4-5
水中から浮かび上がるみたいにして、徐々に意識が持ち上がってくる。
やがて眼裏に光を感じ、次いで胸元にわずかな重み。そして首元に疼痛のような感覚がした。
生温かくやわらかな何かが首筋を這い、規則正しく断続的に空気がくすぐってくる。
「…………ん」
決して不快などではないが少々違和感を覚え、微かに声を漏らし何事かと思いそっと目を開く。
ぼやけた焦点が定まると、いつも通りの真っ白い天井がシャンデリアの明かりに灯されて白橙色に広がっていた。どうやら自室のようだ。
しかし今日は少しだけ様子が違っていた。視界の右隅で金糸のカーテンが揺れていたのだ。
「あ、お目覚めになられましたか、マスター」
気持ち弾むようなイレーヌの声が降ってくる。
頭は覚醒しているはずなのに体はなんとなく重い。視線だけをわずかにずらすと、微笑む女給の顔があっ――た?
そこで、気づいてしまった。金色のカーテンの正体に。
それが首元から離れると、さらさらとカーテンも揺れ動く。首筋では水が伝う感覚がした。
気だるそうに体を起こし、「あっ」と気づいたように声を上げたその少女は、ノエルだったのだ。下ろした金髪、黒いナイトドレスに身を包んだ見慣れない姿でそこに在った。
「えっと……」とバツが悪そうに視線を泳がせ、慌てたようにベッド脇に寄せてあった椅子に落ち着くと――なぜか気まずそうに俯いてもじもじとしだした。
「ノエル……? どうしたん、だ――」上体を起こそうとし、なぜか力が入らずそのままベッドにまた沈む。「あれ?」
「マスター、あんまり無理をなさらないでください。体に障るといけませんから」
言葉からは心配しているようにも聞こえるが、その表情からは不安など微塵も感じさせない。どころか、なぜかその口元にやわらかく微笑を湛えていた。
――そうか。たしかあの時不完全なロンギヌスを体に叩きつけて気を失って、そして精神世界でカインと会ったんだ。この疲れは慣れないことをしたせいか。
そう勝手に解釈し納得しかけたところで、イレーヌがくすくすと笑っていることに気づいた。
「なにがそんなにおかしいんだよ。ひどいじゃないか」
手を口元に宛がい上品に笑えば良いというものじゃない。人の不幸を笑うとは、なんて女給だ。心の中でそうぼやくと、
「調子が悪いのは、血が足りてないからですよ」
「は?」
いったい何を言っているのか、一瞬分からなかった。
しかし、居心地が悪そうに身をよじるノエルをふと見やると、その口元に舐め取れ切れていない血が付着していることに気づいたのだ。
「へ? まさか……」
自分の首筋に手を当てると、今しがた出来たばかりのような、頼りなげで小さな牙痕が二つ。
「あ、あの……ごめんなさい、アッシュ。その、勝手に血を――」
「いいじゃないか別に、僕が薦めたんだよ」
気の毒に思うほど萎縮するノエルの言葉を遮って聞こえた声、クロードのものだ。窓際の壁に寄りかかりこちらを見ていた少年に呆けた目を向ける。
「でもなんで――」
「寝過ぎで呆けたのかい? それとも、もう忘れたのかい? ノエルは君の眷属だ。不死者なんだから、お腹が減ったら主人の血を飲むのは当たり前じゃないか」
忘れるところだった。ノエルは自分の、――と、そこで思い出す。
一瞬にして記憶映像が巻き戻るように遡り、血を飲ませたところで止まった。
「待てよ、ノエルはいつ目覚めたんだ? そもそも血分けは成功したのか?」
「成功してなかったら、今ごろ彼女は塩の柱だよ。目覚めたのは、アッシュが気を失ってからだいたい一日経ってからだね」
伏し目がちにこちらを見てくるノエルの眼を確認する。不死者として転生を遂げたことにより、母と同じく瞳の色が青から真紅に変わっていた。
よかった。素直にそう思えた。母は助けられなかったけど、ノエルの命は救ってやれたんだ。
しみじみと感じ入っていると、また疑問がそろそろと鎌首をもたげてくる。
「俺は、また何日も……?」
クロードは窓へ歩いていき、そっとカーテンを開けた。暗い夜空では、二十六夜の月が鋭く切れ込みを入れている。
「あの夜は下弦だった。だから三日だね」
「……そうか」
カインの力は、思った以上に体に負担をかけているのかもしれない。マリアの時は八日も寝ていたらしいし。
しかし、血に頼らなければ自分は何も出来ない。混血の力では、恐らくヴァン・ヘルシングの足元にも及ばないだろう。それにノエルの話によると、ヤツは不死化している……。
思考に没頭していると、ごくりと、合間を縫うように唾を飲み込む緊張感のない音が聞こえた。
人が真面目に考えてる時になんだと思い目を移すと、
「あ……、ご、ごめんなさい! 私、あの……が、我慢するからっ」
なんだか急によそよそしくなった気がするノエル。おもちゃを買ってもらえない子供みたいに、指を突き合わせ拗ねるようにして俯いた。
「マスター、もう少しノエルちゃんに血を飲ませてあげてくれませんか?」
「そうだよアッシュ。不死化したばかりの頃が一番喉が渇くんだから。ノエルも、我慢はよくないよ」
自分が寝ている間に何があったのだろうか。イレーヌもクロードも、敵対者であったことをどこかへ置いてきたように普通に接している。
