4-4

 緩やかな川の流れに身を任すような、そんな夢心地を味わった。

 少しして流れが止み、漂着したのか体が何かに触れる。

 ゆっくりと目を開けると、そこは周囲を闇に囲まれた狭い空間だった。石畳が敷き詰められた床の中央には背の高い枯れ木が植えられ、その太い幹や枝からは若緑色をした植物が突き破って伸びている。

 ほかにこれといったものも見当たらず、殺風景でとても小さな箱庭のように思えた。


「ここは……」


 枯れ樹に近づき、アッシュは下から見上げる。

 すると、ちょうど真ん中辺りで何かが光ったのを確認した。飛び出る円柱状の細い金属らしき物の周囲には、わずかに縦の亀裂が見て取れる。どうやら向こう側からなんらかの物体が刺さっているらしい。

 反対側に回ってみる。

 視線の先にあったものに、どことなく見覚えがあった。


「槍の柄……? まさか、さっきのロンギヌスか?」

『ご明察――』


 誰もいないものと思っていたところに聞こえた低い声。

 アッシュは思わず肩をビクンと跳ねさせる。


「誰だッ?」周辺を見渡すが、誰の気配もない。

『探っても無駄だぜ』


 どこからともなく聞こえた声に警戒していると、突然樹の裏から少年が現れた。銀髪に赤眼。まるでカインの力を開放した時の自分のようだった。


「ってあれ? まさか、俺なのか?」


 よくよく見てみると、目鼻立ちなんかもそっくりだ。まるで鏡でも見ている気分だった。


『半分正解だな』少年は頷いて、こちらへ歩いてくる。『俺はお前だが、正確には違う』

「だったら何なんだよ?」

『カインの因子』


 アッシュは怪訝な眼差しを向けた。そして枯れ木を一瞥する。

 樹幹を突き破って生えている植物は、どう見ても寄生しているようにしか見えない。さらには体の感覚だ。肉体と言えなくもないが、五感で体感するさまざまなものが希薄で、あまりにも実感がない。

 アッシュ自身がそれと推測するのに、さほど時間はかからなかった。


「まさか、これが俺のヤドリギ? そしてここは、俺の精神世界なのか……」

『まあ、これだけがお前の全てじゃないけどな。世界がこれだけだったら、さすがに寂しすぎるだろ?』


 カインの因子と名乗ったわりに、同情するようなことを言う。

 聞かされた話では、暴走して吸血鬼を殺戮しまくったという噂だが。口ぶりからはそんなことを仕出かすような雰囲気は受けない。自分のコピーみたいな外見だからだろうか……。

 ふと思い立ったアッシュは、訊ねてみたかった素朴な疑問を投げかける。


「……聞きたいんだけどさ。どうしてお前は、あの時暴走しなかったんだ?」

『あの時?』


 カインは眉尻を上げ、アッシュの言葉を待った。


「母さんの時だ。……五歳の時は、純血種を殺したんだろ? クロードも言ってたけど、それ以前からたまに夢に見てたから知ってる」

『ああ、そのことか』頷きながら、カインはどっかりと樹の根元に腰を下ろす。『やつらはただ気に食わなかった、それだけの理由だ。他意はない』

「じゃあ、母さんは……?」


 銀髪の少年は力なく頭を振って、


『憐れみ。いや、違うな。償いかもしれない――』


 カインはつらつらと語った。

 弟を殺した罪により永遠の十字架を背負わされた。死のうにも死ねない体にされ、不死となって永劫罰を受けることになったこと。

 そんな自分を追放する時の、母イヴの悲しそうな泣き顔が今でも目に焼きついていると。


『忌避されてはいるが、俺だって元は人の子だ。スズメの涙ほどの人情くらいはある。マリアを前にした時のお前の悲壮な覚悟は、俺の胸を打つに値した、というだけの話だ。それでどうなるわけでもないし、俺の罪が永遠に消えることはないだろう。けど、それでも――』


