4-3

「マスター……ようやく安定しました」


 ローゼンバート邸の廊下で待っていると、わずかに扉が開き、イレーヌが声を潜めてそう告げた。

 血分けをしてから三十分ほどして気を失ったノエル。

 ひとまず休ませるため、彼女を家へと連れ帰ったのだが。ベッドに寝かせてから程なくして、再び彼女は苦しみだした。

 それから三時間ほどが経ち、ようやく地獄のような痛苦から開放されたのだ。

 部屋の中へ入ると、リゼ、そしてベリアの姿があった。リゼは机に向かい、写真立てを眺めている。中には、昔彼女も一緒に撮った家族写真が飾られている。

 一方、ベリアはベッド脇の窓際に寄せた椅子に腰掛け、腕を組んで難しい顔をしていた。

 起こさぬよう、アッシュは足音を殺してベッドへ近づき、静かな寝息をたてるノエルの顔を覗き込んだ。穏やかな寝顔を無防備にさらしている。

 いつぞやの激情を露にしていた時がまるで嘘のようだ。


「よかった、無事で」


 安堵の息をつくと、すぐ側から呆れたようなため息がした。


「まったく。後先考えずに行動するところは、ほんとジェラールにそっくりね」


 腕を組んだまま椅子の背もたれに寄りかかると、べリアはまた一つ小さなため息をこぼしてジトっとした眼差しを向けてくる。


「……すみません」


 小生意気なところに加え、そんなところまで父と似ているのかという残念な気持ちと、ああするしかなかったとはいえ、断りなく眷属化させたことを申し訳なく思い頭を垂れて謝ると――仕方がなさそうに女王は肩をすくめた。


「本当よ。ジェラールの時はマリアを眷属にして、あなたはこのノエルって子を? ノワールの血なのかしら……。これじゃあ、リゼが報われないわね」

「ちょっ、ママ! なに言ってんの! べべ別にわたしは、こんなバカお兄ぃのことなんて――」

「あらあら、いまはお兄ぃって呼んでるの? まるで昔みたいね」


 くすくすと、娘をからかうように笑う女王。

 リゼは顔を赤くしながら「ん~!!」となにか言いたげに膨れている。

 微笑ましいひと時だった。張り詰めていた糸が緩み、遠い昔に置き去りにした平和や安らぎが戻ったような、そんな錯覚すら覚える。

 しかしそれは一瞬で――

 仇の顔が脳裏を掠めその名が耳鳴りのように響いたアッシュの鼓膜に、ちょうど重なるようにしてベリアの声が耳朶を叩いた。


「……アッシュ、少し残念なお知らせがあるんだけど」


 その重い口調に、室内は一瞬にして森閑とする。和やかな空気はピシッと凍りつき、ベリアの細められた青紫の瞳に怖気さえ感じた。

 心底震えるその圧力に、思わず息を飲む。


「あなたはさっき、この子が無事でよかったと言ったわね――」


 黙したままでアッシュは頷く。


「この子、聖槍の欠片を持ってるわ」

「槍を……? でも、」


 横目でノエルの体へ視線を移した女王につられ、アッシュも見やる。

 ノエルは汚れた服を着替えさせられ、いまは黒いガウンを纏っている。槍の欠片を持っていたのならまずもって分かることだし、それにイレーヌがコートを洗濯しに部屋を出た時にでも話してくれただろう。

