終章 復讐の終わり

5-1

 翌日のことだ。

 晩春の穏やかな陽気に温められた自室で、目を覚ましたアッシュにかけられた第一声はリゼのものだった。


「遅いわよ、寝ぼすけ」


 部屋の隅に置かれた机に眠気眼をやると、頬杖なんぞを付きながらこちらを眺めている。

 なんで自分の部屋にリゼだけがいるのか、そんな疑問が口をつくよりもまず先に。理不尽な物言いに対しそれはさすがに心外だと思い、だるい上体を起こし軽い頭痛のするこめかみに手をやりながら反論する。


「さんざん人の血を飲んだのはどこのどいつだ。おかげで寝覚めが最悪だぞ」

「たまにはいいじゃん、久しぶりなんだしさ」


 特に悪びれるわけでもなく軽い調子で「ねっ?」なんてウインクを飛ばしてくる。そういう問題じゃないのだけれど。

 夢の中でも二人から血を吸われてうなされていたことを思い出し、気づけば重いため息が漏れていた。

 ゆっくりと倦怠感に苛まれる体を起こし、シーツに目を落としてまた息をつく。 と、そこへいつぞやのように一通の黒い手紙が飛んできた。


「お兄ぃの部屋の窓に貼りついてたから、取っておいてあげたわよ」


 見返すと、リゼの指にも同じものが挟まれていた。

 手紙の外見を検める。艶めく黒い封蝋は蝙蝠の印。間違いない、女王のものだ。

 差出人が分かったところで、部屋の扉が静かに開いた。


「――起きたかい?」


 やあと手を上げながら、相変わらずノックもなしに入ってくるクロード。

 いつものこととはいえ、貴族なんだからもう少しくらい礼儀作法を守ってもらいたいものだと思う。

 不満を表情に浮かべながら見ていると、窓辺に立った彼の手にも黒い封筒が握られていることに気付く。


「あれ、クロードにも届いてるのか?」

「うん。僕ら三人宛てにね」


 封蝋で綴じられているところを見る限り、二人はまだ中身を読んでいないらしい。

 ベリアから通達が来るということは、なにか急を要することかもしれない。アッシュは先駆けて封を開けると、リゼとクロードもそれに続いた。

 Dearから始まる真っ白い紙面に目を通す。封蝋は確かに女王のものだったが、力強い筆跡は彼女のものではなかった。

 そこに書かれていた文言は、簡素ながら驚愕に値するものだ。

 目を瞠ると、三方で同時に声が上がった。

『人質ッ!? 』

 その内容はこうだ。


 ――ベリアは預かった。救いたければノエルを連れて来い。

                           ヴァン・ヘルシング――


 なんの冗談かと思った。

 ベリアは吸血鬼の頂点に君臨する女王だ。真祖だ。そんな彼女が、たとえ狂化した父を殺した相手とはいえ、ヘルシング如きに捕まるはずがない。

 それに第一、ヤツらはノワール城の場所を知らないはず。

 磁場が強く一年中深い霧に覆われていて、方向感覚も頼りにならない死の森を抜けることは、たとえヘルシングであっても容易ではない。

 洞窟への入口である岩壁のクレバスも巧みにカムフラージュされていて、知る者にしか分からないようになっている。

 不安と不信が胸を圧迫し息苦しさを覚える。

 なぜ、どうして、そんな言葉を繰り返す頭にふと過ぎった映像。そしてはっきりと思い出す。森の中で倒れていた、ヴィンセントのことを……。

 彼は明らかに自分たちを探していたような口ぶりだった。


「――みんな、どうかしたの?」


 聞こえた声に視線を転ずると、扉からこちらを窺うノエルの姿があった。木製のドア枠に添えた手の指には、なぜか包帯が巻かれている。


「いや、なんでもないよ、」


 そう呟き手紙をくしゃくしゃに丸め、ベッド脇のゴミ箱へとそれを捨てた。

 不思議そうな顔をして首を傾げるノエル。

 なんとか誤魔化すためにアッシュは別の話題を切り出す。


「それより、怪我でもしたのか?」


 三カ所も巻かれているため気になって尋ねてみると、ノエルははたと手を引っ込めた。


「え、いや、これは……その、なんでもないよ」

「なんでもないのに怪我してるのか?」


 えへへとはにかみ、「なんでもないってばっ」となぜか声を上擦らせ、後ろ手に組みながら遠慮がちに入ってくる。

 なんとも怪しい感じではあるが、それ以上の追求をしている時間はない。アッシュは平静を装ってそれとなく訊ねた。


「ノエル。ロジエ・ノワールって城、知ってるか?」

「ロジエ? ……ううん、聞いたことないけど、それがどうかしたの?」


 きょとんとする彼女の瞳の奥を覗く。真面目なノエルの嘘ならすぐに分かりそうなものだった。

 けれど、しばらく見つめていてもその視線は泳ぐこともぶれることもなかった。どうやら本当に知らないらしい。

 ということは、執行者間でも知っている人間と知らない人間がいるということだ。


「――アッシュ、心配いらないとは思うけど、一応確認しといた方がいいんじゃないかな?」

「そうだな、」


 いたって普段通りのお気楽なクロードに頷き返す。

 心配ないはず、アッシュ自身もそう思っている。

 だが、ヴィンセントだけでなく孫娘のノエルまでを撃つような男が、こんなイタズラをするだろうか。

 不安など感じていないはずなのに、そんな胸の裡を引っかかれるような一抹の感情に惑う。

 先ほどから静かなリゼに目をやると。少女は力なく両腕を垂れ、呆然と椅子に背もたれて壁のただ一点を見つめていた。

 彼女も信じてはいないだろう。だが差出人がヴァン・ヘルシングということに、わずかばかりの不安を掻き立てられているのだ。

 確かめるためにもこんなところで時間は潰せない。それが事実であれ、無事であれ。

 魂の抜け殻みたく茫然自失している少女に、「リゼ?」諭すように優しく声をかけた。

 すると、


「え、……あ、ああ、そうね」はっとして体裁を繕い、「行きましょ――」


 リゼは椅子を倒して立ち上がると、一人足早に部屋を出て行く。扉を抜ける瞬間に、力強くぐしゃっと手紙を握りつぶしたのをアッシュは見逃さなかった。


「お出かけですか、マスター」


 声と同時、黒いワゴンがリゼと入れ違いで部屋に入ってくる。イレーヌが気を利かせてくれたのだろう。その台の上には美味しそうなサンドイッチが載せられている。


「悪い、朝食を摂ってる時間はないんだ。すぐ出るから」


 言いながらベッドから降りて、アッシュは手早く身支度を整える。

 人目も気にせずパジャマを脱ぎ、クローゼットから黒装束を取り出してさっと着替えた。そして、母の形見のロケットを内ポケットに忍ばせる。

 寝癖もそのままに、


「イレーヌ、ノエルのこと頼んだよ」


 理由は伏せての頼みだったが、女給は「はい」とただ頷いた。理解が早くて助かる。

 するとイレーヌは、皿の横に置かれたナプキンを広げ、手際よくサンドイッチを包む。それをこちらへ手渡してきた。


「マスター、です。どうぞ」


 にこやかに朝食の部分を訂正し、「お気をつけて」と身を案じる言葉をかけてくれた。

 それに無言で頷き返し、


「クロード、行こう」

「ああ」


 怪訝そうに眉を顰めるノエルを尻目に、クロードとともに屋敷を後にする。

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