Cp.1-1 Beginning Blue(2)
拓矢達の住む
ホームルーム開始までおよそ10分。だいたいいつも通りの登校時刻である。日頃の習慣の成果だ。
エントランスから急ぎ足で階段を上り、始業前のざわつく廊下を抜けて教室へ向かう。
2-B教室の扉を開けると、人の入りは
奈美と一度別れて、後列窓際の自分の席に鞄を置き、何の気なしに教室をぐるりと見回す。始業前の教室に残っている生徒は皆、それぞれにグループのようにまとまって雑談やら何やらに興じていた。所々から上がる無神経な笑い声に、拓矢は暗がりにいる心がかき乱されるのを感じて、憂鬱を覚える。
当たり前だろうが、普段から親しく関わってもいない人間に特段注意を向ける者はいない。しかし拓矢はそれに漠とした薄ら寒さを感じているのを自覚する。馬鹿馬鹿しい、と思うが、寒々しさを感じさせられるその感覚は冷たい棘のように胸に疼痛を覚えさせる。
自分が誰に認識されているかなんて、気にしたって仕方のないことでしかないのに。
(そういうのも全部、気にしすぎなんだよね…きっと)
小さく重い溜め息を吐き、席に座って窓の外を見て沈思に
「よう、拓矢」
自分の席を取り囲むように、人の気配と声がした。拓矢はその声の方へ目を向ける。
「元気か?」
気軽そうにかけられた一つは、深みのある落ち着いた青年の声。
「朝っぱらからなーに
苦笑交じりにかけられたもう一つは、呆れるような口調にも活気を感じさせる明るい声。
窓から顔を向けたそこには、背の高く精悍な風貌の黒髪の男子と、少しきつめの眼差しをした栗色のポニーテールの女子の二人が、それぞれの笑みを拓矢に向けていた。
「おはよう。ユキ。ユカ」
拓矢は小さく笑って、奈美と同じ、二人の大切な友人、
心を刺していた氷の棘がすっと溶けてなくなるのを、拓矢は感じた。
「夢?」
昼休み、拓矢と奈美と幸紀と由果那の四人が教室で拓矢の机を囲んで昼食をとっていた時、拓矢が口にした話が話題になった。
四人は大抵昼を一緒にとる。拓矢にとっては学校内で唯一の、そして大切な友人達の集まりだった。
拓矢は三人に今朝見た不思議な夢――深い海の中、
「ふーむ。何ていうか…意味深な夢だな」
立ちながら窓際に身を預けて母の手製のおにぎりを食べていた幸紀は深みを宿した声で呟いた。彼は拓矢のこういう一見荒唐無稽にも思える話にも真摯に耳を傾ける。昔からの付き合いで拓矢の奥までを知る仲の深い彼は、その器の大きさで事あるごとに拓矢を助けてきていた。
「ふーん。確かに、女の子が見えたって辺りが何か意味深ねえ」
その向かいの位置、机の右側でパックの牛乳を手にしていた由果那が、ストローから口を離して作った真顔で茶化す。彼女も幸紀と同じ頃からの付き合いの長さから拓矢の弱い面を熟知しているが、それでいてあえてまっすぐに話を通そうとはしないことが多い。それは彼女の生来の悪戯好きな一面の表れでもあり、拓矢の沈みやすい思考に風穴を開けようとする彼女なりの助け方でもあった。
「そ、そこ?」
そのまま放っておくと脱線しそうなレールの切り替えに、拓矢は思わず奈美の手製の弁当をつつく箸を動かす手を止めて口を挟んだ。そこに幸紀がさらに重ねてくる。
「ふむ…確かにな。拓矢の夢に美女が出てくるなんて…」
「ある種の事件、よね」
「そ、そんな言い方は…ないん、じゃない?」
恐る恐る抗弁すると、すかさず由果那は狙い目とばかりにニヤリと笑って詰め寄ってきた。
「へえ、じゃああんたはそういう夢が見たかったってこと? 美女の出てくるような夢が」
「そ、それは…その…」
由果那の意地悪な
「まあ、そういうことだよな」
「そういうことね」
「そういうことじゃないだろ」
幸紀と由果那の雑なまとめ方に拓矢は口を尖らせた。それに二人が笑い、向かいに座る奈美もくすくすと可笑しそうに笑っていた。拓矢は半ば憤然としながらも、心がやわらかくほぐれていくのを感じていた。
「ねえ。奈美はどう思う?」
「えっ?」
由果那に声をかけられて、奈美は箸を動かしていた手を止めて、顔を上げた。どうやら自分に話が振られるとは思っていなかったらしく、狐につままれたような顔をしている。
