぞれに想う人との求愛の呼応によって存在を個別化させてきた私達イリアの想いに母体であるイリスが同調し、それがもう一方の神体の片割れ、
瑠水の話すことをそのまま理解できていたかと言われると難しいが、とりあえずわからないなりに彼女の話す事情として聞くには聞こうと、拓矢は神妙な気分で傾聴していた。瑠水は拓矢のその受容の態度に安堵するような微笑みを浮かべると、説明を続けた。
「分裂したイリスとして生まれた私達八人の
瑠水はそこで一旦話を切ると、ここまでの話の理解と整理を待つような穏やかな目を拓矢に向けた。拓矢はその時間を使って、未知の世界の知識を送り込まれた頭を整理すると、確かめるように瑠水に訊ねた。
「ってことは…君は、厳密には、人間じゃないんだね?」
拓矢の問いに、瑠水は迷わず首肯した。
「はい。在り様としては限りなくあなた達人間に近いと思いますが、私達はこの現在界における実体を持つ存在ではありません。幻想界は仮象の実体を模る思念が浮遊する、実体を持たない者達の漂う融睡の世界、あなた達の言葉で表すなら霊魂の世界です。私は言うなればあなたの認知上のみにおける存在であり、あなたの身体による感覚ではなく霊的な接触による知覚によって感覚される『霊的実体』のようなものだと思ってください」
「霊的実体?」
難しい言葉に疑問を抱いた拓矢の瞳を愛おしそうに見つめながら、瑠水は説明した。
「私は精神上の知覚によってのみ感覚される霊体であり、あなたにその存在を宿しています。そして、あなたがあなた自身の精神の作用により自らの考えや思いを把握することができるのと同じ仕組みで、あなたはあなたの一部となっている私を把握できる。それは、私があなたに『知られたもの』として、知覚できる存在として認識されているからです。自分が知っているものを自らの想念の内に現出させることができるのは、自然な作用でしょう?」
言って、瑠水は月光の銀色を帯びて光る髪をさらりと梳くと、夜闇の中に宝石のように煌めく青い光を宿した眼を拓矢に向けた。
「あなたが私を知覚することができるのは、そういう仕組みです。これはあなただけでなく、あなたの周りの他の人間に対しても適用されます」
瑠水の話すその仕組みを何とか飲み込んだ拓矢は同時に、それが意味する所に思い当たった。さっき、乙姫が目の前にいた瑠水をすり抜けたこと。
「じゃあ、さっきのは…」
拓矢の疑問を解くように、瑠水は頷いた。
「あなたのお姉様には、私はまだ認識されていなかった。だから私が見えず、触れることもできなかったのです。私が存在すると信じてもらえれば、あの人にも私が見えるようになるでしょう」
瑠水のその説明に、拓矢は得心した。
要は、彼女がいると知っている人は見えるようにも触れられるようにもなるし、知らない人は見ることも触れることもできない、ということだろう。言い回しは難しかったが、その基本的な仕組み自体を拓矢はどうにか飲み込んだ。瑠水は拓矢のその一応の理解を見取ったように小さく頷き、説明を再開した。
「先程、
そう口にした瑠水の言葉に不安げな影が差したのを、拓矢は察した。同時に生まれた疑問を、拓矢は瑠水に訊ねる。
「でも、そのイリスは君達の想いに同調してくれたんだよね?」
「ええ。私達がイリスから解放され一個の独立した存在となることができたのは、イリスが私達の愛する人を望む想いに共調してくれたからに他なりません。現にイリスは分裂後も、私達の精神の中で安らかに
そこまで言って、瑠水の表情が差し迫った、深刻な色を帯びた。
「ですがこの状況は、イリスと共に永遠の融睡の内に漂うことを望んでいたルクスにとっては、
「統合…?」
告げられた言葉の指す意味がすぐには理解できなかった拓矢の前で、瑠水は俯きがちになりながら説明を続ける。その瞳に暗い色が映り始めたように拓矢には見えた。