 怪訝な顔をしていると、ベリアは小さく首を横に振った。


「物理的にじゃないわ」

「それって、どういうことですか?」


 素直に尋ねると、女王は一瞬突き刺すような瞳をして、静かに目を伏せた。


「なんて残酷なことをするのかしらね。この子の霊体に、欠片が埋め込まれてるわ。いえ、欠片なんてものじゃない。十三年前に消えたロンギヌスの半身、それに――」

「それに……?」

「もうほぼ完全体に近いと言っていいわ。たぶん、あとはあなたたちが持ち帰ったあの穂先。これだけで聖槍は復活する」


 驚愕な事実に騒然とする中、ベリアは皆を落ち着けて語りだした。

 霊子化された半身は、霊体との癒着が酷いことからかなり昔に埋め込まれたものだということ。恐らく、奪取した当時にすでに魔術的な処理が施されたのだろう。

 穂先側の柄の三分の一は、薄っすらと分割線が浮いていることから、直近に埋められたと推測されるらしい。


「まさか……撃たれた時に?」

「その可能性は高いわね。霊子化させた欠片を銃弾に込めたんだわ」

「でも、なんで霊体なんかに……」

「あなたのヤドリギと同じよ」


 霊体は肉体と違い精神などを司っている。アッシュの場合は、感情の昂ぶりによって因子が目覚めることが分かっていた。故に、カインの血の覚醒を抑え込むために霊体へヤドリギの封印を施されたのだ。

 そしてロンギヌスは神槍。現在いまは無き神に祝福された金属が使われている。一度折れた槍を修復する物理的手段はない。よって――


「この子の霊体を受容体として、ロンギヌスの再生を目論んだ。復元した際に霊体どころか肉体をも裂かれることを知った上で、命を犠牲にすることも厭わずにね。隠す目的もあったのかも」


 そして、自分たちがいくら探してもたどり着けない場所に隠すことによって、ヘルシングはアドバンテージを得ようとした。


「――つくづく、救えねえ野郎だなッ!」


 アッシュは怒気を吐き散らす。救う気なんてさらさらないが。

 さんざん命を玩んだ挙句、孫であるノエルまでその薄汚れた野望のための道具にしていたという事実。アッシュの中で憎悪と憤怒が振り切れそうなほど再燃する。

 なんとか自制し、少し頭を冷やす。今は怒りに流されている場合ではない。


「……ノエルからこの槍って、取り除けないんですか?」

「残念ながら、私には無理ね。霊体を殺すことと視ることは出来ても、干渉することは出来ないもの。ましてや沈んでいる場所が精神の大海ときたら、いくら真祖でも不可能だわ」


