Cp.1-1 Beginning Blue(4)

(何だろう…僕はまだ夢の中にいるのか?)

 拓矢が本気でそう疑ってしまうほどに、月夜の闇の中に光るその乙女は美しく、幻想的だった。

「夢じゃ、ないですよ」

 夢幻の住人と見紛うばかりのその乙女、瑠水は静かな声でそう言って拓矢に歩み寄り、その目の前にひざまずいて、そっと拓矢の手を取った。光のヴェールのような透き通るプリンセスドレスのスカートが彼女の静かな歩みに揺れ、きらきらと瞬く光の粒を夜闇の中の暗い部屋に振りまく。

「ほら、握ってみてください」

 白磁のように白く冷たい綺麗な手を重ね、瑠水はそう促してきた。

 拓矢は思わず、その手を握ることをためらった。その手は、確かに触れているはずなのに幻に触れているかのようにおぼろな感覚で、強く握れば壊れてしまうか、あるいは夢か霞のように消えてしまいそうなほどに、細く儚い存在感だった。

 迷った拓矢がふと瑠水の方を見ると、こちらを待つように見つめていた彼女の瑠璃玉のような青い瞳と目が合った。

『大丈夫』

 その時、まるで彼女の視線から伝わってきたように、日中に聞いていたのと同じ、意識の中に響く声が聞こえた。それはまぎれもなく、目の前の彼女の声だとわかった。

 瑠水は、拓矢の恐れを宿した目をその透き通った瑠璃色の瞳で見つめながら、その恐れを拭うように優しく微笑んだ。拓矢はその微笑みに心が急き立てられるのを感じた。

 これで掻き消えてしまう幻ならそれまでだ。もしも触れられるなら、消えないなら…信じてみたい。

 拓矢は恐る恐る、繋がれた手に力を込めた。


 ぎゅ…っ。


 その手は、雪原のように汚れのない白さを湛え、白絹のようにしっとりと柔らかく。

 何より、ちゃんと握れた。消えなかった。

「ね?」

 瑠水は拓矢を安心させるようにそう言って、その確信を支えるように、拓矢の手をそっと握り返した。

「夢じゃ…ないんだ」

 そのすべてを自らの体験した現実として認識した拓矢の口から思わず零れた言葉を聞いた瑠水は、それを喜ぶように、くす、と小さく笑った。

 目の前にいる淡く光る乙女の姿を、拓矢は改めて見る。それは、この世のものとは思えないほど幻想的な出で立ちで、しかし確かに見て触れられる存在として目の前にいた。

 青い光の紋様に彩られた流麗な肢体は夜空の月光と星屑の光を織ったような煌めき透き通るロングスカートのドレスに包まれ、白磁のような滑らかな肌が胸元に覗いている。背中まで流れる淡い月光色ムーンライトの長い髪に、澄み切った深みを湛えて凛と光る瑠璃色の瞳。まるでオルゴールの中に踊る宝石でできた女神像のようだ、と、拓矢は拙い想像力と語彙ごいの中から彼女の印象を記す言葉を手繰った。

 そうして夢幻のような彼女の美貌に見惚れることしばらく後、拓矢はふいにハッと気を取り戻した。彼女が夢ではないことは一応わかったはずだが、では彼女はいったい何者なのか。何故こんな夜中の時間にここに、言い方は悪いが、人の家に堂々と上がり込んでいるのか。そもそも戸締りをしてあったはずのこの家や自分の部屋にどうやって入ることができたのか。その辺りはまだ謎のままだった。

 瑠水は拓矢のその考えを読み取ったように、表情を正して、話を始めた。

「拓矢、どうか疑わずに聞いてください。私は、あなたの生きているこの世界とは異なる世界、幻想界アニマリアの二神の魂を分けた神の娘『彩姫イリア』です。私は幻想界から、あなたに逢うためにこの世界、現在界マテリアラに来ました」

 唐突には理解しがたい言葉が並べられた。ここではない世界。幻想界。神の娘。

 普通の人ならこの辺りで引き返してしまうのかもしれない。だがその時の拓矢には、それらがただの馬鹿げた空想上の話だとは思えなかった。今朝のあの夢、夕方の《ルクス》との会話、そして今目の前にいる瑠水の存在…それらはいずれも、日常の範疇はんちゅうを超えたこの状況を認識し、把握し、理解するきっかけにはなるものだったから。

 拓矢のその認識の芽を読み取ったのか、瑠水は真摯な目を拓矢に向け、言葉を続ける。

「私には、この世界であなたと共に生きるために、果たさなければならない《使命》があります。その使命を遂げるためには、あなたの…憑代よりしろの力が必要なのです」

 常軌を逸脱する言葉の数々に、十全な理解はすでに追いついていない。にもかかわらず瑠水の言葉は不思議なほどに拓矢の意識の中にするりと入り、受け入れられた。

 拓矢、と、瑠水は呼びかけた。

「あなたは、私の選んだ人。どうか、あなたの魂の傍に、私を居させてください」

 瑠水は拓矢の目をその深く澄んだ瑠璃色の瞳で見つめながら、誘うようにそっとその白い手を差し出してきた。月明かりに照らされながら夜闇の中に鱗粉のような光を振り撒くその姿は惑いそうなほどに幻想的で、心の奥に注ぎ込まれるような瞳の青い光に、拓矢は魅了されるように心を惹かれるのを感じた。

