第3話

 八月も末になったが、暑さは一向に納まる気配がない。この日も県内の最高気温が三十五度という予想がされていた。

 雲一つない青空で朝から強い日差しが降り注ぐ中、聖泉女学院の生徒たちが次々と正門をくぐり抜けていく。九月を待たずして二学期を迎えたうら若き少女たちの表情は明るい。とはいえ夏休みが終わってしまい、まだまだうだる暑さの中で登校するのだから内心では気持ちが落ち込んでいる者も少なからずいる。

 みさきには彼女たちの心情を、昨晩の玲於奈とのメッセージのやり取りを通じて理解しているつもりだった。玲於奈は夏休みが終わることでかなり憂鬱になっており、ネガティブな気持ちを素直にみさきに伝えたのだった。

 それに対して「贅沢言うな。あたしなんか週六日労働で盆休みも三日間しかなかったんだぞ!」と怒りマークを五個も付けて返信したら「すみません、本当にすみません」と泣き顔の絵文字付きで謝られた。

 玲於奈とはあの会食の日から毎日、頻繁にメッセージをやり取りをしている。みさきは全く絵文字を使わないが、玲於奈は必ず絵文字を使ってくる。ここに両者の性格の違いが見られるのも、メッセージが楽しいと思える一つの理由である。

 みさきがあの時怒りマークを使ったのは例外中の例外だ。


「あれしきのことでガチで泣いたりしてないだろうな」


 玲於奈は大食いとは裏腹に繊細な性格をしているらしかった。つい四日程前に彼女の家にゴキブリが出たことがあった。あの時は相当パニックになっていたらしく、電話をかけてきて震え声で怖い、怖いと泣き言を言っていた。どうにかなだめすかした後もメッセージを送りつけてきて、泣き顔の絵文字をこれでもかと言うぐらい見せつけられたものだった。

 とにかく玲於奈のことを軽く心配しながら、みさきは油圧ショベルを操っていた。プール解体工事は順調に進んでいて、このままいけば来月中には作業を終えられる。

 一番気温が高くなる午後二時前、太陽は否応無しにみさきの体力と思考能力を奪っていく。現場では粉塵防止のために散水されているが、それで現場が涼しくなるわけがない。


「あっつー!!」


 たまらず油圧ショベルのエンジンを止めて外に出た。このまま我慢して熱中症で倒れたら元も子もないし、労働基準監督署から目をつけられることになりかねない。そうなったら今後の仕事の受注に悪影響が出るからこまめに休憩を取るようにと、あらかじめ職長から強い指示が出ていた。

 水筒のお茶は切らしていたので、食堂横の自販機でスポーツドリンクを買い、日陰に入って水分を補給する。つい座り込みたくなるが生徒が登校している以上、社会人の端くれとしてみっともない姿を見せるわけにはいかない。ましてや、見ず知らずの業者である自分に対しても挨拶してくれる礼儀正しい聖泉の生徒が相手ならなおさらである。


「あいつ、今頃何してんのかな」


 とにかく今日は暑くて疲れるから、玲於奈の顔を見たら少しでも元気になるんじゃないかと思った。今日は始業式だから午前で学校は終わっているはずである。帰っていなければ環境委員会の活動に精を出しているかもしれない。確か花壇で花の世話をするのが好き、と言っていた覚えがある。

 通りすがりのサイドテールの生徒がみさきの顔を見て「ごきげんよう」と挨拶してきた。みさきは彼女を呼び止めた。


「ねえねえ、花が見たいんだけどどこか花壇はない?」


 玲於奈に会いたい、とはさすがに直接的には言わなかった。


「花壇ですか? 大きいのであれば裏門の近くにありますけど」

「ありがとう」

「実は私もそこに用事がありまして、今から伺おうと思っていたところです。良ろしければご一緒にいかがですか?」


 やっぱりここの生徒は言葉遣いがお上品だなあ、と感心して生徒の言葉に甘えることにした。


「どんなお花がお好きですか?」

「んー、やっぱ今の季節だとひまわりだな」

「残念ながらひまわりはございません。ですが、もっと素敵なお花が見られますよ」

「そりゃ楽しみだ」


 花壇にたどり着くや否や、サイドテールの生徒が言っていた「お花」は別の意味だということを思い知らされた。裏門に続く道の片端には植木、もう片端が花壇になっているが、植木の陰に隠れて何人もの赤ら顔の生徒が花壇の方を見ている。その視線の先は色とりどりの花ではなく、花壇にいる人物に向けられていた。

 玲於奈がジョウロで水やりをしているところを覗き見しているのだった。


「な、何やってんの……?」


 お嬢様学校らしからぬ非道徳的な光景に飛び出た呆れの言葉を、サイドテールの生徒は質問の意味に捉えたらしく小声で返答した。


「あのお方こそが我が聖泉の誇る『お花』ですわ。いかがです? 美しくて気品がおありでしょう?」

「ああ、そーだねーすごいねー」


 みさきは棒読みで答えた。


「私達は『レオ様』とお呼びしてお慕いしていますの」

「レ、レオ様ぁ?」

「ええ、玲於奈というお名前でして、そこからレオ様と」


 学校ではレオと呼ばれている、と言っていたがまさか様づけまでされているとは。確かそんなあだ名で呼ばれている外国人俳優がいたなと思い出しつつ、玲於奈をアイドル視している生徒たちに心底呆れ果てた。