 どうすることも出来ないと首を振るべリアの言葉に、アッシュは落胆し肩を落とす。しかし、


「――でも、魔術によって霊子化されたのなら。シャノン卿ならあるいは……」顎に綺麗な手を添えて逡巡すると「……呼ぶわ」


 囁くようにそう告げて立ち上がり、ベリアは外開きの窓を開け放った。

 暗灰色に橙赤が差す不気味な夕の空へおもむろに手を伸ばすと、掌の先で黒い何かが紡がれていく。それは次第に蝙蝠の形を成し、羽ばたいて空へ飛んでいった。


「伝書蝙蝠ってやつよ、ちょっと古いけどね」ベリアは振り返りざまにウインクし、「これじゃないとあのチビちゃん来ないから」軽く笑いながらそう言ったのだ。


 ――それから三分もしないうちに幼女はやってきた。

 ばさばさと銀色の蝙蝠が数十匹もやってきて窓台に寄り集まると――マジックのように煙り中から白黒のゴシック服に身を包んだ姿を現したのだ。

 ウサギのぬいぐるみの耳を引っ掴み堂々と立つ小さな体は、とてもじゃないが六百歳を超えているようには見えない……。


「べリア、なんだ急に呼び出したりなんかしてっ。わたしも暇じゃないんだぞ。いったいこんなところに何の用――て、ぅうわぁあああああああッ!」


 シャノンはアッシュを見るなり、いまにも二階の窓から落っこちそうなほど大きく仰け反る。吸血鬼が二階から落ちたところで怪我などしないが。

 小首を傾げながら何故かと不思議に思っていると、


「かかかカインの血が、血が血がめざ、めめめ目覚めて――――」


 涙目でひしとカーテンに抱きつくシャノン。浅い胸との間に挟まれたクリマ君が苦しそうに白目を剥いた。

 カーテンで顔を半分隠してこちらを窺い震える様に、不謹慎ながら少し可愛らしいと思ってしまう。


「大丈夫だよ、シャノンちゃん。アッシュが暴走することはないからさ」

「……本当か? ってちゃん付けはやめろって言ってるだろ! そんなことより、なに用だ。わたしを呼ぶほどの大事なのか?」


 ぴょんと窓台から飛び降りると、とことこと小さな歩幅でやってくる。

 やはりまだ警戒しているのか、クリマ君を盾にしながら恐る恐るといった様子で近づいてきた。


「ノエル……、この子の体に埋め込まれた槍を、取り除いてほしいんです」

「この子?」


 アッシュの視線の先を目で追うシャノン。それが自分の目線よりも高い位置にあるベッドであることに、少し悔しそうに唇を曲げる。

「ごほん!」気を取り直すように咳払いし、シャノンはベッドをよじ登った。


「こいつは……不死者か? それにしても槍とは……ッ!? 」


 どうやら気づいたようだ。


「シャノン卿、お願いできますか?」


 アッシュは一縷の望みをかけた頼みを口にした。しかし、幼女はふるふると首をやわらかく振る。


「わたしには無理だな」


  即答だった。もう少しくらい悩んでも罰は当たらないと思う。


「そんな顔をしないでくれ。わたしだって、出来ることならお前の頼みを叶えてやりたい」大事そうにうさぎのぬいぐるみを抱きかかえ、「マリアの息子の願いならな」

「母さんの?」


 シャノンはこくりと頷いた。


「このクリマ君は、あいつがわたしのために作ってくれたものなんだ。ちなみに包丁はジェラールが作った」まるで自慢するように掲げて続けた。「マリアは誰にでも優しかったよ。でも、わたしは立場上仲良くすることが出来なかった」


 ぬいぐるみを強く抱きしめる寂しげなその瞳は後悔の影に揺れている。長老という責任ある立場にある元老院。そんな彼女には彼女なりの苦悩があったに違いない。


「だから恩返しも兼ねて力を貸したいのは山々なんだが……癒着が進みすぎていて、わたしの魔術程度じゃもうどうしようもない」


 その一言に、わずかな希望も音をたてて崩れていった。ノエルはこの爆弾を抱えて、これからも生きていかなければならないのか。

 ノエルを見下ろし愕然と立ち尽くすアッシュの目の前に、急に間抜け面をしたうさぎの顔が割って入った。


「そんな顔をするなと言っている。方法がないわけじゃないぞ」


 腹話術で話しかけてくるシャノン。その顔を見返すと、可愛らしい牙を見せてはにかんだ。


「お前のその血の力。それがあれば、もしかしたら――」

「どうすればいいんですか!? 」


 詰め寄らんばかりの勢いで問いただす。シャノンは「落ち着け」と宥めるように言って切り出した。

 人ではなくなったカインの力というのは元来、霊も肉も関係なく、この世から葬り去る禁断の力でもある。霊質と肉体を持つモノなら、いかなるものも消滅させられるのだ。

 アッシュは母を手にかけた瞬間を幽かに覚えている。体を貫いた手刀に纏わりついた、血と肉と骨以外の言いようのない感触。吸血種の焼ける色とは違った、白銀の炎を。


「お前なら、霊体に触れられるかもしれないな」


 シャノンはうさぎの手を取り、それをぽんと肩に当ててきた。「お前ならきっとやれる」そう言ってくれている気がした。

 ――シャノンが言うにはこうだ。

 まず霊体からロンギヌスを引き剥がす。しかし、ただ剥がしただけでは槍の容れものがない。

 行き場を失った聖槍がどうなるのか、皆目見当もつかない。が、ほぼ完成に近づいている状態の槍は、最悪自分たちに牙を剥くかもしれないのだと。

 吸血種に属するものへ特効を持つ聖槍。弾けた際に危険に晒されるため容れものは必須。

 そこでアッシュの霊体で成長を遂げたヤドリギを使う。引き剥がした聖槍を聖木の宿る精神世界の樹に刺し、自分が容れものとなる作戦だ。

 もちろん危険は伴う。もし少しでも霊体を傷付けてしまえば、ノエルも自分も精神崩壊を起こしかねない。そして例え成功したとしても、万が一ロンギヌスが完全体となった時は、吸血鬼である自分は否応なく消滅するということだ。