 胸の内に湧き上がる聖なる泉のような想いに心を満たされ、拓矢は差し出されたその手を取りかけた。その時、

「タク、どうしたの?」

 割り込んできた声に水を差されて声のした方に顔を向けると、乙姫が部屋の入口から訝しげな顔で拓矢の方を見ていた。寝る前に拓矢の様子を見に来た所らしい。

「あ…ね、姉さん…」

 拓矢は途端にばつの悪い気分になった。それは、姉に女の子と一緒にいるのを見られたという気まずさでもあり、幻想的な雰囲気を散らされたことへの不服でもあった。

(弱ったな…この状況、どう説明すれば)

 拓矢は何よりそのことに気を揉んだ。乙姫に限らず、誰がどう見てもこの状況には問題がありすぎる。謎の女性、不法侵入、若者が夜中に部屋で二人きり、などなど。拓矢はそれを釈明する策も見つけられないまま、気まずい気分で乙姫の言葉を待っていた。

「起きてたのね。どうしたの、一人でぼーっとして。また変な夢でも見てた?」

「え…?」

 しかし、乙姫の口にした言葉に、拓矢はまず耳を疑った。

(一人、って…どういうことだ? 彼女が…瑠水がここにいるじゃないか)

 拓矢はそう言おうとしたが、乙姫の訝しげな目を見てそれをためらった。まるで彼女には、ここにいる瑠水が見えていないかのような様子だった。

「姉さん…どういうこと?」

「どういうことって…何が?」

 拓矢の問い返しに、乙姫はかえって奇妙なことを訊かれたように訝しげな顔をした。

 どういうことだ。拓矢はいよいよ事態がわからなくなった。まさか、やはり彼女は…瑠水は自分の見ている幻想なのか。

 すると、拓矢のその疑念を確かめるように、瑠水がそっと重ねた手を握って、綺麗な爪を拓矢の手に少し食い込ませてきた。冷たくも確かな肌と爪の感触と痛みを感じる。そのことから拓矢はやはりここに瑠水は存在することは確かだと認識した。しかしではこの状況は何なのか。

「タク…あなた、」

 やがて不明な状況に痺れを切らした乙姫は、拓矢の方にずかずかと近付いてきた。その時、何を思ったか、瑠水が拓矢の傍を離れ、拓矢と乙姫の間に割って入った。

「ちょっ…!」

 思わず声を上げかけた拓矢は、その直後、ありえないはずのものを見た。

 一瞬の間に、乙姫が目の前に立っていた。そのまえに立ち塞がったはずの瑠水の身体を、すり抜けて。

「え…」

 思わず放心する拓矢を前に、乙姫は心配そうな目を拓矢に向け、拓矢の額に手を当てた。

「どうしたの? 熱は、ないみたいだけど…大丈夫? 疲れてるの?」

 それは、乙姫なりの気遣いだった。普通に考えて自然な判断だと拓矢も思う中、

「…うん、ごめん。今日は少し、疲れたのかもしれない。そろそろ休むよ、姉さん」

 拓矢は諸々の状況を考えて、まずは一旦乙姫を避けることを選択した。乙姫は拓矢の前で屈み込み、心配そうな目を注いでくる。

「そう…ほんとに大丈夫?」

「うん。少し休めばよくなるよ。大丈夫だから、姉さんもそんなに心配しないで」

 やわらかな言葉で気遣いを遠慮する拓矢に、乙姫はふっと表情を緩めた。

「わかったわ。ゆっくり休みなさい。もし具合が悪いようなら呼びなさいね」

「うん、ありがとう。…ごめん、姉さん。変な心配かけて」

「いいよ、気にしないの。おやすみ、タク」

 乙姫はそう言い残して部屋を出た。その間、傍らにいた瑠水には目も向けなかった。

 乙姫が去った後、拓矢はぐるぐるする頭の中を何とか落ち着けるのにいくらか時間を要し、そしてその後に改めて傍にいた瑠水に目を向けた。彼女もまた、乙姫に自分が認識されなかったことや、身体をすり抜けられたことも当然のことだったとばかりに、平然としていた。

 拓矢はそこで一旦頭を冷やし、そして改めて彼女の話を詳しく聞く必要を感じた。どうやらいよいよもって、彼女はただの人間ではないらしかった。ならば、知らなければいけないことが多くある。彼女の言う《使命》とやらの実情を知るためにも、そして、彼女と共にいるべきかを正しく判断するためにも。

「詳しく、説明してもらえる?」

 拓矢の要請に、瑠水は少しすまなさそうにはにかみながら、頷いた。

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