Cp.1-1 Beginning Blue(3)

 午後4時、放課後。

 夕暮れに向かう空は、マーマレードを塗ったような鮮やかな橙色を広げていた。拓矢は学校を出て、彌原大橋へと続く家路についていた。奈美、幸紀、由果那も一緒だった。

「あーあ…小テストやるなんて聞いてなかったわよ…あーもーどーしよー奈美ー!」

「ひゃわぁっ!? あ、や、ゆ、由果那ちゃん、や、やあっ…も、揉まないでえっ」

 燃えるようなオレンジ色の夕陽に照らされて、下校途中の学生達で賑わう道を歩く中、由果那が奈美にじゃれつくように絡み、その成長途上のたわわな胸をどさくさまぎれに揉みしだく。振り切れずされるがままの奈美。

「こら、ユカ。いたずらに奈美に絡むんじゃない。奈美の世間体ってもんを考えろ」

「だって可愛いんだもーん。まったく、あのちっちゃかったあたしの奈美が今ではこんなに立派になっちゃって…けしからんのぉーもぉー♡」

「ひゃあぁ、や、やめてぇ…」

 揺れる胸を縦横無尽に弄られあたふたする奈美に幸紀が苦笑しながら助け舟を出し、由果那は奈美のそのやわらかさを十分に堪能した後、ようやく体を放した。

「むぅ…あんたら優等生二人はそんじょそこらのテスト程度じゃ動じないからいいけどさ。あたし達中の中以下組にとってはちょっとした大事おおごとなわけよ。わかる? ねぇ拓矢!」

 そんな様子を耳にしながら、茫漠と空を見る拓矢はまだ今朝の夢のことに頭を取られていた。

 光の漂う暗い海の中、透き通るように響く歌…何より、最後に出てきたあの天女の声が頭から、胸の奥から離れない。

《大丈夫。私が、傍にいますから》

 心の奥を揺さぶったあの言葉が、どうしても忘れられなかった。

 あれは、あの言葉は…まるで、ずっと求めていたような…

「たーくやー、もしもーし?」

「え…あ、何?」

「あのさ…あたしの話、聞いてた?」

「え…あ、ごめん。聞いてなかった」

 由果那はわざとらしく盛大な溜め息を吐いてみせた。その様子を見た幸紀がやれやれといった顔で苦笑した。

「完全に別のことに気を取られてたな…」

「拓くん…何か気になることでもあるの? 朝も少し、様子が変だったみたいだけど」

 幸紀に続くように、由果那から解放された奈美が微かに心配を滲ませた声で訊いてくる。

「あ、うん…」

 拓矢は頷いた。幸紀の指摘した通りだった。

 あの夢は、奈美の言っていたように、自分の中の感情か何かの表れなのだろうか。

 しかし、何となくだがそうは思えなかった。あれは、寝ている間に誰かに、それこそ本当に夢の中にいた自分に語りかけられたような、そんな感覚が一番近かった。だとしたら、帰ってから乙姫姉さんに訊いてみるのが早いかもしれない。

(姉さんが僕の寝耳に何かを囁いたとも思えないけど…)

 そんなことを考えながら拓矢は、奈美に応えようと口を開きかけて、

 視線の先、前方に立つ、謎の白い人型の影を、確かに認識した。

「ぐ、ッ…!?」

 白い影を認識したその瞬間、映像でも音声でもない、まるでそれらのものから中身イメージだけを抜き出したような何かが、洪水のように頭の中に流れ込んできた。頭蓋に大量の水を一気に流し込まれたように、全身が震え、頭が割れるような感覚に襲われる。

「う、ぐうぅゥ…ッ!?」

「拓くん?」「どうした、拓矢?」

 奈美達に異変を感付かれる内にも、ノイズのような思念の怒涛に意識をかき乱される中、脳裏に断片的な映像が次々と明滅する。

 青空。草原。都会。花畑。摩天楼。夕焼け。砂漠。雪原。

 岬。星空。渚。宇宙。芒野。戦場。焼野原。

 人間の一生。世界の歴史。人の心の表裏。

 人間一人分の知り得る世界のあらゆる記憶が、早回しのフィルムのように頭になだれ込んでくる。その情報の怒涛の中、一瞬の空隙に、真っ白な光の中、こちらに向かって手を差し伸べる「誰か」の姿が見えた。

