Cp.1-1 Beginning Blue(1)
深い海の底から浮き上がり息を吹き返すように、
窓の外でささやかに鳴く小鳥の声が、深海の水圧から解き放たれたばかりのような意識の定まらない頭に差し込む。息をすることを思い出すように数回深めの呼吸をして心を整えると、首を右に向けて、窓の対面の壁に掛けてある時計を見た。時刻は朝の7時21分。ほぼいつも通りの起床時間だ。
ぼんやりとした目で瞬きをすると、布団を剥いでベッドから起き上がり、厚い薄青色のカーテンを開けた。四月も半ばを過ぎた春の朝の陽ざしが薄いカーテン越しに部屋に入り込み、目覚めたばかりの体に粛々と降り注ぐ。鈍く重い体が優しい温度に温められ、目には朝の光が眩しい。
そうして朝の祝福のような光を浴びながら、拓矢はまたいつものように、悲しい思いが胸に満ちるのを感じた。
今日もまた、一日が始まる。
自分はまた、生きなくてはならない。
(…行かないと)
胸の重さを感じながら、拓矢はいつものように一日を始める支度を始めた。ふと、目元をそっと拭うと、夢の名残か、朝露のような涙が一筋、微かに頬を濡らしていた。
白いシャツに黒い上着の制服に着替えて階下のリビングに行くと、従姉であり同居人の
「ん。おはよ、タク」
拓矢に気付いた乙姫は新聞を畳み、薄く笑みながらさらっとした調子で拓矢に声をかけた。怜悧さを感じさせる切れのある目元に、女らしさを磨き上げたようなすらりとした曲線美を描く細身の体。背中まである長い黒髪は朝のシャワーの後らしく絹のようになめらかに背に流れ、ぴんと張りのある白いワイシャツの開かれた襟元から、綺麗な薄い肌色と鎖骨が覗いている。
「おはよう、姉さん。朝ごはん、ありがとう」
「うん。今日はどう?」
拓矢が挨拶を返してテーブルに就くと、乙姫は毎朝の習慣になっていることを訊いてきた。凛とした、それでいて包み込むような包容力を湛えた眼差し。やわらかくも心強い微笑みが拓矢の胸に沁みる。
乙姫の問いかけに、拓矢は些細なことだとは思ったが、包み隠さず話すことにした。乙姫には隠し事はしないと、一緒に住むようになってから約束している。
「そんなに、変わりはないよ。ただ…少し、不思議な夢を見た」
「あら」
少し重くなっていた拓矢の口調から、乙姫はその夢が拓矢の心を重くしていることを察したらしい。拓矢の状態を把握しようとするように、乙姫は穏やかな口調で訊ねた。
「そう…どんな夢だったか、訊いてもいい?」
乙姫の問いに、拓矢はしばし表現を探すように頭を捻ると、こう言った。
「海の底にいるような夢だった」
「海の底?」
小首を傾げる乙姫に、拓矢は頷いた。
「うん。暗い水の中に漂ってて、どんどん底の方に沈んでいって。いろんな記憶が浮かんできて、不思議な歌が聞こえて…それで、最後に…天使みたいな女の人に会った」
「天使…海の底に?」
不思議そうに聞く乙姫に、拓矢は再び頷いた。
「うん。その人に何かを囁かれて、そこで目が覚めた。少し…重い夢だったかな」
「そっか…」
乙姫は浮かない調子で話す拓矢の話を聴いて、心配そうに目を細めた。夢の話に過ぎないが、拓矢に心配し過ぎということはないことを知っている乙姫は、こういう些細なことでもちゃんと気に掛ける。
「大丈夫? 何か、具合の悪い所はない?」
「大丈夫、いつも通りだよ。そんなに引きずってるわけでもないし」
弱く笑んだ拓矢はしかし、その夢が心のどこかに焼き付いているようにも感じていた。拓矢のそんな内心を察してか、乙姫は拓矢を励ますように微笑んだ。
「そう…わかったわ。でも、いつも言ってるけど、何か困ったことがあったら私に言うのよ。一人で抱え込んじゃダメだからね?」
「うん。わかってるよ。ありがとう」
拓矢は微かに笑みながら頷く。それを見て、乙姫は安心したように笑った。
「よろしい。早く食べちゃいな。遅刻しないようにね」
「うん」
拓矢は素直に乙姫のその言葉に従って、トーストを
