5-2

 目の霞むような陽光が地上を刺す、時刻は正午過ぎ。

 相変わらず濃い霧に覆われている死の森を疾走しながら、アッシュはイレーヌから渡されたサンドイッチを手早く腹に入れた。

 マヨネーズとマスタードを混ぜたソースに黒胡椒がピリッと辛味を利かせた、スライスしたきゅうりの歯ざわりがなかなか乙な特製のたまごサンドだ。

 けれど、今回はどうも野菜の切り方が雑に思えた。きゅうりが分厚く、その存在を主張しすぎていて卵を邪魔していたのだ。手をかける時間がなかったのだろうか。

 料理に関して妥協しないイレーヌにしては、ずいぶんとお粗末な感じがする。

 なんて思いながらも、微かに感じた血の香りがイレーヌの作ったものではないことを如実に表していて、ついつい笑みがこぼれた。

 事態が急を要するため、ゆっくりと味わえなかったことが至極残念だが。

 指に巻いた包帯はそういうことかと、頑張って作ってくれたノエルに感謝しつつ、アッシュは森を駆け抜けた。

 そうして、岩壁を削って作られた互い違いに刻まれる細い通路を通り、奥のクレバスをくぐり抜けて洞窟へ入る。

 耳鳴りしそうな静けさの中、暗澹と浮かぶノワール城。遠目にした黒塗りの城門はすでに開いていた。どうやら、リゼが先に城へ入ったらしい。

 平らに均された通路を歩き、黒いガーゴイルの彫像を横目にアッシュらも続いた。

 城のエントランスは広く、フロアは白と黒で統一されている。

 床はダミエ調に配したモノクロの大理石が覆いつくし、階段脇には黒い薔薇が飾られている。天井からは豪奢なシャンデリアが見下ろし、光の届かない城内を無数の蝋燭が照らしていた。

 ベリアがいるとしたら、自分の部屋だろう。

 そう推測し、大階段を上り始めた、ちょうどその時――


「ママぁー! どこなのーーッ!! 」


 リゼの声が城内に大きく響いた。その音はどこか涙を孕んだような切なげなもので、残響音は心苦しく胸を詰まらせる。

 危機感を覚えた二人は顔を見合わせ、声が聞こえた方に向かって駆け出した。


 たどり着いた場所は、やはりベリアの部屋だった。

 しかしそこには、異様な光景が広がっていた。目を疑いたくなるほど、室内は異様な変貌を遂げていたのだ。

 入った瞬間にまず香ったのは、薔薇に混じる二種の血の匂い。丸いテーブルは半分に割れ、ベリアのお気に入りだったティーセットは粉々に砕けている。

 壁に飾られた絵画も原型を留めず、床にはガラス片や折れた木材などが散乱していた。ゴブラン織りの絨毯にも飛び散る夥しい血痕が、凄惨な事件を臭わせる。

 湿った空気が冷ややかに入ってくる。見ると、バルコニーへの大窓が割れており、その向こうにあるはずの手すりが砕けてなくなっていた。


「これは、何がどうなってんだ……」


 愕然として呟くと、背後からくぐもったすすり泣く声が聞こえてきた。

 音に振り返る。血塗れのベッドに人影を確認した。

 近づいてみると、枕に顔を埋める薄桃色の頭が上下に揺れている。


「リゼ、ベリアさんは――」


 急に顔を上げた少女は、泣き腫らした目で見つめてきた。


「お兄ぃ、……ママが、ママがどこにもいないよぉ……」


 瞳は一瞬にして涙で溺れていく。大粒の涙をぼろぼろとこぼしながら、リゼは胸に泣きついてきた。悲しげな泣き声が耳朶を打つ。

 アッシュはその体をそっと抱きしめた。本当にリゼなのか? そんな疑問を抱いてしまうほど、震える体は小さく幼子みたいな在り方だった。


「リゼ、落ち着け。本当に全部探したのか?」

「探したよ……全部、わたし、探したもん……でも、ママ、……どこにもいない」


 この惨状を前にして、ベリアが無事だと思う方が無理がある。

 血の臭気が二種類漂ってはいるが、より強く感じられる血の匂いは、間違いなく女王のものだ。リゼが解らないはずはない。洞窟に入った瞬間に彼女はすでに気づいたはずだ。

 慰めの言葉はリゼを余計に辛くさせるだけだろう。アッシュはただ少女を抱きしめた。


「二人とも、ちょっと――」


 肝の冷えるような暗く、重く沈んだクロードの声だった。顔だけで振り向くと、彼は冷酷な目付きでバルコニーの一点を見つめている。

 一先ずリゼをベッドに座らせ、アッシュは一人バルコニーへ出た。

 洞窟独特の埃臭さが、湿った風に煽られて肌をなでる。


「なにか見つけたのか?」

「これを――」


 そう言ってクロードが指差す先をたどっていく。すると、バルコニーの柵の一部にべったりと血糊が付着し、その上に紙が貼り付けられていた。


 ――取引日時は四日後の二十一時。場所は聖ヴァレリア大聖堂。

                     PS ノエルは大事に扱え。

                          ヴァン・ヘルシング――


「クソッ!」


 張り紙を引っぺがし、ぐしゃぐしゃに丸めて乱暴にポケットへ突っ込んだ。さすがにこれはリゼには見せられない。ベリアが人質にされたことをこれ以上ないほど実感させてしまう。今はまだダメだ。