「ルクスは元々同一の存在であったイリスと存在を共有していた関係で、今の私達のように離れていても精神を交わすことのできる関係です。その心意の交信を利用して、ルクスは私達イリアの中に眠るイリスを揺り起こし、催促してきているのです。再び自分の元に戻ってくるよう、散らばったその身を一つに縒り合わせよ、と」
そう口にした瑠水は、身の奥から出で来る恐れを抑えるように、自分の身を抱いた。同時にその話で、拓矢には少しだけ彼女達…イリアとイリスの置かれている問題がどういうものなのかを見通した。
例えるならば、好きな
神様達を相手に例えが俗すぎて申し訳ないとも思ったが、話としてはそういうことだろうと拓矢は理解した。身勝手な神様だとも思ったが、まだ判断できるほどの情報を知り切っていない以上、拓矢は口を挟まずに瑠水の話の続きを待った。彼女の問題視している「統合」のことを含めて、まだわからないことの方が多い。瑠水は拓矢のその無言の催促に応じるように、再び口を開いた。
「ルクスのその呼びかけにより、私達の中に眠っていたイリスが存在を呼び起こされようとしています。イリスも元々はルクスと一体の存在であったため、根源的にルクスと引き合う性質を持っています。彼女のその性質が呼び起こされて活発になることにより、私達イリアと内なるイリスの間で存在の乖離…精神分裂が起きてしまうことになります」
精神分裂。
そこまで話を聞いた拓矢はようやく、瑠水が話そうとしていた彼女の問題について理解が至った。
「それが、君の抱えてる問題ってこと?」
「はい。このままこの状況が続けば、私の精神は絶えずルクスやイリスの呼びかけに揺さぶられ、多重化する精神の分裂に苛まれ続けることになるでしょう。そんな状態がいつまでも続いては、私はいつまで自我を保っていられるか自信がありません。あなたと安らかな日々を共に送っていくためにも、私はこの状況に何らかの形で決着をつけなければならないのです」
深刻な口調でそう言った瑠水は、その流れのまま申し訳なさそうな目を拓矢に向けた。
「それに…申し訳ないことですが、これはもう私だけの問題ではないのです」
「え…」
唐突な話にざわりと不穏な予感を覚える拓矢に、瑠水はその予感に違わぬ事実を隠さず話す。
「イリスを宿した私があなたに宿ったことによって、ルクスは私の中に宿ったイリスを介してあなたの精神に干渉することができるようになっているはずです。拓矢、あなたは最近、彼に話しかけられるような夢を見たりしたことはありませんでしたか?」
瑠水の問いかけに、拓矢は言葉を失くす。
問われるまでもなく、心当たりはありすぎるほどにあった。言葉を失った拓矢の俯く目を見て、瑠水はすまなさそうな表情を浮かべながら、必要な説明を続けた。
「先に話したような思惑を持つルクスは、私達…イリアとそれを宿すイクサが行動を起こさず状況が変わらないことを善しとはしないでしょう。場合によっては積極的に行動を起こすよう、精神を介して干渉してくるかもしれません」
瑠水の言葉に、拓矢は背筋が寒くなるのを感じた。見えない相手に常に「行動しろ」と催促をされ続けるなんて、気の休まる暇がない。
だが拓矢は同時に理解した。瑠水が危惧しているのはそういう状況なのだ。なるほど、自分の身になってみると、その深刻さがよくわかる。
拓矢のその了解を喜ぶように、瑠水は微かな安堵を浮かべた表情を再度、正した。
「ルクスの催促とイリスとの分裂から逃れるには、ルクスの望む通り私達イリアを一体に統合するか、それ以外の何らかの方法でこの状況を解決に導く他ありません。そして、私達の他のイリア達も同じように考えているでしょう。仮に別のイリアとイクサがルクスの統合の思惑に乗った場合、他のイリアの存在を統合するために、争奪の戦いを仕掛けてくることも考えられます」
「争奪の、戦い…」
薄々勘付いてはいたけれど、やっぱりそういう展開か、と、拓矢は内心で思った。その統合というのがどういう仕組みで果たされるのかまではまだわからなかったが、瑠水の話しぶりから薄々察しはついた。
