Cp.1 Pr. Blue Dream

 それは、悲しい夢だった。

 透き通った海の底で、光る涙を流すような。

 胸一杯に吸い込んだ水が、泣き疲れた心を潤すような。

 悲しくて、切なくて――愛しい夢だった。



 こぽり。

 息が漏れる泡のような音にゆっくりと目を開けると、暗い水の中にいた。

 水底は虚ろな安らぎに満ちていて、全身を圧し包む水圧を鼓膜に感じる。見上げる上方の水面には、届かない光が揺らめいていた。

 重い水の中、手足に、体に、首に、心に、暗い深淵から伸びる見えない蔦が絡みついて、虚無と絶望の喉へとゆっくりと引きずり込まれていくようだった。ゆるやかに闇の底に沈みゆくのを感じながら、全てを失っていくその感覚は安楽にも似て、抗うこともしなかった。

 暗澹に満ちる海の中、茫とした目は水面、彼方の光を眺めていた。

 沈みゆく僕を笑うように、遥か上の水面には天使の談笑のような光が揺れて、そこから零れ落ちる光の粒が暗い水底に煌めきながら降り注いでいる。なめらかな光が水中に差し込むと、それは蜜のように揺らめきながら解けていき、それらは虹の糸を引く妖精の踊りのように、暗い水の中に鮮やかな光色の軌跡を描いていく。

 そんな幻想的な光景に心を酔わせながら、けれど僕には、どんなに美しい光も僕の心の底までは届かないように思えていた。浮かび上がらない僕の心は、真っ黒な鉄の塊のように、重く深い闇の底へ鈍く落ちてゆく。

 黒い闇に埋め尽くされていく意識の中、いくつもの光景が瞼の裏を掠めた。砕けた鏡の零れ落ちる欠片が、落ち行く時に最後の光を照り返すように。

 疲れ切った意識を手放して眠るように、瞼を閉じる。

 遠く、彼方から響くような声が、沈んでいた記憶の底から囁くように蘇る。


『お兄ちゃん、早く起きて! もう出る時間だよ!』

 眩しい朝の光の中、だらしなかった僕を急かす、由衣の声。

 結局、あの年の誕生日プレゼントは渡せず仕舞いだった。もっと、兄としてちゃんとした所を見せられればよかったと、今はどんなに悔やんでも足りない。


『拓、ごはんよ。降りてらっしゃい。父さんも由衣も待ってるわ』

 夕飯の支度を終えて僕を呼ぶ、母さんの懐かしい声。

 母さんのご飯はいつもとても美味しくて、父さんも由衣も僕も日々のことを話して笑っていて、それを見て笑う母さんはいつも嬉しそうで、それを見る僕は幸せだった。

 今思えば、あれ以上の幸せなんてなかったんだろう。あの頃の僕はそれをわかっていたんだろうか。


『拓、おやすみ。ゆっくり休みなさい』

 眠る前に父さんがいつもかけてくれた、不器用だけど温かい、落ち着いた優しい言葉。

 父さんは口数が多い方ではなかったけれど、いつも落ち着いた雰囲気を纏っていて、僕は父さんの傍にいると不思議と落ち着けた。

 今にして思えば、いつも守られていたんだと思う。父さんにも母さんにも由衣にも、僕を愛してくれた全ての人に、自覚もないまま。


 父さん、母さん、由衣。

 愛していた。もっと、話したかった。一緒にいたかった。

 なのに僕は、たった一人で。


『拓くん、っ…お願い…死なないで…!』

 夕闇の差し込む暗い病室に場面が変わる。今でも忘れない、あの時のことだ。

 横たわる僕の弱い手を強く、強く握りしめて、涙と嗚咽をとめどなく漏らして震えていた、奈美。あの日、どれだけ彼女を怖がらせてしまったか、それを自覚した時の気持ちを、僕は今でも憶えている。

