5-4

 女王が連れ去られてから三日が過ぎた。

 この間、ヘルシングの手紙は一通も届いていない。嵐の前の静けさだろうか。

 まるで普段通りに何事もなく過ごした日常は、下手をすれば明日で全てが終わってしまうのではないかという不安を置き去りにしようとすらしていた。この平和こそがいま在る姿なのだと。

 しかしヴァン・ヘルシングは生きていて、べリアが攫われている。現実を思い出す度に脳内でパチパチと火花が弾けた。決戦の日はもう明日だというのに、待つ時間にもどかしさを覚える。

 燻っている火種を燃焼させるのは今じゃない。頭では理解していても、やはり抑えきれない激情が憤懣の黒煙となって思考を薄っすらと覆い隠すのだ。

 おかげでここ二日間のイレーヌの食事の味が分からない。ノエルが手伝ったという料理を食べてもそうだった。


 そんな味のしない昼食を食べた後。

 少しして「ちょっと話があるの……」と遠慮がちなノエルに呼び出されたため、時間を指定された一五時に庭へ出た。

 さほど広くない庭だ。見渡すが、どうやら彼女はまだ来ていないらしい。玄関先の階段に腰掛け、庭を眺めて待つことにする。

 太陽は燦々と地上を照らし、庭に植えられている花木は楽しそうに風にそよぐ。

 門へ続く石畳の通路脇には、ネモフィラの青い小花が絨毯のように広がっている。母がやわらかく目を細める姿を優しく見守っていた父を思い出す。

 ところどころ突き立てられたオベリスクには赤や青紫のつるバラが色を添えていた。

 そんな中。庭の一角には赤レンガで作られた丸い花壇があり、色とりどりの花が咲き誇っている。草丈の低いチューリップ、ビオラにペチュニア、デイジーにマーガレット。そして放射状に植えられたスイートアリッサムの中心には、母が大好きだったマドンナリリーもある。

 花壇の花は四季に合わせて植え替えられるが、マドンナリリーだけは変わらずそこにある。毎年夏ごろになると白い花を咲かせる百合を、アッシュも楽しみにしていた。純粋で健気な佇まいに、在りし日の母の面影が重なって懐かしさを覚えたから。