 その「誰か」が、語りかける声を紡いだ。


 時は満ちた。目覚めよ、青のイクサ。


 朝に聞いたのと同じ、意識に直接響くその思念こえを、拓矢は確かに聞いた。

「!」

 瞬間、拓矢の意識は雷撃に打たれたように覚醒した。

 拓矢の経験したそれは、瞬きの間ほどの一瞬のことだったらしい。周りがその異質に気付いていない中、白い影は悠然と振り返り、人波の向こうに消え入るように立ち去ろうとする。

 拓矢はその白い影を見て、確信を得た。

 あの夢は、やはりただの夢ではない。

 夢の中で寄り添った乙女の、滑らかな肌に触れた時の切なさが、体が記憶した実感と共に胸を抉るように蘇った。

 心の奥に疼いた、正体のわからない思いが、拓矢を衝き動かした。

「っ…待て!」

「拓くん!?」

「おい、拓矢!?」

「ちょっと、どうしたの!? 拓矢ー!」

 奈美達が驚くのを振り切って、拓矢は白い影を追いかけて走り出していた。自分が、得体の知れない大きな何かに揺り動かされているような動揺を感じながら。


 白い影がただの人間ではないことを冷静に知ったのは、影を追いかけてしばらく経った後だった。

 これでもかなりのスピードで走っているつもりだが、白い影には一向に追いつく気配がない。つまり白い影もそれと同じかそれ以上の速さで移動しているということになる。

 だが、白い影は明らかに走っている体勢ではなかった。それどころか、足を動かしている様子すらなく、まるで氷の上を滑るように移動している。

 何より、すれ違う人は皆、人のごった返す道を走る拓矢を奇異の目で見る。どうやら誰にも、あの白い影が見えていないらしい。

 つまりあれは、明らかに人間ではない。だが拓矢の頭は渦巻く意識に揺れ、足は白い影の速度に追いつくのに精一杯で、落ち着いてそれを考えている余裕はなかった。

 やがて、白い影は堤防から続く河岸公園の広場に入り、移動を止めた。御波川の河原の一帯を利用した水辺の公園で、拓矢達も幼い頃からよく通った旧市の人々の憩いの場だ。

 白い影に追いついた拓矢は、わずかに時間をかけて乱れた息を整えると、改めて目の前に待つように立つ白い影を見、逡巡した。

(追ってきたはいいけど…何を訊けばいいんだろう?)

 仕方がないので、不恰好だが思ったことをそのまま言うことにした。拓矢は恐る恐る、得体の知れない影に問いかけた。

「あなたは…何かを知っているんですか?」

 拓矢の問いに、白い影は言葉を発さず、身じろぎもせずに拓矢に相対していた。見えない目が自分をじっと観察しているように感じられて、拓矢もどう動けばよいのかを図りかねていた。

 ふ、と、白い影が笑うように揺らめいたのが見えた。

(?)

 不審に思った時、不意に白い影は右手を前にかざし、拓矢へ光を宿した掌を向けた。

 瞬間、背筋にぞくりと怖気が走った。その意味を理解する間も無く、その掌から眩しい閃光が迸った。

(!)

 突如のことに為す術もなく、拓矢の視界は白い光に包まれた。


 ややあって恐る恐る目を開けた時、見える世界は一変していた。

(これは…!?)

 眼に映るのは、白、白、白。

 先程まで自分がいた公園の景色もそこにあったものも、それどころか、自分の立っているはずの地面も橙色に染まっていたはずの空もその境界線さえも、果ては空間に伴う時間の流れさえも、全てがまるで暗黒の闇夜の中に溶けたように「白」の中に消えていた。

 暗くはないのに、何も見えない。そこに存在すると認められるのは、自分自身と、目の前にいたはずの影の気配だけだった。その姿さえ、虚空と化した白の中に溶けて見ることはできなかった。

(何だ、これ…僕は夢でも見てるのか?)

『夢、か…そうだな。これもまた夢のようなものなのかもしれない』

 異常な状況を認識しようとする拓矢の自問に答える声が、空気を揺らすように響いた。

 把握できない状況に戸惑いながらも、拓矢はその声の主に向かって話しかけてみた。

「あなたは…誰ですか? ここは…何なんですか? 僕に…何が起きてるんですか?」

 拓矢の問いかけに、声の主は空気を震わせる荘厳ながら軽妙な響きの声で答える。正体不明のその声は、朝に聞こえた「声」と同じように、鼓膜ではなく意識に響くものだった。

『ここは、私と君の意識の中間点だ。君にしてみれば、夢の中のようなものとも言える。私は君に話したいことがあって、こうして君の精神に語りかけている』

「僕の、精神に…?」

 理解の範疇はんちゅうを超える言葉に拓矢が考えあぐねる中、声は端然と続いた。

『君は己の真奥の魂の声を自覚し、それに語りかける彼女の声を認識した。つまり、君には資格がある』

「資格…?」

『そうだ。私と彼女の願いを賭けるに相応しい、《命士イクサ》としての資格が』

 白い虚空に溶け込んだ影は律然と宣下するように告げ、眼前にいる拓矢に向けて腕を上げ、指を向けた。

『私から、君に託すものがある』

「託す、もの…?」

 その言葉の意味を拓矢が図りかねていた途端、影の指先から矢のように青く細い光線が走り、身構える間もなかった拓矢の胸の中心を貫いた。

(ッ!?)