その朝、乙姫はそれ以上夢の話には深く触れてこなかった。特に今掘り下げるような話題でもなかったのだろうし、掘り下げて何があるわけでもない。ましてや余計な詮索をして拓矢の心をかき乱すことはない…そう気を遣ってくれたんだろう、と拓矢は思った。
2年前、身寄りのなくなった拓矢の身を預かることになった時から拓矢の抱える傷と脆さを知っている乙姫は、いつも傍にいる家族として拓矢に細やかに気を遣っている。そして拓矢も乙姫のその配慮を知っていて、そこに温もりと一抹の暗さを感じながら、素直にその気遣いと優しさを享受している。
いつも通りの朝、いつも通りの姉、いつも通りの生活。拓矢にはそれが、悲しくなるほどにありがたいのだった。
乙姫の用意してくれた朝食を食べ終わるとほぼ同時、いつも通りの時刻に家の呼び鈴がなった。それを聞いた乙姫が、玄関の方を見やりながら言った。
「奈美ちゃんね」
「みたい。じゃあ、行ってきます」
「ん、行ってらっしゃい。気を付けてね」
乙姫の見送る声に視線で挨拶を返し、拓矢は鞄を持って玄関から家を出た。
玄関の扉を開けると、いつものように、昔馴染の少女の見慣れた姿が待っていた。
「おはよう、
物心ついた頃からの幼馴染・
「おはよう、奈美。お待たせ」
「うん。大丈夫、来たばっかりだから」
拓矢の言葉に奈美は返答と共に小さく頷くと、鞄の中からナプキンで包まれた小さな箱を取り出し、少しだけ背の高い拓矢の目を見上げるようにしながら、丁寧な仕草でそれを拓矢に差し出した。
「はい、拓くん。お弁当」
「うん。いつもありがとう」
拓矢はいつものように胸が温かく綻ぶような思いと共に弁当箱を受け取ると、奈美と隣に並ぶ形で玄関前を出て歩き出した。
奈美がこうして毎朝拓矢を迎えに来て、一緒に学校に向かうようになるのが習慣になったのは、乙姫が拓矢の身を預かるようになったのとほぼ同時期だ。彼女の手作りの弁当を受け取るのも、その時期から彼女の厚意で続く、毎朝の儀式のようなものだった。
四月の半ば、春の訪れながら早朝のきりっと鋭く冷えた空気に、引っぱたかれるように体に芯が通る。しかし拓矢の意識はまだ海の底から上がったばかりのようにぼんやりとしていて、精彩を欠いていた。
呆け気味に頭を掻きながら、拓矢は奈美といつものように少し急ぎ足で学校への道を歩いていった。気持ち急ぎ足なのは単純に遅刻しないようにというだけで、足を向ける先に楽しみなことなど特にはない。ただ、隣を歩く幼馴染、大切な人の存在を除いては。
「拓くん」
穏やかに晴れた青空の下、右隣を並んで歩く奈美が、拓矢に声をかけてきた。
「ん、何?」
「今日…具合、どう?」
奈美はおずおずと、しかし飾りのない真心から探るように訊いてくる。こういう一見弱気に見えながら積極的な姿勢も彼女なりの一生懸命な思い遣りの表れだということを、拓矢は毎度心の満ちるような思いと共に感じる。
拓矢は心が温かくなるのを感じながら、奈美を心配させるつもりもなく答えた。
「どうって…特に異常はないよ。いつも通りだと思うけど」
「そう? なら、いいんだけど…」
奈美はそう言って目を伏せた。拓矢はそれに微かな疑問を感じて訊いていた。
「何でそう思ったの?」
「ううん…今日の拓くん、何だか少し、寂しそうに見えたから」
奈美はそう言って、自分まで寂しそうな顔をした。
拓矢はそれを聞いて意外な心持ちになった。自分はそんな顔をしていたのか。
(いつも寂しそうに見えるのは、奈美もなんだけどな)
拓矢はひとりそう思った。そして、何となく、奈美をそんな悲しい気分にはさせたくなくて、拓矢は笑顔を努めた。
「うん、大丈夫だよ。心配しないで。昨日の煮魚、美味しかったよ。奈美」
「そう…なら、よかった。また食べたいものあったら言ってね。拓くんが元気になるものなら、何でも頑張って作るから」
拓矢の言葉に、奈美は嬉しそうに表情を綻ばせた。拓矢はうまく笑えているかは自分ではわからなかったが、奈美の心が