統合ということはつまり、存在を一つにするということ。そして、魂の存在である瑠水達イリアは、他者の魂と同化することができる。今、自分に彼女が宿っているように。
これらを瑠水の話と総合して生まれる状況は、たぶん次のようになる。
イリア達が他のイリアの存在を取り込み続け、最後の一人になるまで存在の争奪戦を続ける。そして最後に全てのイリアを飲み込み統合されたイリアがかつてのイリスと同位の存在になり、ルクスの願いに叶う存在となるのだろう。それは身も蓋もない言い方をするなら、魂を分けた姉妹と存在を喰らい合う戦いだ。
先程までの話よりもよほど背筋がぞくりと寒くなるのを拓矢は感じた。目の前にいる清廉そのもののような乙女がそんな過酷な戦いに身を投じなければならないと考えると、天使が荊の十字架に磔にされているような、胸の痛くなるイメージが去来するのを感じる。それが耐えられなくて、拓矢は解決の糸口を探すように瑠水に訊いていた。
「それの…統合の他に、君のその状況を何とかする方法はないの?」
「私も、それを考えています。ですが、ルクスや他の彩姫達、さらには私の内にいるイリスがどんな動きをするかわからない以上、易々と実現できるかはわかりません。私もまたこの状況を解決する方法を探すつもりですが、その前にまずは訪れる脅威に対抗しなければなりません。そのためにはまず何より、運命を同じくするあなたとの関係を確立する必要があると私は考えています」
瑠水はそう言って、拓矢の瞳を真っすぐに見つめながら「拓矢」と呼びかけた。
「私があなたの元にこうして魂の宿を定めた以上、あなたにも危険が降りかかってくるかもしれません。そして、戦いの避けられない状況とはいえ、私は、私の選んだあなたを、私のせいで危険に晒すわけにはいきません。私は、私の意志の元に、あなたを守りたい。あなたの傍にいる許しを得て、あなたと共に生きて行けるために」
一心を賭すように言い切った瑠水の言葉に、拓矢は少しの間、言葉に迷った。
どのみち、ここに目の前に瑠水がいて、こうして話をしているという時点で、自分がもう巻き込まれているということも事実なのだろう。全く予想もしていなかったとんでもない状況に、自分も知らない内にすっかり投げ込まれていたという形になる。
自分の置かれている平穏な立場を一変させかねないそれは、お世辞にも全然困らないという状況とはいえない。だが拓矢はそうと知ってなお、それに不思議と迷惑や忌避感を感じなかった。その理由も、拓矢は自覚することができていた。
俯いていた目を上げて、目の前でこちらを一心に見つめている瑠水の瞳を見つめ返す。潤んだ光を湛えた深い瑠璃色の双眸は、さざめく月夜の静寂のように静かで美しい。
まったく、この状況でそんな理由で納得するなんて、心配されても仕方ないと拓矢は内心自嘲する。けれど事実なのだから仕方ないとも思いながら、拓矢は答えを待っていた瑠水に向けて、口を開いた。
「瑠水」
「はい」
「もし、僕がこの話を受けなかったら…君は、どうなるの?」
拓矢の問いに、瑠水は憂慮と不安と申し訳なさが濃く混じり合ったような表情を見せた。
「お察しかとは思いますが、今お話ししたことは、端的に言ってあなたを巻き込む
瑠水はまるで自分に事実を言い聞かせるかのように、淡々と語った。
「ですが、あなたがこの契約を受けてくれなければ、私はこの身の居所を失います。私は行き場を失くして、所在のない魂として、当て所なく思念の幽海を
そう語る瑠水の眼には、水底のような深い闇が映っていたように拓矢には見えた。それを見た拓矢は、訊かずにはいられなかった。
「でも、それって君にとっては困るよね?」
「ええ。ですが、私は私の都合のために、あなたの望まないことを強要したくはありません。それは、あなたを愛する私の従うべき『善』に反することになりますから」
