第4話

 九月上旬。二十四節気では「白露はくろ」と呼ばれる頃だが、それも死語と化したのかと思うぐらいの暑さが続いている。

 しかし今日は土曜日、一週間の労働を終える日とあってみさきのテンションは高い。しかも家を出る前に玲於奈から「今日は夜来香イエライシャンに行きます。ご一緒しませんか」と笑顔の絵文字つきのメッセージが送られてきたものだから尚更気合が入っていた。 

 今までの女友達で玲於奈ほど会って楽しいと思わせる子はいない。もちろん他の女友達で仲の良いのはいることにはいたが、みんな進学や就職で遠く離れた都会に出て、中には結婚したのもいて疎遠になってしまった。

 そもそも中学を出た後のみさきは友達と遊ぶことを全くと言っていいほどしてこなかった。今の会社で働きながら定時制高校に通い、休日も資格取得の勉強に費やしていたからクラスメートと遊ぶ時間が全くと言っていい程になかったからである。

 最初はその反動で玲於奈を数年ぶりにできた新たな友人として意識しているのだとみさきは思っていた。玲於奈のことをもっと知りたいし、自分のことを知ってもらいたいという欲求が日を追うごとにどんどん膨らんでいく。四六時中、最近は仕事の時ですら玲於奈のことが頭に浮かぶ。今までの女友達に対しては抱いたことがない感情が渦巻くようになっていた。

 聖泉の生徒みたいに外面だけ見ているわけではなく、彼女たちよりも玲於奈の内面を把握している。その上で外面と内面のギャップを可愛いと思っている。だけど玲於奈のことが頭から片時も離れないのは、もはや「可愛いから」という理由だけでは説明できない何かがあった。

 それが果たして何なのか? みさきなりに突き詰めていった結果、一つの結論に達した。


「もしかして、これが恋ってやつじゃ……?」


 顔がカーッと熱くなり、ただでさえ暑いのに変な汗が余計に噴き出てしまう。

 一応、彼女にも彼氏がいなかったわけではない。ただ心の底から好きというわけではなかった。中学時代に家庭でいろいろあって心が弱っていた時期、気の迷いがあって同級生の男子から告白されて付き合ってみたものの、相手はみさきではなく「彼女持ちのステータス」が欲しいだけであることがわかり結局三ヶ月持たずに別れた。特に怒りや悲しみといった感情は沸かない、あっさりとした別れ方だった。

 あの男は結果としていてもいなくても同じだったのだが、玲於奈は違う。 

 真面目に仕事に打ち込んで重機やその他諸々の資格を取って、二十歳になってからは酒の味を覚えて。一人前に金を稼げるようになったらもうそれで充分な一生を送れると思っていた。だがそれだけではあまりにも無味乾燥だと自覚し始めたのは玲於奈に会ってからだ。

 玲於奈がいない人生が、もはや想像できなくなっている。


「お、落ち着け。相手は同じ女だぞ? それ以前に高校生なのに……」


 みさきは頭が混乱しはじめたが油圧ショベルを巧みに操って、更衣室兼シャワー室として使われていた建物を粉砕し、中身の鉄骨を剥き出しにした。

 そのタイミングで職長がやってきて、いつものように昼休憩のサインを送ってきた。エンジンを止めて油圧ショベルから出てきたみさきに職長が声をかける。


「おいどうしたみさき? 顔が赤いぞ?」

「いや、大丈夫っす……」

「そうか。まだまだ暑いからな、水分補給を怠るなよ」


 聖泉女学院は土曜日も午前中は授業があり、十二時半になると荘厳な終業のチャイムが鳴った。食事を終えていたみさきはいつもはクーラーを効かせた社用車の中で昼寝をするのだが、この日は裏門の花壇の方に足を運んでみた。玲於奈を意識し過ぎるあまり、無性に会いたくなってしまったのだ。燦々と降り注ぐお日様の熱にやられてしぼんだ元気を補充したいという思いもあった。

 下校する生徒はちらほらいるものの、花壇には肝心の玲於奈の姿が見当たらない。ため息をひとつついて戻ろうとしたその時、救急車のサイレンの音がした。それはどんどん近づき、けたたましい音量になった。どうも裏門の向こう側の細い路地を通っているらしい。

 突然音が止んで、裏門からゆっくりと救急車が入ってきた。教員が慌てた様子で駆けつけて救急車を誘導する。正門の方に向かっていくようだ。下校途中の生徒たちは足を止めて騒ぎ始めた。


「まさか……」


 不安が頭をよぎる。誰が倒れたのか知らないが、玲於奈の可能性だってある。今日の最高気温は三十三度、否応なく熱中症を疑ってしまう。

 みさきは正門の方に回ろうとしたが、教員たちが騒ぐ生徒たちにきつい口調で押しとどめているのを見てやめた。メッセージを送ろうとしても、携帯やスマートフォンの持ち込みは校則で禁止されている。今はどうしようもできない。