 アッシュは目を伏せるカインの言いたいことを理解した。

 弟を殺した罪は決して消えはしない。それでも、悲しませた母へ、何かしらの罪滅ぼしがしたかったのだ。嫉妬心から生まれた憎悪。派生するように生まれた殺意。誰にも理解されず永い時を闇の中で生きてきたこの男にも、人並みの憐憫があったのだと。


「……感謝してるよ」


 アッシュはポツリと呟いた。

 顔を上げたカインの驚いた表情が返ってくる。かまわず続けた。


「お前のおかげで、母さんは苦しむことなく逝けたんだ。ありがとうな」


 キョトンとしていたカインが、『ハッ』とあしらうような息を吐き出す。


『俺に感謝だと? この血のせいでお前は疎まれ、蔑まれ、孤独を味わったんだぞ? 命を狙われたこともあったよな? それを、感謝だと?』

「それはお前も同じだろ? 俺の中で、お前も辛かったはずだ」


 自分と意識を共有しているのだから。

 始祖として命を狙われ続け、人類初の殺人という罪をいつまでも陰口され続けてきたカイン。混血である自分にその呪われた血が宿っている、そのことで同じように忌避されてきた。それを自分の中からずっと見続けてきたのだから。アッシュに自我が芽生え始める前からずっと……。

 他人を憐れみ、同情する心がわずかでも残っていたカインだからこそ、より切なかったと思う。

 だけど――。


「それに、」アッシュは一旦言葉を切り、「俺は、独りじゃなかったからさ」


 いつも自分を支えてくれたイレーヌがいた。親友でいてくれたクロードがいた。なんだかんだ言っても結局力を貸してくれ慕ってくれるリゼも、息子のように可愛がってくれたベリアだって。

 いつだって、自分は独りじゃなかったから。

 その想いを胸に抱き真っ直ぐにカインの眼を見据える。

 するとややあって、あろうことか少年は噴出した。


「なっ――」

『ははは、こいつは参ったぜ』


 哄笑しながら膝をぺチンペチンと叩くカイン。

 笑われるようなことはなにも言っていない。心外だと前のめり「なんで笑うんだよ!」と非難めいた言葉を口にすると、『悪い悪い』と特に悪びれた様子もなく、目尻の涙を拭いながら言った。


『いや、やっぱりお前は、マリアの息子だなって思っただけだ』


 愉快げに肩を揺らすカイン。なにか思い出でもあるのだろうか。暴走した時の記憶はないから、アッシュには知る由もないが。

 自分だけ知らないみたいで腹が立ってきた。


「お前はこれからどうするんだ?」少し投げやりに問いかける。

『どうもしないさ』カインはきっぱりと断り、『このつまんねえ世界から、これからもお前を見守っててやるよ』

「お前は俺の保護者かよ」

『俺のおかげで何度も命助かってるヤツが言うセリフじゃないな』


 正鵠を射すぎていて思わず喉を詰まらせた。まったくもって意地の悪いヤツだ。


『まあ、これからも必要になったらいつでも力を貸してやるからよ』


 にこやかに笑むカインは、禍々しさの欠片も感じられないあどけない少年そのものだった。


『最後に一つ――』付け足すように突然切り出し、『あのドラクロアってヤツには気をつけろ』

「は、何でだ?」

『――おっと、もうそろそろ起きる時間みたいだぜ』

「お、おい――――」


 質問の答えを聞いていない。詰め寄ろうと足を踏み出した瞬間、急に視界が歪みだし立っていられなくなった。そのまま崩れ落ちたアッシュの頭上から、声が降ってくる。


『俺はお前だからな。お前が見えていない部分がよく視える。あいつの眼は底のない闇だ。なに考えてるのか始祖の俺でも分かんねえからな。用心しろ』


 失いかけた意識の片隅で、アッシュはそれを聞いた――――。

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