 でもどうしてベリアが狙われたのか。冷静になりきれない熱した頭でいくら考えようとしても、いま以て答えは出ない。

 だが、取引材料として人質にされているのだとしたら、ベリアの命はまだ保障されている。人質は生きているからこそ価値があるのだ。


「――ない!」


 脳内で思考が白熱しそうになっていた時、部屋から狼狽する声がした。

 タイミングが良すぎて、思わず人質論を否定されたのかと思ったが。そうではないらしい。

 なぜか酷く取り乱した様子で、クロードは室内を物色している。いつもは冷静な彼が、ゴミ山を漁るように慌てていたのだ。


「クロード、ないって何がだ!? 」

「ロンギヌスの穂先だよ! 確かにベリア様はベッド下に箱ごと入れていたのに……」


 シーツをめくり、ベッド下に頭を突っ込むクロード。それから部屋中を探し回ったが、結局その箱は出てこなかった。


「奪われたんだ――ッ」


 忌々しげに吐き捨てると、彼はゾッとするような冷たい眼差しで窓の外を睨み付けた。


「聖槍の欠片もあちらの手にあるとしたら、僕らはもう言いなりになるしかないじゃないか……」


 黙示録を人為的に引き起こそうと企てるヘルシング。それには聖杯とロンギヌスが必須になる。だがあちらの手に聖槍の穂先があるとしても、いまは自分の霊体の中にその四分の三が在るのだ。

 ということは、どの道ヘルシングには黙示録を顕現させることは出来ないのでは。そう楽観的に捉え、もう一つの重要な物の在り処を訊ねた。


「そういえば、聖杯ってのはどこにあるんだ? ロンギヌスが手に入っても、聖杯がなければ意味がないんだろ」

「聖杯は元から聖ヴァレリア大聖堂のチャペルに置かれているんだよ。取引場所にそこを指定したのは、たぶんそういう理由からさ」


 なるほど。ヘルシングにしてみれば一石二鳥なわけだ。

 しかし待てよと、先ほどもたげた疑問を口にする。


「でもヤツは、ロンギヌスがいま俺の中にあることを知らないんだぞ? なんとかなるんじゃないか?」

「それでもヘルシングは、霊子化させた槍の穂先を今度こそ聖霊銀に込めると思うよ。槍さえ復活させればいいんだからね。もう誰が死のうが関係ないのさ。どういうことか分かるかい?」


 まるで戒めるように強い調子で問われた言葉の意味は、深く考えずとも理解できる。

 つまり、ノエルを撃たれたら今度こそ間違いなく彼女は死ぬ。ということだ。

 ノエルを取引の材料にしていることからも、もう不死者となっていることをあちらも知っているのだろう。

 槍の復活を阻止するためにノエルの命を犠牲にする。そんなことはあってはならない。彼女なしでヘルシングを殺しても、自分だけの復讐にしかならないのだから……。覚悟をしてまで不死者となったノエルの想いを、踏みにじるようなことはしてはいけない。

 悲愴な決意を口にしたあの時のノエルの顔を思い出し、奥歯を固く噛みしめる。

 するとクロードは、「それに、ノエルに聖槍がないと知ったヘルシングは、何を仕出かすか分からないからね」と、まるで脅すように付け足した。

 鈍い鐘楼のように鼓膜を反響する言葉に、どうすべきかと思考に没し黙して目を伏せていると、不意に肩を叩かれる。


「……責めるような言い方をして悪かったね。けど、あんまり楽観出来ないところまで来てる。こだわりを捨ててどうでもよくなった人間は、本当に何をするか分からないからさ――」


 いままでのヘルシングの行いを知るからこそ、その狂気が分かる。

 人体実験を繰り返し、人間を母の餌にし、部下と肉親を銃で撃った。ノエルを犠牲にしてまで聖槍の復活を目論んでいるあの男は、すでに堕ちるところまで落ち狂っているのだと。

 日時を指定したということは、あちらは準備万端でその日を迎えるのだろう。

 だが、こちらはなんの糸口さえも見つけられないでいる。

 状況的に見て自分たちが不利なのは、火を見るよりも明らかだ。

 深刻に考え込むあまり眉間に皺が寄っていることに気づき、小さく吐息をついて瞼を閉じる。


「アッシュ、そろそろ帰ろうか。僕もいろいろ考えたいこともあるし」

「ああ……そうだな」

「あんまり気を落とさない方がいいよ。まだ三日は考える猶予があるんだ」


 別に先の言葉に気を落としているわけではなかったが。

「……じゃあまた会おう」そう言い残してバルコニーから飛び降り、城を去っていくクロードの背を見送った。

 さすがのクロードもいつも通りとはいかないようだ。終始危惧に表情を翳らせていた。

 そんなことよりも今はリゼが気がかりだ。さっきから枕を抱いたまま、放心したように微動だにしない。べリアの名残をそこに見つけたかのように、ただ床の一点を見つめている。

 痛ましいその姿にヘルシングへの憎悪を募らせ、ポケットの中に手を入れたアッシュは紙を強く握りつぶした――。

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