そうだ、と、思い出したように奈美が言った。
「拓くん、今日の英語のテスト、大丈夫そう?」
「え…あったっけ、テスト」
「うん…私のでよければ、ノート、貸してあげようか?」
「うん…ごめん。助かるよ。ありがとう」
奈美の控えめながら優しい色の表れた言葉に、拓矢は申し訳なさ半分に微かに笑んで応える。そのやわらかな感謝の言葉に、奈美もまた儚げな表情を明るくした。
歩きながら澄んだ早朝の青空に意識を投げ、拓矢はぼんやりと思案する。
考えるのは、今朝に見た夢のこと。あれは、不思議と頭の中に残る夢だった。
生きることは、光と闇の間で宙吊りになっているようなものだ、と拓矢はふと思うことがある。胸の中にはいつも温かな光のような思いと重い闇のような感情が反発しながら混ざり合って、映る色を明に暗に変えていく。どちらにも染まりそうで染まらず、その狭間に所在なく漂っている。拓矢は自身の実感としてそんなふうに感じることがある。
隣に、すぐ傍に大切な人がいてくれること。共に生き、過ごし、心から笑い合えること。その喜びを、大切さを、拓矢は身を以て知っている。だからどんな時も決して自分が絶望の中で一人でいるなどということは思わない。
だがそれをわかっていてなお、拓矢の心には止めどなく底の見えない暗澹とした思いが滲み出しては、胸を染める喜びの隙間に染み込むように湧き満ちる。それが常に、希望の光を感じようとする拓矢を包み、脅かし、暗い色に染めようとする。
拓矢の心は、差し込む光と湧き出す闇の混ざり合う、なだらかな混沌の中にあった。そして拓矢はそれを骨身に沁みて自覚しながら、風に煽られる
拓矢にとって希望とは、水底から見上げる水面の上の光のように遥か遠くに思えるものであり、同時に、生きるために息を必要とするように、心の奥底で望むものでもあった。
深く重い闇の中に漂い、明暗の
大丈夫。私が、傍にいますから…
ふと、拓矢の脳裏に今朝の夢の中、自分を包み抱いてくれた、光の天女の透き通るような声の響きが蘇った。
胸の奥底に澱んでいた重く暗い闇を拭い去り、救いへと導くような光を心の中心に差し届けてくれたあの天女の眩い姿は、夢だったにもかかわらず、今も強く心に残っていた。
心の底を占める闇からの解放。希望に息を吹き返し、自由の中へと飛び立つ、そんな導き。
まるで遠い夢を見るように憧れてしまう。だが、それは夢に過ぎないと、心のどこかがたしなめてくる。
(いくじなし…)
こんなふうにすぐに醒めようとしてしまう自分の内心が、拓矢は好きではなかった。
頭の中、片隅にこびり付く暗い思いの
目覚めよ
拓矢は、誰かの声を聞いた。
正確には、頭の中に言葉でも音でもない「声」…意思の発声のような何かが響くのを感じた。頭の芯を揺さぶるその響きは、夢の中で聞こえたあの天女のものと同じもののように聞こえた。
「!?」
意識を揺さぶられる感覚に襲われ、拓矢は咄嗟に後ろを振り向いていた。しかし、そこには声の主らしき姿は誰もいなかった。
(今のは…?)
拓矢は、突然の感覚に心を乱されていた。今の声は…いや…「声」?
それは、頭に直接思念を響かせられたような感覚だった。人の声では、なかった。
「拓くん、どうしたの?」
呼びかけられた奈美の声で、拓矢はハッと我に返った。彼女は、今の声について何も気付いていないらしい。妙な違和感を覚えたが、拓矢はそれを一旦胸の内にしまった。
「いや…ごめん。まだちょっと寝ぼけてたみたい。何でもないよ。行こう」
拓矢は頭を埋める不可解な感覚を抑え込み、不思議そうな顔をした奈美の隣に並んで再び歩き出した。
(何だったんだ、今の…?)
しかし、その違和感は頭から離れなかった。自分の中の何かに呼びかけられたような感覚に、訳もわからず胸がざわめいていた。
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