5-5

 決戦の日。

 その夜は、不気味なほど黒く暗澹とした雲に覆われる空だった。

 月明かりも厚い雲に遮られて一条すらも地上に射していない。


 トランシルヴァニア第一都市、イルヴェキアに入ったアッシュらは、その異様な光景に目を疑う。

 美しかった白い街並みは、いまや紅蓮の炎が至る所で上がり、煌々と空を焼きながら立ち上る黒煙が燻している。

 街中に広がる怒号と悲鳴。風に運ばれる死臭と血の匂い。そこら中に転がる市民の遺体……。

 火消しに出動したはずの消防車は放水することもなく打ち捨てられ、市民を救出するため出動したはずの救助隊も物言わぬ屍となっていた。

 それら欠損した死体の一つひとつは、聞くに堪えない異音を響かせながら変異していく。体は黒々と変色し、体は倍以上に膨れ上がり、やがて凶悪な鉤爪を具えた。屍食鬼だ。

 警察や治安維持部隊が退治しようと銃器で応戦しているが、聖霊銀でない生半可な攻撃はすべて鋼のような硬い皮膚に弾かれるだけ。まるで歯が立たないでいる。


「どうなってんだよ、これ……」


 信じられない光景に呆然と呟くと、アッシュは驚愕の瞬間を目撃した。

 劣勢からか逃げようとし、背を向けた治安維持部隊らしき男が突然変異し、屍食鬼へと変貌を遂げたのだ。屍食鬼に傷を負わされてもいないのに。


「祖父の仕業だわ」ノエルは研究室での一件を思い出していた。

「ヘルシングの?」

「きっと吸血病のワクチンとして注射を打たれたのよ。人工屍食鬼を作り出すためのね。日時を指定したのは、この準備のためだったのかもしれない」


 市民を犠牲にしたというのか。つくづく救いようのない男だ。

 アッシュは静かに怒りを燃やす。昂る激情はやがて脳内を侵食しだし、瞳が熱く……ならなかった。髪の色もなぜか変色しない。


「どうしてだ、なんでカインの力が使えないんだよ……」


 騒然となる一向。

 そんな中、クロードは一人暗い夜空を見上げる。暗灰色の比較的薄い雲間をくまなく探すが、それでも月明かりがまったく漏れていないことに気付いた。


「そうか、今宵は朔日だ! 僕としたことが失念していたッ」


 彼の言葉に、皆が空を見上げ確認する。

 どこにも月の気配がない。


「ってことは、お兄ぃはいま、人間同然……」


 リゼの言葉に、ノエルが目を剥いた。


「どういうこと……?」

「朔、つまり月の出ない新月の夜は、僕ら吸血鬼の力が弱くなるんだよ。君もそれくらいは知ってるだろう?」


 ノエルは小さく顎を引く。それは前知識として昔祖父に教えられた。


「でもアッシュは混血だ。吸血鬼の血も半分の濃さしかない。それが朔になると――」

「完全に力が失われる?」


 不安な表情を浮かべるノエルに、クロードは神妙に頷いた。


「ヘルシングは、これを狙ってたのか」

「いくら覚醒したからといっても、吸血鬼の力が発揮できないんじゃカインの力は使えない」


 どうする? と視線で訴えかけてくるクロード。

 それでもアッシュは迷うことなく、


「決まってるだろ。それでも、大聖堂に行くさ! ベリアさんも待ってる」

「死ぬことになってもかい?」


 覚悟を問うような視線で少年は問うてくる。


「俺は死なない。ベリアさんを助けて、ヴァン・ヘルシングを殺すッ!」


 力強い言葉に、群青の髪の少年はふっと笑みをこぼした。


「分かったよ、行こうか!」


 言葉を最後まで待たずして駆け出したアッシュの背中に、皆がついて走った。


 行く手を阻む屍食鬼の群れ。

 何人の市民が犠牲となったのか、その数は夥しいものだ。ざっと見渡せる範囲を確認しても優に百は超えている。

 クロードとリゼは、アッシュとノエルを守るようにそれらを蹴散らした。しかし吸血鬼としての能力が落ちているため、特に純血種であるクロードの消耗が激しい。


「くッ、いったい何人の人間が屍食鬼になってるんだい」


 少年が愚痴るのも無理はない。注射によって変異した人間に襲われた人間もまた、屍食鬼になってしまっているのだ。放っておけば鼠算式に増えていくだろう。


「泣き言いってる場合じゃないでしょ!」次々に襲い来る化物の腹を抉り、四肢を両断し、頭を派手に蹴りつぶしてはリゼが発破をかける。「ここで食い止めないと、外へ漏れ出したら大変なことになるわ!」


 飛び散る屍食鬼の血と肉片を横目にし、クロードは仕方なさそうに肩を竦める。


「それは分かってるけどね、真祖の君とは作りが違うんだ、よッ」クロードもまた、頭を殴り潰しながら反論した。痺れるのか、右手を労わるように撫でさする。

「あんたも貴族なら矜持を見せなさい!」


 これは手厳しい、とクロードは小さく息をつく。年下の女の子に言われっ放しはさすがに悔しいのだろう。激励を受けた彼の瞳に闘志が灯ってくる。

 そうして石畳の路地をひたすら駆け、一向は中央広場へ抜けた。

 そこでも数えるのが馬鹿らしくなってくる程の、屍食鬼の群れが辺りを埋め尽くしている。その向こうには、燃える街の橙赤を白い壁肌に映し出す、ゴシック様式の荘厳な大聖堂が聳えていた。