そう言って、瑠水は月光を浴びて光る青白い銀色の髪を軽く梳くと、「拓矢」と呼びかけ、その瞳をまっすぐに見つめた。
「私の求めは、あなたと共にこの世界での生を営むために、この身を
事情を語り合えた瑠水は、改めて懇願するよに、拓矢に言葉をかける。
「突然のことで、戸惑われているとは思います。けれど、あなたがいなければ、私はあなたと生きることも、存在することもできません。あなたに受け入れてもらえなければ…」
そして、瑠水は再び真摯な眼差しで、その心に訴えかけるように拓矢の瞳を見つめた。
「最終的な選択と決定は、あなたの意志にお任せします。その上でお願いします、拓矢。どうか…私を、あなたの魂の傍にいさせてはくれませんか」
そう言って、瑠水は逢引に誘うように、その白く細い腕を拓矢に向けて差し伸べる。
魂を込められたその視線を見つめ返しながら、拓矢は今朝見た夢を思い出していた。
彼女も、この状況も、得体が知れないと言われればそれまでかもしれなかった。だが、今目の前にあるその幻を信じたいと思う気持ちが自分の中に生まれていたのを、拓矢は感じていた。
叶うはずがないと思いながらも、ずっと抱き続けていた夢がもしも現実になれば、と心の奥で願い続けていた自分は、確かにいた。そして今、その夢の一つが、確かに目に見えて触れられる形を持って、目の前にいる。
その手を取れば、おそらく自分は彼女と何かしらの形で結ばれるのだろう。神を、夢を、そして何より彼女を信じるなら、彼女の手を取るべきだ、と拓矢は思った。
しかし、拓矢は同時にためらいを覚えていた。その手を取ってしまえばもう戻れない、深い森の入り口にいるような感覚に囚われていた。ここに迷い込んでしまえば、元の道を見失ってしまいそうな、そんな感覚に。
迷いを孕む恐れを覚えながら、拓矢は一心に自分を見つめる瑠水の眼を見た。縋るような思いを訴えてくるその瑠璃色の瞳にはしかし、どんな運命でも受け入れようとする覚悟が宿っているように拓矢には思えた。
共に在るためにならば、どんな運命でも。
その眼差しに映る覚悟の色の意味を知った時、拓矢の心は決まっていた。
彼女がその運命にどれだけの想いを抱いているのか、その時の拓矢には知りようがなかった。それ以前に、彼女自身のことについてもまだまだ知らないことの方が多かった。そんな状況で軽はずみに他人の願いに不退転の協力を約束するなどというのは、早計と言われても仕方ない。
けれど、最低限の事情を聞かされ、選択の時を迎えた今、拓矢は改めてそんな全ての余計な雑念が自分の思考から消え去っていくのを感じていた。心の中が、目の前にいる彼女への、まだ形も見えない、しかし強く溢れてくる熱い想いに満たされていくのを感じていた。それは、深く暗い海の底で彼女に出逢ったあの夢の終わりに感じていた想いと重なっていた。
拓矢は、目の前で答えを待ち続けていた瑠水の眼を見返すと、胸に渦巻く恐れを呑み込み、言った。
「瑠水」
「はい」
「その…そんなに怖がらないで。僕は、君を見捨てたり、しないから」
その言葉に、瑠水の瞳が見開かれたのを目にしながら、拓矢は自分を定めるべく、慎重に言葉を続けた。
「正直、まだ君のことも、君の抱えてる問題のことも、よくわからない。だから、無責任なことは言えないけど…何だか、君のことは放っておけないっていうか…放っておきたくないって思ってる。僕は…君を、ひとりにしたくない。そのために僕に何かできることがあるのなら、力にならせてほしい」
「拓矢…」
告げられた思いに、瑠水が氷が融けるような声を零した。理屈を並べたりしてみたが、拓矢の心の内にあった想いは単純だった。
惹かれていたのだ。理屈などではどうしようもないほどに。夢の中でも、今この時も、彼女の傍にいると、心を染める重く暗い闇が
もしも、目の前にいるこの幻想が、ずっと求め続けていた救いの一片だというのなら…信じてみたい。