「拓矢の夢の話のこと。なんか思ったかなーってさ」
「あ、うん…夢…そうだね…」
苦笑する由果那に促され、奈美は思考をまとめながら、チラリと拓矢の方に目を向けた。答えを待とうと奈美に目を向けていた拓矢と、自然、視線が重なり合う。
一瞬の間の後、奈美は俯き加減に視線を外した。顔がほんのりと紅くなっていた。
「え、えっと…」
なぜかしどろもどろになりながらも、奈美は言葉を紡ぎ出した。
「うん…私も、不思議な夢だなって思った。何だか、生まれる前みたいだなって」
「生まれる前?」
「ほう?」
「ふむふむ」
思わぬ観点に引っかかった拓矢は思わず訊き返していた。幸紀と由果那も耳を傾ける中、奈美は自らの内にあるイメージを言葉にしていく。
「あ、うん…人って、生まれる前はお母さんのお腹の中にいるでしょ? そこには羊水っていう水が溜まってて、お風呂みたいな、温かい海みたいな所なんだって。だから、拓くんのその夢は、もしかしたら、生まれる前に戻ったようなものなのかな、って、思って…」
奈美は、感想の一つですら拓矢のためを思うように、一つ一つ丁寧に言葉を紡いでいく。
「夢って、その人の心の奥にあるものが現れるっていうし…拓くんの中に、そういう気持ちがあったんじゃないかな。その…女の人のこととかも…」
奈美はそうまとめると、頬をほんのり紅く染めて俯いてしまった。それを聴いていた由果那がニヤリと意地悪げに拓矢を見てくる。
奈美にまで否定されないのなら、もはや逃げ道はない。拓矢は降参とばかりにわざとらしく溜め息を吐いた。その様を見ていた幸紀が軽い調子で言った。
「はは、さすがは奈美だ。俺達とは感受性のレベルが違うな」
「し、進藤くん、からかわないで…そんなことないよ」
「へー? あたしもあんたと同じ一括りってわけ? 言うじゃないの、ユキ」
そこに悪ノリで絡んできた由果那に、幸紀は手慣れたものとばかりに苦笑を混ぜてさらりと受け流す。
「別にお前のことをどうこう言ってるわけじゃないさ。奈美は俺達とは違って清純で聡明だし、そういうレベルでは俺もお前も奈美とは違うだろ、ってわけ。だろ?」
「あーそうですね! どーせあたしは感受性のない野生人ですよーだ!」
ヤケを演出する由果那。そこに、拓矢がぽつりと一人得心したように呟いた。
「そうだね」
「え!? あんたまでそんなこと言うの拓矢!?」
「えっ」
拓矢の一言が意外だったのか、由果那は詰め寄り、大仰に身振りをとってみせる。
「拓矢…あんたは人を落とすようなことは言えない子だと思ってたのに…! あの泣き虫の拓矢が立派になったわね! ご褒美にウチのバイトのお仕事増やしてあげよっか!」
「あ、い、いや、そうじゃなくて」
「何よ!」
「その、ユキが言ってた、奈美は見方が違うな、ってことが、そうだな、って思って…」
「…………」
一瞬、その場の全員が呆気にとられて沈黙した、その間の後、
「はぁ…あんた、タイミングって言葉、知らないの?」
「あ、いや…知ってるけど…」
「はは…まあ拓矢、タイミングの取り方は、社会勉強だな」
「うん…気を付けるよ」
由果那は盛大な溜め息と共にじとっとした視線を送り、幸紀は苦笑と共に、がっくりと肩を落とす拓矢をフォローする。一人、奈美は何が心の琴線に触れたのか、頬を林檎のように紅く染めて俯いていた。
こんなふうに続く、普通の生活。
同じ時間を一緒に過ごせて、普通に何でも話し合えて、笑い合えて、励まし合える仲間がいる。
拓矢はいつものように彼らとの何気ないやりとりの中で戸惑ったり笑ったりしながら、そのありがたみを噛み締めていた。
その裏で、拓矢は依然として、今朝見た夢について考えていた。
夢ながら、要素としてはそれほど奇妙なものはない。胸の奥底を映し出すような闇の重い深さと、息を吹き返すような救いの印象を除けば。
けれど、拓矢の頭の中にはあの夢が染みついていた。暗示的というか、象徴的というか、幸紀の言うように意味深というか。
何か、あの夢は自分に深く関わっているような…確信ではないが、そんな気がしていた。
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