 残念ながらまだ時期じゃないため、この庭の百合は咲いていないが。あと一、二カ月もすれば、青紫のアリッサムの中に佇む、純粋で真白い無垢な花を咲かせるだろう。

 いまは手入れの全てをイレーヌがやってくれている。彼女もマリアのことを母のように慕い愛してくれていた。

 昔はよくここで一緒に遊んでいたなと、アッシュは懐かしい思い出に目を細める。

 その時、不意に玄関の扉が開いた。


「お待たせ」


 背後から聞こえた声はノエルのものだ。

 振り返ると、彼女は黒いコートを抱えていた。見紛う事のない、執行者の装束だ。


「ノエル?」

「あ、これ?」そう言ってコートを持ち上げる。「明日は私も戦うから。けじめをつけるためにね」


 固く決意したその眼差しは、敵対していた時に見た峻烈なものと似ていた。

 とても美しくもあり、悲壮でもあった。

 告げた言葉通り、執行者のコートは過去と決別するための覚悟の証なのだろう。

 それを目の前にしてアッシュは口を噤む。いまさら危険だなんてことは言えない。彼女の覚悟を愚弄し侮辱することになる。

 だから、共に戦う仲間としてアッシュは声をかける。


「絶対に勝とう。俺たちの、復讐だ」

「うん」


 ノエルは目を見てはっきりと頷いた。

 しばらく沈黙が流れる。チチチチと小鳥の鳴く声、風にそよぐ草花の音。世界のすべての音が大きく聞こえる。なぜだか気まずい空気が流れた。

 ややあって、その静けさを破ったのはノエルだった。


「――きれいな庭だね」

「ああ。母さんが、好きだった庭だよ」

「マリアさんって、どんな人だったの?」


 顔を覗き込んできて、彼女は興味深そうに尋ねてくる。


「……優しくて、日向みたいに暖かくて。愛されてたよ、みんなに」

「うん、なんとなく分かるよ。最期しか見てないけど、優しそうで、聖母って言葉がぴったりな人だなって思う」


 やわらかく微笑むノエル。アッシュはおもむろにポケットへ手を入れると、形見のロケットを取り出して彼女に差し出した。


「これは?」

「母さんの形見だよ」

「開けてもいい?」


 アッシュは黙って頷いた。

 たおやかな指がそっとメダイを開く。少女の視線が写真に注がれる。


「幸せそう……」そうポツリと呟いたノエルの眉は、切なげに垂れていた。「――ごめんなさい」瞳を揺らし、そして何故か彼女は謝った。

「どうして謝るんだ?」

「……いまさら謝っても許されないことだって分かってる。蒸し返すのもごめんなさいの上塗りでしかないけれど。私……あなたのお母さんを撃ったわ。取り返しのつかないことをしてしまった」


 ふと廃教会での出来事を思い出す。

 聖霊銀を撃たれたマリアが血を流し続けるその姿を。父の血を引いている自分の血なら傷も癒せるかもしれなかったが、母はそれを拒絶した。もう遅いと言って。

 例え助かったとしても、暴走は免れない。これ以上その手を血で染めて欲しくはないという思いと、母親のままで死にたいと願ったマリアの想いに応えて自分が殺した。

 ――そう、俺が殺したんだ。


「あれはノエルのせいじゃない」

「でも、」


 瞳を潤ませて振り向いたノエルの言葉を遮ってアッシュは続けた。


「どの道、俺は母さんを手にかけたんだと思う。聖霊銀を撃たれた、それは確かにどうしようもなくなった事実ではあるけど。結局暴走を止められないなら、母さんの意思を尊重したさ」


 言って、唇を噛んで俯き泣くのを堪えるノエルの肩に手を添えた。


「それに、もう謝ってくれただろ」


 大聖堂地下で、辛く苦しい状況にもかかわらず謝罪を告げたあの言葉だけで十分だ。そこまで罪悪を感じなくてもいいのだと諭すと、「……それだけじゃないわ」とノエルが声を震わせる。


「私の祖父のせいで、アッシュの幸せは壊されたんだよ? 祖父さえいなければ、あなたは両親と幸せに暮らしていたかもしれないのに……」

「そうかもしれないけど、それはノエルだって同じだろ? だからもう謝る必要なんてないよ」


 彼女だって両親を失っている。それも信じていた実の祖父に殺されたのだ。

 自分だけが悲しいわけじゃない。それに自分は最後、母を送ってあげられたのだ。

 アッシュは今にも泣きだしそうなノエルの髪を、わしゃわしゃと撫でた。


「わ、わっ、なに?」


 頭に手をやり、ビックリしたように丸く見開かれる紅い瞳。

 その拍子に、ひとしずくの涙がぽろりと零れ落ちた。ノエルの後悔や苦心、懊悩がそれで流れ落ちるなんて都合のいいことはないかもしれない。

 それでもアッシュは、その雫一つ落としたことで、彼女が前を向いてくれることを願うことしか出来ない。


「この話はもう終いだ。俺たちはいつまでも過去を嘆いてばかりもいられない、だろ?」

「……うん」

「前向こうぜ。あ、そうだ、今度似たようなメダイを買いに行こう」

「えっ?」

「俺たちは家族になったんだからさ。みんなで写真撮ろうぜ!」


 アッシュは憑き物が落ちたように屈託のない笑顔を見せる。

 あまりにも急な話に、しばし呆然としていたが。ややあって嬉しそうに顔を綻ばせると、ノエルは「うん」と素直に頷いた。


「約束だ」


 言いながら、アッシュは拳を突き出す。

 一瞬不思議そうな顔をしたが、ノエルもやわらかくグーを作ると、こつんと控えめに当ててきた――。

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