悪の転生

小村ユキチ

英雄譚

プロローグ 魔王討伐

『お兄ちゃん、右!』

 頭に直接語りかけてくるレイアの声を合図に、僕は目を閉じたまま素早く体をひるがえした。

 左手側から感じる風圧。

 レイアから借りた異能と、体感で位置を見極めて、剣を振り下ろす。

 硬い感触。体重が乗せられず、硬い鱗を切り裂けない。

 だけど、これで十分だ。

『ザイル、まっすぐ!』レイアの声。

「言われるまでもねえ!!」

 鈍い音。

 巨兵ザイルの突進が、残っていた最後の一体を吹き飛ばした。

『オーケー! 終わった! みんな目を開けて!』

 視界が戻れば、桃色の血が一面を覆う、神殿の最上部。目を合わせた相手を石化させるバジリスクたちの死骸が、そこかしこで蒸発していく。

 レイアの異能”スキャナー”が無ければ、突破できなかったであろう最後の罠。

 空は暗い。

 ザイルの赤髪が視界の端で揺れる。斧を杖にして、苦しく息を吐いていた。無理もない。ここまで来るために彼が壊した扉の数、殺した雑魚を考えれば、よくぞここまで頑張ってくれたと思う。

「ザイル、ここからは僕に任せてくれ」感謝を込めて、僕はザイルのたくましい肩に軽く手を置いた。

「まだまだ……って言いたいが、ぶっちゃけもう限界だ」彼は力なく、だが誇らしげに笑う。「行っても足手まといさ。あとは任せた、勇者ダイト」

 返事の代わりに僕は剣を構え直し、真っ直ぐに黒い渦、次元の裂け目へと突進した。

 勇者、ダイト。

 それが、この遠き異世界での僕の役割ロール

 紫色の光。

 裂け目から、巨大なニワトリ、コカトリスが飛び出してくる。

 だが僕は立ち止まらない。「そのまま進んで!」と、レイアの声が聞こえたから。

 赤い翼を広げ、僕に襲い来るコカトリス。

 その体は、しかし勢いを失い、地に崩れる。

 居合の太刀筋が、真っ二つの翼と足に刻まれていた。

 死体をくぐった先にたたずむ、銀髪のシド。

 彼の片目と、視線がぶつかる。

 普段は皮肉屋な彼だが、この時ばかりは何も言わず、ただ黙ってうなずいた。

 それだけ確認した僕は、もう、前以外を見ていなかった。

 走る。まっすぐ。

 僕の横に、青い光をまとった半実体の馬が並んだ。

 最速の異能、”スレイプニル”。

「乗って!」スレイプニルの背にまたがったポニーテールの女が僕に手を差し出す。彼女は騎士リアン。大事な仲間。

「アリアネは?」手を取って霊馬に乗り込み、僕は聞いた。

木霊ドリアードの群れを焼き払ってる! 後はダイトが奴を倒すだけ!」

 次元の裂け目へと突入する。

 黒い世界。

 慌てた魔王は配下の軍勢を一度に解き放ちすぎたのだろう。スレイプニルの行く手を阻めるものはなく、黒い荒野を僕らはまっすぐ突き抜けていく。

 奴が見えた。

 紫色の球体の中で、胎児の姿勢で泣きじゃくる、赤子の魔王。

 ゼクス。

 最後の関門とばかりに群れを成す、悲しきコボルトたち。

「くそっ、最後の最後に!」リアンが舌打ち。

「ここまでいい! 直前で止まってくれ!」僕は叫ぶ。

 リアンは一瞬、何か言いたげに振り向いたが、時間がないことを悟ったのだろう、「了解!」と威勢よく一声発して、コボルトの群れの最前列で急ブレーキをかけた。

 その勢いに任せて、僕は跳んだ。

 目を閉じて、借り物のスキャナーの力に集中する。レイアほどの精度はないが、これくらいの距離なら……。

 見えた。

 1、2の……3!

 コボルトの頭を蹴って、再度跳躍。

 これが僕の二つある異能のうちの一つ、”イミテーション”。仲間の異能を借りる力。

 そのまま僕は、無人の広場で魔王の卵と向かい合った。

 背後ではコボルトたちが慌てている。

 時間はない。

「ダイト……コノ、バカ勇者アァ……!」

 情けない、魔王の声。幼き悪魔。白い卵体の中に漠然と人型の影として佇む、悪意の結晶。

「死ネ死ネ死ネ死ネ、死ンジマエ、オ前ナンカ嫌イダッ!!!」

 巨大な赤い槍が空中に出現して、僕へと振り落とされた。

 僕はそちらへ左手をかざす。

 触れる瞬間に、手のひらに温もりが満ちて、闇を弾き返した。

 これが、僕の二つ目の異能、”イージス”。問答無用で敵の攻撃を弾く、無敵の盾。長い旅の中で手に入れた、世界最強の異能だ。

「チクショウ! ドウシテッ!! オマエニハ効カナインダアアアッ!!!!!」

 紫色の魔法弾が、降り注ぐ。

 すべて頭上で弾けて、僕にはダメージ一つ残さない。

「死ネ! 死ネ! オ前ナンカ死ンデシマエッ!!」

 叫ぶ哀れな彼の肉体に、僕は渾身の力を込めて、剣を振り下ろした。

 割れる卵、こぼれる水。

 あふれる影。

 僕を囲んで、取り込んだ。

『お兄ちゃん!? お兄ちゃーんっ!!!』と、レイアが叫ぶ声が、遠のいていく。

 浮遊感。

 ここは……精神世界?