まだ何も知らないけれど…それでも、彼女と一緒にいたい。力になりたい。
そのために、後戻りできないような苦難が待ち受けているとしても…それでも。
心の底から湧き上がる、澄んだ泉のような熱い想い。ただそれだけが拓矢を動かした。
「瑠水」
「はい」
返事を返す瑠水に、拓矢は彼女の瑠璃玉のような瞳を見つめながら、改めて言った。
「まだ、正直、何もわからない。君のことも、君の言う使命ってやつのことも。だから、今のままじゃきっと力にはなれないと思う。だから、いろいろ教えてもらうことになると思うけど…それでも、いいのなら。僕が、少しでも、君の力になれるのなら」
僕が、君に必要だというのなら。僕も、君の力になりたい。
その時の、拓矢の心の中には、青く輝く宝石のような想いが生まれ、淡く眩い光を放っていた。
拓矢はゆっくりと、共にいることを誓う最初の約束のように、差し出された瑠水の手を取った。瑠水はそれに涙を浮かべ、永い時を経た氷が溶けるような表情を見せた。
「拓矢…!」
感極まる声と共に、瑠水の体が彼女の感情に呼応するように青く眩い光を放ち始める。
瑠璃色の輝く瞳が決意を宿したのを見た時には、拓矢は迫った瑠水に唇を奪われていた。触れ合う濡れた唇は青い蜜のように甘く、それは自分の中に融け込もうとする彼女の魂の味のようだった。その魂の色が、喜びに浸ることを拒もうとするような深い青に満ちていたのを感じた時、拓矢は彼女と自分の魂が混ざり合い、意識が混沌の中に堕ちていくのを感じた。
✢
青い混沌の中を漂い続けていた意識は、そこに差した一筋の光に導かれるように醒めた。
微睡みの中から意識を取り戻した時、僕は美しい月明かりの下、一面に広がる浅瀬の水辺に立っていた。
闇を帯びた深い澄んだ紺青色の空に、鏡のように曇りのない白い月が煌々と光を放っている。明るく、冷たく、優しい月の光を、大地一面を覆う闇色の水が鏡のように反射し、空の深い夜味の青がそれらを包み込んで、幻想的な暗色のコントラストを成していた。冷涼な空気は動かない夜風のように肌に心地よく、かすかに水の揺れるさざめく波のような音以外には何の音もない。
心は、この静謐な月夜の浅瀬のように静かだった。猥雑な世界の一切のわだかまりから隔離されたような静けさがその世界にはあった。まるで、この世界に自分の他には誰も、何もないような、空虚に満ち足りた安息を感じた。それはやはり、あの夢の感覚にも似ていたかもしれない。
空に浮かぶ月から下げた視線の先、月明かりの下、静かに佇む姿がある。遠くも近くもない彼我の距離から、淡い光を纏う彼女を、夢の示現のように見つめる。
やがて、瑠水は振り向き、僕の方を見た。その表情はどこか喜びの中に悲しさを漂わせる、儚げな微笑みだった。
深々と降り注ぐ月明かりの下、水がさざめく音以外何もない時の中、僕らは向かい合い、視線を交わした。
僕らの心が、このひとつ月夜の空の下に包み込まれているようだった。二人の魂が空気に融け、世界を満たしているような、不思議な安心感があった。
「望むは汝、願うは永遠。
永遠に寄り添うくちづけを
《al linne,kres lient.la fors contlive lixs》」
瑠水が口を開き、歌うように言葉を紡ぐ。
僕は陶然とした意識のまま、煌々と降り注ぐ月明かりを、水のさざめく心地よい響きを、静かな夜の中に透き通るように響く瑠水の歌声を、心に沁み渡らせていた。
胸の奥に生まれていた、小さくも熱を持つ魂の脈動を、確かに感じていた。
この日、この瞬間。
瑠水と出逢い、その手を取ったこの時から、僕の戦いは始まってしまったのだろう。
まだ何もわからなかったけれど、きっと後悔はしないと思っていた。
彼女に出逢い、その手を取ったあの時から、ずっとそう思っていた。
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