 仕事を終えた後に、みさきは早速「昼に救急車が来たけどあんたじゃないよね?」とメッセージを送った。電話で直接話したかったが、さすがに同僚も一緒に乗り込んでいる社用車の中で通話するのははばかられる。

 しかしすぐに「既読」と表示されて「違います。私じゃないです」と返事が帰ってきて、思わず安堵のため息が漏れた。

 ただ、いつも付いている絵文字がこの時はなかった。どこか引っかかるものがあったが、とりあえずは無事を喜ぶことにして「夜来香」に向かった。


 *


 午後六時、「夜来香」にやって来た玲於奈は、朝送られてきた笑顔の絵文字とは正反対の雰囲気をにじみ出していた。生気が感じられず眉毛はハの字になり、誰がどう見ても落ち込んでいるとしか言いようがなかった。

 これ程までに暗い姿を見るのはみさきも初めてである。


「ちょっと、何かあったの?」

「中で話をしましょう」


 みさきはお決まりの生ビール大と餃子三人前だが、玲於奈も三人前を注文した。それに加えて油淋鶏にレバニラ炒め、エビチリソース、八宝菜、あんかけチャーハン、チャーシュー麺の麺大盛り、さらにデザートとして杏仁豆腐。もう聞くだけで満腹になりそうなぐらいこれでもかと注文して店員を呆れさせた。あえて四人がけの大きなテーブルに座ったのは正解である。

 余程嫌なことがあったに違いないと察したみさきはすぐさま問いただした。


「朝、うっかり生徒手帳を落としちゃったんです」

「うん、それで?」

「たまたま下級生の子が拾ってくれて、教室に届けてくれました」

「うんうん」

「当然、私はお礼を言いました。そしたらその子、のぼせ上がって倒れてそのまま保健室に行くハメになっちゃって……」

「お、おおう……」


 確かにアイドルに直に直接お礼を言われたらそうなるかもしれない。

 四人がけテーブルの場所は天井の照明から少々離れているせいで、玲於奈の顔がとりわけ暗く見える。


「だけどそれで終わりじゃなかったんです。放課後、私の取り巻きたちが保健室に乗り込んで、その下級生の子に因縁をつけて吊るしあげたんです。そのせいでその子は引きつけを起こして、救急車を呼ぶ騒ぎになって……」

「……」


 思っていた以上の深刻な内容に、みさきは言葉が出なくなった。腹の底で何かがマグマのようにグツグツと煮えたぎる感じを覚えた。


「それで私、とうとうキレちゃいました……」


 玲於奈の瞳が潤み、一筋の涙が頬を伝って落ちた。


「そしたらこんな風に、みんなを泣かせて……」 

「いや別にあんたは悪くないだろ? あたしだって、いや、誰だってブチキレるってそりゃ? ほら、おしぼりで顔を拭きな」


 玲於奈は言われた通り、おしぼりで涙を拭きとりながら続けた。


「こんなことになるなら、最初からちゃんと言って聞かせれば良かったと後悔しています。私がウジウジしていなければ……」

「あ、すみません。生ビール大と餃子をお持ちしました」


 ただならぬ雰囲気を感じ取った店員は恐る恐るジョッキと、合計六人前の餃子が乗った皿をそっと置いた。

 玲於奈がジョッキをうつろな目つきで見ている。


「酔ったら何もかも忘れて気持ちよくなれるんでしょうね……」

「ああっ、ダメ! ダメだからね!」


 みさきはジョッキを抱え込んで、一気に半分程飲み干した。泡を汚れた作業着の袖で拭って、相手の涙目を睨みつける。


「お酒はハタチになってから!」

「は、はいっ」


 大声に驚いた玲於奈の背筋がピン、と伸びる。


「あんた、『嫌われるの怖い』って言ってたよな?」

「あ、はい……」

「悪いことをしたからあんたは怒った。それで嫌うんだったら、つまりは器の小さいガキだってこと。そんなのと付き合ったところでマイナスになってもプラスには絶対になんないよ。もう開き直ってさ、そいつなんかに嫌われても別にいいや、って気持ちになっちまえ、な?」