それどころか、アッシュの状態などさらさら気にも留めず、まるで子をあやすように優しくノエルを甘やかす。
しかしそれ以前に感じる倦怠感と疲労感、もう少しというイレーヌの言葉に疑問を抱き、クロードに背を押されて逡巡し立ち上がったノエルに危機を覚え、つい強い調子で訊ねた。
「ちょ、ちょっと待て! お前さっき俺が寝てる間にいったいどれだけ飲ませたんだよ?」
「そうだなー、ざっと二リットルくらいかな?」
「んなッ!?」
二リットル? アッシュは一瞬で青ざめた。
混血だからよかったものの、一般的な人間なら下手したら致死量だ。
「いや、僕もまさかこんなに飲んでくれるとは思わなかったからね。なんだか、赤子を持つ親の気持ちが少しだけ分かった気がしたよ」
「そいつは気のせいだ。つうかお前はなに一つ苦労してないだろ」
「ひどい奴だね、アッシュは。これでも苦労したんだよ? 最初なんて、指に針刺して出てきた微量の血液ですら拒絶してたんだから。でも仕方がないよね、元人間なんだからさ、戸惑う気持ちも分からないでもないよ。マリアさんも苦労したって聞いたことあるし。まるで生まれたての仔馬が立ち上がるのを見守るくらいハラハラしたもんさ」
飄々と語るクロードの言葉に、アッシュは慌てて指を見た。
唾液が乾いたのだろう。右手の人差し指が微かな血の匂いをさせるとともに、テッカテカになっている。
「それでも根気よく舐めさせてたらさ、ついにやったんだよ! アッシュの首に噛み付いた! いやー久しぶりに興奮したよ、あの瞬間はさ」
「一人でエキサイトしてんじゃねえよ! なに二リットルも飲ませてんだよ! 止めろよ、死ぬだろうが!」
声を荒げた途端に目眩が襲ってきた。本当に血が足りていないらしい。そんな自分をまるで笑うようにクロードはにんまり顔を浮かべる。
「あ、そうそう。アッシュ、覚えてるかい? マリアさん、よくジェラールさんの首にストロー刺して飲んでたよね」
「ばっかッ! 俺は父さんとは違う、混血だぞ? 純血種じゃないんだ、死んじまうだろ!」
その父ですら、母が満足し飲み終わった後はぐったりしていたというのに。それが自分に降りかかることを想像すると……、恐怖で顔が引きつった。
その時、バンッといきなり部屋の扉が乱暴に開いた。
ビックウと肩が跳ね上がる。
「うるさいわね、少しくらい静かにしなさいよ。仮眠もとれやしないじゃない」
薄桃色の髪の少女が、泣く子も黙る怒り顔をして入ってくる。
「……おはようアッシュ」
「はっ?! リゼ、ちょうどいいところに! 助けてくれ!」大海に木片とはこのことだ。流れるままに救いを求めたが、気づく。「――っておい、お前いったいなに持ってるんだよ?」
「えっ、ストローだけど」
リゼはしれっと答えた。
確かに、その手には二本のストローが。しかも用意のいいことに先が尖っている。あまりにも平然と口にされたために、ついつい納得してしまったが。
「いや、ストローだけど、じゃなくてな――」
「昔、お兄ぃにちょっとだけ血飲ませてもらったことあったよねー。あれ、すっごい美味しかったんだぁ」
少女は頬に手を当て恍惚とした表情を浮かべ、古臭い回想に酔いしれている。まるで蝶が蜜を吸うように、ストローに口をつけて吸うジェスチャーをしだした。
ちょっぴり妖艶だった。
不覚にも見惚れている間に、リゼはもったいぶるような足取りでこちらへ向かってくる。
「わっ、待て! なんでこんなことになってんだ、二人なんて聞いてないぞ!」
起き上がって動こうにも、体にまったく力が入らない。にもかかわらず、女給とクロードは結託するように示しあって両腕を拘束してきた。
「まあまあ、君も吸血鬼の端くれならこのくらいやってのけなきゃね」
「ノエルちゃんの為ですから。マスター、覚悟を決めてください」
「端くれってなんだよ、俺は立派な吸血鬼だよ! それに一人多いだろ! つうか放せっ――」
足をなんとか動かそうとするが、バタつきもしない。
ベッドに手を付くノエルが物欲しそうな目を向け、控えめにチラチラとこちらを窺いながらも、歩み寄ってきたリゼからストローを……受け取った。受け取ってしまった。
ごくりごくりと、渇きを訴える音が左右から徐々に近づいてくる。
「お、おいカイン! この場から抜け出す力だけでいい、いま貸してくれ、いま!」
なんとも情けない頼みだと思う。叫んで助けを求めるが、しかしまったく力が開放されない。なぜだか拒絶されている気がする。
――まったく使えない力だ、自身のピンチも切り抜けられないとは! 心の中で一人ごちる。
「あきらめなよ、お兄ぃ?」
気づけばその声は耳元で……。
悦楽に浸るようなリゼの恍惚顔と、恥ずかしそうに頬を染めたノエルの赤い顔が、両脇から迫ってきて――――プスリ。
「いってぇえええええええええ――」
問答無用で両の首筋にストローを突き刺された。
またまた遠のいていく意識。起きたばかりなのにまた寝るのか……。
「大丈夫だよアッシュ。危なくなったらちゃんと止めるからさ」
ぼんやりとしていく頭の片隅で、ちゅうちゅう吸う音とともに、そんな声を聞いた――。
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