 扉口の両脇には高い塔があり、大きな鐘楼が二つ遠望できる。

 ガランガランと響き渡る重厚なその音色は、早くここまで来いと誘っているようにも思えた。燃える街の光景と相まって、これ以上ないほど決戦の場を演出している。復讐の場としては申し分ない。


「聖、ヴァレリア大聖堂……」


 決戦の地を前にして、アッシュは身震いしていた。恐怖からじゃない。やっと、両親の仇を討てるのだと思うと、血が騒ぐのだ。

 昂揚感に反応したのか、無数の赤錆色の瞳が一斉にこちらを向いた。


「――アッシュ、これを」


 ノエルが急に肩を叩いてくる。目を向けると、ヴィンセントが使っていたクロスボウをこちらへ差し出していた。


「いや、ありがたいんだけど、これ聖霊銀だろ? 混血の眷属であるお前ならまだしも、半分吸血鬼の俺にはさすがに持てないぞ」

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。扉口にたどり着く前に死んだらどうするの!」


 怒り顔で無理やり押しつけられ、咄嗟に避けることも出来ずに弓部の聖霊銀の刃へわずかに触れてしまった。

「うわっ!」焦って思わず取り落とす。ボウガンはガシャッと重い音を立てて地に落ちた。

 けれど手には火傷すら負っていない。以前は確かに、聖霊銀の扉へ触れた時軽く焼けたのに。

 どういうことかと頭に疑問符を浮かべたのも束の間――


「くるわよ!」


 リゼの緊迫した声が上げられる。

 ずらりと居並ぶ屍食鬼たちが、示し合わせたかのように赤錆色の目を細めて動き始めた。

 アッシュはクロスボウを手に取り、とにかく今は目の前の危機をどう乗り越えるかと思考を切り替える。


「くっ――いくぞ!」


 やるしかないとボウガンを構え、走り抜けながら掃射する。高圧ガスにより連続して射出されたボルトは化物の体を貫通し、その背後にいた屍食鬼の体をも威力を減衰させることなく貫いた。

 改めて、聖霊銀というのは恐ろしい代物だと実感する。

 クロードの拳が眉間を割り、リゼの爪はいとも簡単に鋼の体を真っ二つに切り裂く。

 二人に負けじとノエルも応戦し、一撃必殺の精密射撃で確実に屍食鬼の数を減らしていく。屍食鬼においての場数は間違いなく一番踏んでいる、さすがは元執行者だ。

 一向は直線的に進み、まるでモーゼの海割りのように屍食鬼を掃いた。


「――お兄ぃ……先に行って」


 天国をモチーフにしたレリーフが豪奢な巨大な鉄扉の前まで来ると、唐突にリゼ。


「そうだね。僕らは外の連中をどうにかしなくちゃならない。中へは、二人で行ってくれ」


 息を切らせたクロードもそれに同意するようなことを言う。

 わらわらと湧いて出てくる化物の群れ。結構な数を狩ったというのに、減ったという印象をまるで受けない。街の至る所で発生している屍食鬼が、広場へと通じる路地をたどって集まってきているのだろう。


「でもクロード、お前は――」


 力が弱まっている。

 そう口にしようとしたところで、彼は首を振った。


「大丈夫さ。こう見えても、血統付きの爵位持ちだよ?」


 いつも通りの気楽さで、彼は白い歯を見せて笑う。

 笑顔でいるが、かなりの消耗をしているのは目に見えて分かっている。だが、その覚悟をアッシュは汲んだ。自分に覚悟を問うてきた彼。それを汲んでくれた想いにアッシュも応える。


「分かった。お前を信じる。絶対に生きて、一緒にこのくだらない戦いを終わらせようぜ」

「もちろんさ」

「ちょっと、わたしには何もないの? か弱い女の子なんだけど?」


 真祖も朔の日には力が落ちる。しかし、純血種よりは減衰しない。か弱いとは言えないだろうと思いながらも、


「リゼ、帰ったら一緒に写真撮ろうな!」

「はぁ? なにそれ、意味が分かんないんだけどッ」

「じゃあ、血飲ませてやる。だから屍食鬼を蹴散らしてこい!」


 言葉を変えると、やさぐれた顔から途端にぱあっと表情を明るくし、


「分かったわ! イルヴェキアの屍食鬼はぜんぶわたしに任せてよねっ!」


 愛らしくも鋭い牙を覗かせて活き活きと笑った。

 現金なやつだなとアッシュは苦笑する。けれど頼もしい一言だった。

「頼んだぞ」と最後に告げると、二人に背を向ける。

 そこへ、「――ママのこと、お願いね」リゼの声が両肩に圧し掛かるように降りかかった。

 どこかで一匹が咆哮を上げると、同調するように次々とそれに続く化物の群れ。街全体が屍食鬼の声に震えているようだった。

 後ろはもう、振り返らない。

「任せろ」そう返事すると、二人の気配は一瞬で散開して消える。

 血飛沫の噴き上がる音、肉と骨がつぶれる聞くに堪えがたい異音が、背後から続々と聞こえてきた。

 アッシュは二人を信じて気を引き締めなおし、大聖堂の入口を押し開けてノエルと共に中へ入った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る