 まだ酔いが回りきっていなかったが、みさきはまくし立てた。もうビールの一杯目が無くなっている。玲於奈は黙り込んだままである。

 注文を次々と運んでくる店員に対して、みさきは「紹興酒をストレートでちょうだい」と頼んだ。ここでビール以外の度数の高い酒を頼むのは初めてだった。


「ほら、どんどん食いな」

「あっ、はい」


 二人はしばらく無言で飲み食いしていたが、酔いが程よく回ってきた頃になってみさきは言った。


「周りに嫌われても、もうあたしっつー友達がいるだろ? 仮にいじめられるようなことがあったらあたしに言いな。まとめて引っ叩いてやるからさ。だから安心しなよ」

「みさきさん……」


 玲於奈の箸が止まる。そしてまた、涙が溢れだした。


「一度顔を洗ってきたら?」

「す、すみません」


 玲於奈はトイレに駆け出した。

 店員が二杯目の紹興酒を持ってきたが、常連客相手で気が緩んだのか、余計なことを言ってしまった。


「あの人、何かあったんですか? さめざめと泣いていましたけど」


 みさきはジロリと睨む。


「あんたに教えなきゃいけないこと?」

「い、いえっ! すみませんでした!」


 厨房に逃げ帰った店員と入れ替わるようにして玲於奈が戻ってくる。目は真っ赤になっていたものの、口元には笑みが浮かんでいた。


「お待たせしました。頂きましょう」

「あ、その前に。あのさ、良かったら明日の日曜……あたしと一緒に出かけないか?」


 実はみさきには玲於奈と一緒に遊びたい、という気持ちを前から抱いていたものの、ガテン系とお嬢様学校の生徒、大人と未成年、不釣り合いな気がして尻込みしていたところがあった。しかし今日、「友達」という言葉をはっきり口に出して受け入れてくれた今、友達として振る舞うのに何の不都合もない。


「すみません、明日は法事がありまして」

「あ、そう……」


 あっさりと断られたみさきはがくっと肩を落とした。家の用事なら致し方無い。


「その代わりと言っては何ですが……工事現場を見学したいのです」

「見学?」


 みさきは紹興酒を口にしかけて止めた。


「はい。みさきさんがその作業着で働いている姿を見てみたくて。きっと、かっこいいだろうなと思います」

「かっこいい、か……」


 褒め言葉にくすぐったい感じがした。そうまで言われたら断れるはずがない。とはいえ、工事現場は危険が潜んでいるため、生徒を中に入れたと学校側に知れると後が面倒である。しかし玲於奈の願いを叶えてあげたい気持ちが勝った。


「わかった。職長に掛け合ってどうにかしてみるよ」

「お願いします」

「さあ、食え食え。まだ残ってるぞ」

「はい!」


 結果はもちろん完食だった。出費はだいぶかさんだが玲於奈を元気にするための治療費と思えば安いものである。


「今日の酒は美味かったなあ~」


 玲於奈は紹興酒をしこたま飲んでベロベロになったみさきを抱えるようにして駅まで歩いた。作業着に染み付いた汚れと汗の臭いを気にしている暇はない。

 グダグダになったみさきを1番線のホームのベンチに座らせて、自販機でミネラルウォーターを買って差し出した。


「どうぞ」

「ん~、悪いねぇ」

「大丈夫ですか? 一人で帰れますか?」

「だーいじょーぶ。あんたも夜道には気をつけなよぉ、えへへへ」


 十分ほどして電車が到着した。


「さて、行きますかっと。月曜日にまた会おうね」

「今日は本当にありがとうございました」

「じゃあね、頑張りなよ」


 みさきはそう言うと玲於奈をハグした。


「あっ」


 強くしがみつく、という表現がしっくりくるような力のこもった抱き方に、玲於奈はただなすがままだった。みさきの体と作業着から漂う汗の臭い。しかし不思議と嫌ではない。


「あっ、あの、電車が行っちゃいます……」


 みさきははっと我に帰る。


「お、悪い悪い! んじゃ!」


 電車にひょいと乗り込んだみさきは、車窓からホームの玲於奈に向かって姿が見えなくなるまでずっと手を振っていた。


 *


「お客さん、お客さん。終点ですよ」

「ん?」


 みさきが目を開けると、目の前に車掌が立っていた。乗客の姿は一人もいない。


「終点です」

「し……」


 はっと気づいた時には手遅れだった。この普通電車はみさきの家の最寄駅からさらに十五駅向こうを終点としている。

 酔って降車駅を寝過ごすなど人生で初めてのことだった。


「うあ~やっちまった~……」


 反対側のホームのベンチに座って、うなだれて帰りの電車を待つはめになった。

 終点駅は田舎の方にあり、夜になると人はまばらである。どこからか鈴虫の鳴き声がしている。吹く風も程よい冷たさであり、まだ昼間は蒸し暑くとも、夜の方は着実に秋に向けて歩みを進めていた。

 それにも関わらず、相変わらずみさきが汗だくなのは酒のせいではない。別れ際に酔った勢いで玲於奈に抱きついたことを思い出してしまい、血流が全身を高速で駆け巡っていたからだった。


「でも、良い抱き心地だったな……」


 眠気はすでに吹き飛んでいた。

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