 脊髄を針で刺されたような痺れに全身が震えるのを感じた拓矢は、同時、胸の奥、体の軸に何かが植え付けられたような感覚を、そして、その感覚はあの夢の中で水面から降ってきた光に胸を貫かれたのと同じものであることを、直感的に感じた。

「っ…何を」

『君の魂に印を付けさせてもらった。これで彼女の認識も滞りなく進むだろう』

 訳のわからない事態に当惑するばかりの拓矢に、虚空に紛れる影は淡々と告げる。

『君は既に我が愛する《イリス》の分身を…青の彩姫イリアを認識している。あとは君が彼女を自覚し、意識し、望みさえすれば、彼女は君の求めとなるだろう。その時、君もまた彼女と存在を繋ぐ命士イクサとしての自覚を得る』

「イリス…?イリア…?イクサ…?」

 理解の追いつかない拓矢に、声は全てを見通しているかのように淡々と告げ続ける。

『そしてその時より、全ては動き出す。泡沫うたかたの夢を漂う悲しき者達の、永遠の愛を探し求める束の間の戦いが』

「何だ…いったい何を、言ってるんだ…!」

 一方的に告げられる言葉の意味が拓矢にはわからない。ただ、告げられるそれらが自分の依って立つ安寧を浸食してくるような嫌な予感が全身を走るのを感じていた。

『詳しくは彼女に出逢ってから聞くと善い。全てを知った後、いずれまた逢おう。再びまみえる時、君がどのような運命の選択の果てに私の前に立つのか、楽しみにしている』

 まるで未来を見通しているかのようなその言葉を最後に、影の気配が薄れていく。それを感じた拓矢は、咄嗟とっさに影に向かって呼びかけていた。

「待って!」

 あなたは、いったい…何なんだ。

 言葉にならなかった拓矢の最後の問いに、影は微かな喜気を乗せた声で答えた。

『私の名を知る者は、君の世界にはいない。私の名を呼べるのは、私を知り、また私が知りたいと望む者だけだ』

 そして、その名を告げる。


『私の名は《ルクス》。君の願いを映す、誰でもない、君の求める幻想だ――――…………


 ……拓くん! 拓くん!」


 奈美の呼ぶ声が聞こえて、遠くに行っていた意識が戻ってくる。我に返って声の方を振り返ると、奈美達が息を切らしていた。どうやら追いかけてきたらしい。周囲を見ると、白に呑まれていた景色はいつの間にか元の夕暮れ時の色彩を取り戻していた。

「あんたねぇ…いきなり走り出してどうしたのよ。おかしいでしょ!」

「あ…」

 由果那が存外に厳しい口調と視線で拓矢を問い詰める。その理由に拓矢はすぐに思い至り、己の行動の浅はかさを遅れて知った。

 厳しい目を向けてくる由果那の後ろで、奈美が狼狽ろうばいしそうな不安に怯えた表情をしていた。幸紀と由果那も表情こそ違えど、あの日のような危機感に襲われていたのは推して知るべしだった。

 自分の奇行は、この三人を…大切な人達を恐れさせる。拓矢はそれを悟って、胸に重いものが落ちるのを感じた。

「うん…ごめん、心配かけて」

 拓矢は素直に自分の非を認め、謝った。それで三人もそれぞれなりにひとまず緊張を緩めた。

「ったくもー…変な心配させんじゃないっての。あんたが変な事すると気が気じゃないのよ、こっちは」

「まあそう言うなよ由果那。拓矢だって若いんだ。たまには走り出したくなる時だってあるさ」

「そういう問題じゃないでしょ。ったく…」

 口を尖らせる由果那と、おどける調子でそれをなだめる幸紀。二人とも見せる態度は違えど、その様子には安堵の色が現れていた。

 そして。

「拓くん…どうしたの? 何かあったの?」

 あの日を思い出させるような、ひどく怯えた表情を見せる奈美を前に、拓矢はいたたまれない気持ちになった。

「ごめんね、奈美…心配しないで、大丈夫だから。…何でもないんだ、本当に」

 拓矢は何とか言葉を重ね、胸に縋る奈美を慰めた。そうして事が収まってからふと振り返ってみると、そこにいたはずの白い影はまるで空気に溶けたかのように跡形もなく消え去っていた。