 あの時ほど胸に痛い思い出はなかった。もう、あんなふうに泣いてほしくないって、心から思った。その思いは、今も変わらない。


『気にすんなって。お前が生きてりゃそれでいいよ。俺だって無事なんだしさ。親友だろ?』

 あの時、本当に文字通り命を懸けて僕を守ってくれた、ユキ。彼があの場にいてくれなかったら、今の僕はここにはいない。

 それを思うと、彼にはいくら感謝しても足りない。ちゃんと言えてはいないけど、いつか、彼に恩返しがしたいって思ってる。

 あの頃から今になるまで、僕は彼に助けられっぱなしだから。こんな僕を親友と呼んでくれる彼に相応しい友達になりたいんだ。


『バカ…あんたが死んだら、あたし達がどれだけ心配すると思ってんの!』

 あの日、僕を叱ってくれたユカの言葉は、今でも僕の胸に痛いくらいに切実に響く。そのきつい言葉のくれる痛みの大事な意味も、そう言ってくれたユカの気持ちも、今ではちゃんとわかる。

 僕らが知り合った小さい時から、なんだかんだ言いながら、ユカはずっと僕達の傍にいて、僕達の仲を引っ張ってきてくれた。彼女がいて、何かとせっついてくれたから、今の僕は絶望に沈むことなく、元気で生きてこられたんだと思う。

 いつか、ちゃんとありがとうって言いたいけれど、水臭いとか言われそうで。


『いい? とにかくまずは無事で、そして元気で、できれば笑顔でいること。あなたが元気で生きていることで幸せでいられる人が、あなたの周りにはいるんだから。約束して』

 僕の身を引き取ったくれた初めての日の夜に、乙姫姉さんはそう僕に言ってくれた。あの約束は、今までも、今でも、僕を支えてくれてる。そしてきっと、これからも。

 身寄りのない僕を一人で面倒を見るのなんてきっと大変だったはずなのに、それでも乙姫姉さんは僕の傍に付いていてくれた。面と向かってはなかなか言えないけど、僕は、そんな乙姫姉さんが大好きだ。

 だから、姉さんが僕に言ってくれたように、僕はできるだけ笑って生きていたいと思ってる。姉さんの笑ってる顔を見ると、僕も幸せだって思えるから。


 今でも、愛してくれる人がいる。

 それは、とても幸せなことだと思う。

 けれど、それでも…傷痕は消えないんだ。


『乙姫は私の娘だ。何かあればいつでも乙姫と私を頼りなさい、拓矢君』

 無理のあった僕のわがままを聞いて、乙姫姉さんとこの家に居させてくれた仁伯父さん。

『焼きたてのパンには、人の心をあったかくさせる魔法があるんだよ。さあ、これを食べて、笑顔になれる元気を出しな』

 目的のない僕に、もう一度生きるための機会をくれた、文屋さんと玲央さんとユカ。

『じゃあ、あたしが拓矢お兄ちゃんの新しい妹になってあげる! お兄ちゃんと一緒だけど、それでよければねっ』

 落ち込んでいた僕を励まそうとしてくれた凛乃ちゃんとユキ、彼の家族の皆の温かさ。

『私じゃ、優子さんの代わりにはなれないけれど…何か助けになれることがあれば言ってね、拓矢くん。奈美も私達も、あなたの無事をいつも祈っているから』

 面倒なんて見きれないはずの僕を、それでも助けになると言ってくれた、奈美の家族。

『ずっと、あなたを見ていました。今…あなたの元へ参ります』

 あれ…誰の声だろう。覚えがないけど、なんだか、不思議と懐かしい。


 僕のことを愛そうとしてくれた人達の記憶が、光の欠片となってきらきらと明滅しながら、瞳の奥に蘇る。

 大切なもの。失ったもの。何よりも愛おしくて、だからこそ何よりも胸に痛いもの。光り輝くそれらの欠片が、僕の心にガラスのように突き刺さる。

 気付けば、プリズムのような煌めきの漂う深淵の中、いくつもの記憶を映す光の欠片が、沈みゆく僕の周りに漂っていた。闇を照らすように煌めくそれは、罅割れた僕の魂から零れ落ちた心の欠片だ。