 ただ、気持ちはわからないでもない。確かに水やりをしている玲於奈は所作の一つ一つをとっても丁寧で花に対する愛情が感じられるし、顔の良さが相まれば見惚れても仕方ない。


「ああ、レオ様。今日もお美しい……」


 サイドテールの生徒は目を潤ませながら玲於奈を見ている。憧れの「レオ様」が実は四キロのチャーハンを平らげるぐらいの大飯ぐらいで、メッセージで可愛い絵文字をふんだんに使うような可愛い子だと知ったらどんな反応をするだろうか。

 誰かが植木を揺らしてしまい、ガサッと音が立ってしまった。たちまち玲於奈が植木の方に振り向いた。


「きゃっ!!」


 生徒たちは可愛らしい悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすようにサッと逃げ出した。取り残されたみさきはしばし呆然となる。


「あれ? そこにいるのはみさきさん……?」


 玲於奈が気づいた。みさきは植木の隙間からのそのそと出た。


「ちょっと玲於奈の顔が見たくてさ、来ちゃった。とんでもない別のものも見ちゃったけど」

「びっくりしたでしょ。あの子たちのやることに」

「気づいてたんだ」

「いつものことです」


 みさきの聞くところによると、ああやっていつも覗き見紛いのことをしているとのことだった。あえて近づかずに覗き見することでスリリングを味わっているつもりなのだろう。


「あたしがあんただったら怒るけどねえ」

「見られるぐらいなら別に構いませんよ。ただ私を『花』に例えるのは恥ずかしいからやめて欲しいですけど……」

「『レオ様』呼ばわりも嫌でしょ?」

「聞いたんですね、あの子たちから」


 玲於奈は照れ笑いのような悲しい顔のような、曖昧な表情を浮かべた。


「あ、すみません。せっかく来てくれたのに湿っぽい話になって。それより、ここには面白い植物があるんですよ」


 玲於奈は花壇の奥の、通路側から目の届きにくい日陰のところに置いてあるプランターのところへみさきを連れて行った。


「おおう、何だこのグロい植物は?」


 玲於奈が手塩にかけて育てているであろうものをついグロいと言ってしまったが、花壇に植えられている綺麗な植物とは対照的な、口を開けて歯をむき出しにしている怪物を思わせるようなトゲ付きの双葉の造形を見せられてはお世辞にも綺麗とは言えないだろう。


「ハエトリグサという食虫植物の一種です。名前の通りハエなどの虫を食べて養分に変える性質を持っているんです」

「え、虫を食うの!?」

「時々ナメクジとかカエルとかも食べますけどね」

「うわ、えっぐ」

「あ! 見てください!」


 玲於奈が指さしたところ、一匹の小さな芋虫がノソノソとハエトリグサの茎をよじ登っていた。そのまま登り切って双葉の間に入り込む。

 次の瞬間、双葉は勢い良く閉じて哀れ、芋虫は中に閉じ込められてしまった。


「うわっ、本当に食べやがった!」

「あとは消化液でじっくりと溶かしていくだけです」


 みさきはゾッとして、一瞬だけだが暑さを忘れてしまった。


「ますますグロいなー。何でこんなホラーチックな植物がここにあるんだ?」

「物好きな生物の先生が勝手に持ち込んで勝手に置いていったんです。だけどみんな、気持ち悪いと言って世話をしたがらなくて」


 確かにお嬢様育ちの生徒だったら生理的に無理かもしれないな、とみさきは思った。


「でも私は好きです。私に似て食いしん坊ですから。それに、意外と可愛い花を咲かせるんですよ。もう枯れちゃいましたけど」


 言われてみれば確かに、枯れて変色した花弁であろう部分が上部についている。今月の上旬まで咲いていたとのことだった。


「花壇には綺麗な花がいっぱい植えられてますし、特に秋にはバラが目一杯咲くからみんな楽しみにしています。でも、私が一番好きなのはハエトリグサなんです」


 そう語る玲於奈は生き生きとしていた。ひまわりは無くても、ひまわりみたいな笑顔が目の前にある。


「やっぱり、可愛いわこいつ……」 

「え?」


 みさきは本音が漏れ出たことに気づいてはっとなった。


「い、いや。このハエトリグサがさ。このパクって、動くのが何とも」


 みさきは葉に触れようとした。


「あ、ダメです。むやみに触ると枯れちゃいます。ハエトリグサは意外と繊細なんですから」

「そこんとこも、玲於奈そっくりだな」


 みさきはそう言った後に口を抑えた。失言だっただろうか。

 しかし玲於奈は「ぷっ」と吹き出した後、お腹を抱えて大声で笑い出した。

 みさきもつられて豪快に笑った。


「じゃあ、こいつを『レオ様』って名付けるか」

「いや、それだけはやめてください」

「あはははは!」


 この後、みさきは休憩が長すぎると後で職長に叱られるぐらいに話し込んだのだった。

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