 その夜。

 就寝の支度を終えた拓矢はベッドに横になりながら、今日一日のことを思い返していた。部屋のカーテンは開け放ってあり、明るい月の光が差し込んで、電気を消した暗い部屋を青い夜色に染めていた。

 結局、今日一日中、あの夢を頭から振り払うことはできなかった。謎の白い影との邂逅かいこうも含め、今日は一日白昼夢の中にいたような感覚だった。

 意識を空に泳がせると、夢の中、この身を包んだいくつもの感触と感傷が蘇ってくる。

 心を潰すように押し包む、重い水圧の感覚。瞳の奥に今も残る、暗い水の中に揺らめく光の破片の煌き。覚めた後ですら愛おしく身に残る、冷たい心に触れる温かく柔らかな肌の感触。胸を滲ませてやまない、罅割れた魂を震わせた冷たくも麗しく響く透き通った声。

 それらの印象はこの一日、振り払うどころかますます鮮明に頭を占めるようになっていた。まるで自分の心が、あるかもわからない魂が、あの夢を、そこにいたあの光の乙女を求めているかのような思いすら感じていた。

 あれは夢だと、叶わないと知っているのに、どうしようもなく惹かれてしまう。けれど、どんなに美しい夢も、夢である限り、それは現実にはならない。

 叶わないものをいつまでも引きずっているわけにはいかない。現実で構成されるこの世界は、ただ在るだけで美しい夢のようにはできていない。

(どうせ、夢だ…現実じゃない)

 心中でそう呟き、拓矢は無理にでも自分を納得させようとした。そう思わなければ、いつまでもあの夢に引きずられてしまいそうな気がした。

(忘れよう…ただの、夢だ)

 そう無理に言い聞かせる自分が、まるで自分の本心の願いを自ら否定するような悲しい思いをしているのを、拓矢は感じていた。

 諦めと共に眠りに落ちようとして、拓矢は目を閉じた。


 救いが、欲しかったのか。


 夢の中で感じていた、自らに問いかけるような願いが、心の奥で閃いた。

 それを感じた時、拓矢は、心の奥から眩い光が溢れ出して全身を満たしていくような、奇妙な感覚を覚えた。

 ふと、視界の端、ベッドに横たわる自分の背、暗い部屋の中に何かが光った気がした。

(…?)

 何だろうと思って、拓矢はベッドから身を起こし、気配のした方を振り向いた。


 そこに…《彼女》は、いた。


 言葉を、失った。

 それは夢幻の存在のように儚く、しかし瞳に永遠に焼き付くように鮮烈な姿だった。

 月明かりだけが差し込む暗い部屋の中に、彼女は美しい光源のように静かに佇んでいた。夜闇の中に煌々と光るその姿は、真夜中に青白い仄かな光を纏う水晶の女神像のように、月明かりを浴びてその瀟洒しょうしゃな全身を静々と煌めかせていた。この世のものとは思えない幻想的なその姿に、拓矢は思考を忘れて見入っていた。

 青白い光を纏う乙女は、閉じていた瞳をゆっくりと開け、拓矢の方を見た。慎ましいながら艶やかな黒い睫毛に飾られた、深遠を宿す凛とした瑠璃色の双眸そうぼうが、拓矢の見開かれた黒い瞳に、心の奥まで見透かすかのようにその青い視線を注いでいる。

 月明かりに照らされて静かに光る、月光の青色に煌めく長い髪の乙女。

 その瞳に映る光を見た時、拓矢は深い記憶を思い出したように胸が滲むのを感じた。

 まるで、ずっと逢えないまま逢いたかった人に、やっと巡り逢えたような…

「君、は…」

 呆然と口から零れた拓矢の言葉に答えるように、薄い桃色の細い唇が笑みを湛えて柔らかく開き、天上の調べのような静謐にして優美な響きの声を紡ぐ。


「《碧青彩姫ラピス=イリア瑠水ルミナと申します。やっと…逢えましたね、拓矢」


 夜に流れる清流のように綺麗な声で、彼女…瑠水は嬉しそうに、しかしどこか悲しげに微笑みながら、そう口にした。

 彼女の放つ淡い光と月の明かり、そして静寂にさざめく鈴虫の羽音のような光の放つ微かな音が、その時、拓矢のいた夜の全てを満たしていた。

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