 こっちの世界に来たときも、確かこんな感じの場所に出た。

 目の前には、幼い子どもの影。

 魔王と、一対一。

「ドウシテ……僕ノ邪魔ヲスルンダヨォ……オ前ハ友ダチニシテヤルッテ言ッタノニ!!」

「世界の半分を渡すというアレか? 願いはなんでも叶えるって言った、アレのことか?」

 僕は魔王を、あざ笑った。

「ゼクス……お前は可哀想な生き物だ! どこから来たのかもわからない、純粋な悪意の集合体!」

「嘘ダ! 可哀想ナンテ思ウナラ、ナンデ僕ヲ殺ソウトスルンダ! 僕ヲ受ケ入レロッ! 愛シテミセロ!!」

 影の触手に、体が飲まれる。

 でも、僕は揺るがなかった。

「たとえどれだけ可哀想でも、お前はこの世にいちゃいけない!お前は人を不幸にしかできない!」

「オ前ラガ僕ヲイジメルカラダ! オ前ラガ悪インダッ!」

「そうかもしれない……お前の不幸は、この世界の人々が生んだものなのかもしれない。だが、それでも、お前が傷つけてきた人たちの不幸はお前のせいだ! クラインの街を襲った悲劇も、大陸を巻き込んだ戦争も、全部、お前のせいだ! だが僕はお前を恨まない! ただ、黙って消え去ってもらうだけだ!」

「受ケ入レロ! 受ケ入レロ! 僕ヲ……ソウスレバ、全部ウマクイクノニ……ッ!」

「ゼクス、お前は大人になっちゃいけない……幼いまま、この場で消えるべきなんだ……」

 僕は、ゆっくりと息を吸って、呪文を唱える。

「我は人の子、魔王との契約を所望するもの……」

「ヤメロ! ヤメテ! ヤメテエエエェェェッッ!!!」

 ゼクス……哀れな魔王。泣きじゃくり、駄々をこねて、世界を壊した悪しき存在。同情を誘っておいて、簡単に人を裏切ってきたその涙も、ここで終わりだ。

「我は問う、汝の願い、汝の力。爾後じごにて汝の存在を、我が定めん」

 呪文が口ずさまれた途端に心に湧き上がってきた、悪の欲求。これまで何人もの国王の、勇者の心を打ち砕いてきた、ゼクスの誘惑。

 今の僕には、響かない。

「僕ヲ……受ケ入レテ……」

拒絶するリジェクト

 甲高い悲鳴。

 すべてを巻き込み。

 崩れていく。


 ……終わった。


 このたった一言を言えなかったせいで、どれだけの不幸がこの世に生まれ落ちたのだろう。

 これで……やっと……。

 やっぱり、僕はもとの世界には帰れなかったか。

 この時、死んでもいいと思った僕を、つかむ腕。

 リアンの幻馬、スレイプニルの、気高いひずめの音。

「リアン……早く逃げないと、次元が閉じちゃうよ……」カラッカラの喉で、そう呟いた。

「うるさい、だまって掴まってろ!!」リアンの、涙でくもった声。「レイアちゃんがダイトを必死で見つけたんだ!! あんた、あの子のお兄ちゃんになるって言っただろ!! 死んで伝説になろうなんて許さないっ!!」

「……だけど……」

 狭まる世界、消える光。

「うるさい! うるさいっ!!」

「……ありがとう……」

「……ばか」

 見つけた、次元の裂け目。

 みんなが僕らを、覗いている。

 レイア、ザイル、シド、アリアネ、フラー。

 だけど、裂け目は狭く、遠く。

 向こうはもう、足場が崩れ去っている。

 これじゃあ届かない。

「どうすれば……どうすれば……」泣き声をあげるリアンの背中を、僕は掴んだ。

「……合図したら、さっきみたいに、スレイプニルを止めて、消してくれ」

「え?」

「いいから!!」

「わ、わかったわよっ!!」

 3、2……。

 覚悟を決めて。

 1。

「今!」

 叫びながら、僕はリアンを抱きかかえて、宙に跳びだした。

「きゃーーーっ!!!?」

 まだだ。

 まだ遠い。

 3、2……1!

 足元に、僕は借り物のスレイプニルを召喚した。

 リアンの異能であるこの荒馬を、僕は全くうまく乗りこなせない。

 だけど、踏み台にするくらいならできる。

 つま先に、確かな感触。

 完璧。

 もう一跳び。

 力強く。

 届いた!

 目前に迫った裂け目に、力いっぱいにリアンを投げ込んだ。

 彼女の体が、外の世界へと吸い込まれていくのを、見届ける。

 これで、一安心。

 あとは、何も考えずに腕を伸ばす。

 落ちる体。

 焦げ付く次元の壁。

 ……掴まれる感触。

 ザインの、力強い腕。

「ウオオオォォォォォ!!!!!!」

 引っ張り上げられ。

 体が宙を舞う。

 冷たい空気とともに、視界がクルクル回った。

 頭をぶつけて、まだ転がる。

「いて、いたたたたた……」

「お兄ちゃんっ!!」レイアが、僕に向かって突進してきた。

「ぐえっ!?」お腹に、彼女の頭。

 泣きじゃくるその黒髪を、僕は撫でた。

 手が真っ黒だ。

 空を見上げる。

 夜明けの、太陽。

 目に染みる。



 僕はこうして、美しいこの世界を救って、帰還した。

 大切な仲間、誰一人、欠けることなく。

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