 光と闇。空虚と至福。暗澹と歓喜。死と生命。絶望と愛。

 人の心の有り様が混ざり合う万華鏡のようなその光景は、あまりにも眩しくて。

 胸の奥から、血の涙のような思いが溢れて、沈む心を鉄の味に染めていく。幾度となく繰り返された自責のような思いが、なおも心を切り裂こうとする。

 どんな理由でも手段でも、この世の理から失われたものは、もう二度と戻らない。戻らないものを求める救いなど、いくら祈ろうと、いくら願おうと、訪れはしない。

 わかっていてもなお、僕の心はいつまでもそれを求めて、深い闇の底で哭いている。

 胸の奥から溢れた涙が、悲しみの海に融けていく。

 光の欠片に包まれる中、僕の身体は罅割れながら、暗い海に落ちて沈んでゆく。もうすぐ僕はこの身を蝕むひびに全てを軋ませ、重い闇の底で砕け散るだろう。

 そう思った時、僕は最後の息を零すように、祈りのような想いを、口にしていた。


 だ れ か …


 暗闇に呑まれる前、僕は光の揺れる水面に、救いを求めるような手を伸ばした。

 決して叶うことのなかったその祈りを、願いを、悲しみを、誰かに拾ってほしかった。

 届かないものにすがるような祈りと共に、全てを諦めて目を閉じようとした、その時。

 一筋の青白く鋭い光が深い闇の中を矢のように潜り抜け、僕の身を射抜いた。

 張り詰めた弦が弾かれたような衝撃に体の髄が痺れるのを感じながら、今にも砕け散ろうとしていた僕は、深い水の中、揺らめくように響く歌声を聞いた。

 闇の底に沈む僕に囁きかけるように光の上から降り注ぐ、天使のような歌声を。


『泣かないで 私の愛しい人

《Parmenis Lu enne milia》

 その涙 私が救ってあげるから

《Lu sihedr Rel pholina mei nes naiya》

 悲しみの満ちる暗い海から

《Hal fande i yajl mai gnouram》

 私が連れ出してあげるから

《Is renminacht lolie kanfaliya》


 あなたを襲うすべての闇を

《Lio kolze re spira lai zirer》

 私が振り払ってみせる

《Wo weil meiz kritzt kampharen》

 光の降り注ぐ彼方へ

《Se meit miks la frest shalen》

 手を取り合って一緒に往きましょう

《Lu shemil rein la miska》


 あなたの悲しみは私の痛み

《Miu le soile sel kaled》

 あなたの喜びは私の幸せ

《Shal le miele aima peria》

 あなたの心を救うため

《Al mi spheia ilie mende》

 私は生まれ あなたの下へ行く

《Ail enne Lemi lenie mari el emile》


 あなたの魂が安らかに眠るまで

《Ilien liphe mel haul enfaren》

 私は傍に寄り添いましょう

《Aine sphire al fiel seiren》

 だからどうか泣かないで 私の愛しい人

《Les maia enpharen Lem winne milia》』


 凍える闇を溶かすような清冽な歌声が、胸の奥、心の罅に沁み渡る。

 闇に沈もうとしていた僕の心に、もう一度、微かな光が映る。

 深い闇の中、僅かな希望の光を取り戻した瞳に、僕は、水面に広がる光の中から、誰かがゆっくりと海の底へ、沈みゆく僕の元へ漂い降りてくるのを見た。

 それは、薄い光の衣を纏い、一対の透き通る大きな翼を背に広げた、女神のような女性だった。深い海を照らす眩い光を放つ彼女は、儚げな微笑みを浮かべながら、僕の胸を貫いた光の筋を伝うようにゆっくりと漂うように降りてくると、暗闇の底に沈みゆく僕を、細く綺麗な腕でそっと抱いてくれた。

 触れ合う肌、重なり合う体のなめらかな感触に、軋んでいた心が切なさに震える。彼女の身体から伝わる母親のような温もりに、罅割れた魂が撫でられるのを感じた。


 君 は …


 己という深淵に飲まれようとしていた虚ろな心に生まれた、小さな、温かい灯火。

 闇を貫き、溺れ行く心を包み込み、孤独に震えていた魂の傍に寄り添ってくれた、虹を纏う光の女神。

 触れ合う体の温もりに、悲しみを融かす愛しさが胸に満ちていく。胸の奥が、魂が、僕の心の奥の何かが、想いの熱に呼応する命のように脈打ち始める。


 誰 … ?


 僕は、彼女をこの身の中に求めるように、力の入らない腕を伸ばしていた。

 その時、彼女の体が、神々しい、膨大な光を放ち始め、生命の力の心臓のような水中の太陽となった。そこから溢れ出た光は無限の熱を持つ色彩の糸となって解れて海に満ち、膨れた光は僕の全てを飲み込んだ。


 大丈夫。 私が、傍にいますから。


 光に消える間際、彼女がそう囁いたのが聞こえた気がした。

 誓いのようなその声は、僕の魂を震わせて。

 その時僕は、遠い、はじまりを思い出して。



 そして…目が、覚めた。


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