 まさに命がけのギャンブルだった。けれど迷っている時間はない。

 新しく繋げられた欠片が完全に半身とくっ付けば、槍はより強力になる。そうなれば取り出すことも困難になってしまうのだから。

 アッシュは眠っているノエルの胸元にそっと手を触れる。温かくてやわらかい、白く肌理細やかな生肌だ。

 瞳を閉じ、血を呼び起こすようなイメージで瞑想する。

 やがて、触れていた皮膚の感触が薄れていき、代わりに生温かい粘性の高い水みたいなものを感じ取った。それに静かに手を沈めていく。

「……ん」わずかにノエルが吐息を漏らす。

 アッシュは集中し、ノエルの霊体を探っていった。

 不意に、自身の脳内へ様々なイメージが雪崩れ込んでくる。

 それは、首筋に牙痕を穿たれた両親の遺体を前に泣き喚く少女の姿で。仲間とともに吸血鬼を追いかける執行者の姿で。祖父を前にし裏切られたことへの絶望に打ちひしがれる、一人の少女の姿だった。

 あっという間の走馬灯は、どれもこれもがノエルの記憶だった。

 両親との思い出なんて、何一つ覚えていない。物心ついた時から、ただ吸血鬼を求め、屍食鬼を狩り続ける日々。唯一心休まるのは、たった一人の祖父と、仲間との談話だけだった。

 そんな寂しくも悲しい、ノエルの記憶。

 憐憫の想いが、アッシュを焦燥に駆り立てる。

 ――槍は、槍はどこだッ!

 そんな時、見覚えのある映像が脳裏を掠めた。それは初めてノエルと出会った、あのキドニアの教会だ。

 屍食鬼を狩っていることをどう思うか尋ねてきた時の、淋しそうな顔。宿命だとし、嘆くことは許されないと告げた鋭い眼差し。はにかみながら去っていった後姿を今でも思い出す。

 けれど、あの時彼女は嬉しかったのだ。

 敵だったために、ただ下手な反応を見せてはダメだと考えていたアッシュだが。彼女にとっては、執行者であることを気持ち悪がらなかった自分が、とても新鮮に映った。もう一度会えたなら、もっと色々話がしたかったと。

 そんな内面を垣間見るたびに、うなじの辺りが少しむず痒くなってきた。

 そして、二人は決別する。

 彼女は混血だからとて容赦はしないと言っていたが、本当は葛藤していたことを知った。ヴィンセントの制止を振り切って、引金をひくことは出来たのだ。それでも、同じ人間の血が混じっていることに躊躇いもあった。

 けれど、きっとアッシュも自分を殺すつもりで戦うだろうことを考え、甘えた自分を戒めて再び殺すことを誓ったのだ。

 勇敢で、でも時には震えてしまったり。そんな弱さも、他人への思いやりも持った女の子。

 祖父が大好きだった、仲間も大切だった。

 けれど祖父に裏切られ、仲間を傷つけられた……。

 そこからの記憶は聖櫃教会本部地下で聞いた謝罪と、ヴィンセントが殺されたことも合わせてのヘルシングへの復讐心だけだった。

 記憶の奔流が過ぎていき、それが終わる頃……。

 手になにか熱いものが触れた。それは長い棒のようなものだった。


「――アッシュ、それがロンギヌスよ!」


 意識の向こう側でベリアの声がする。

 ――よし!

 アッシュは柄をしっかりと握り、引き剥がしにかかった。まるで粘着質なスライムみたいに纏わりついてくる霊質が邪魔をする。

 一度深呼吸し、力を開放した時を思い出す。だが今回はただ消せばいいというわけではない。なるべく傷つけないように……。

 手に力を込めると、体の内側から得体の知れない力が溢れてきた。それは手から槍を伝い、全体へ行き渡るイメージ。

 確かな負荷の減少を腕で感じた。引き抜かれることを阻んでいた霊質が、するすると解けるように消えていく感触。


「やったな!」


 今度はシャノンの喜ぶ声が聞こえた。

 だが、まだ安心は出来ない。

 今度はこいつをノエルの霊体から、自分の霊体に生えているらしい精神世界の樹とやらに刺さなくてはならない。

 聖槍を持ち上げるようにしてノエルの霊体から引き剥がし、生温かい感触から外気に切り替わったところで瞼を開けた。

 手の中には、光の粒子を固めたように鈍く輝く槍状の何かが、しっかりと握られている。

 長さは大体二メートル前後。手に入れた穂先を合わせて三メートルあるかないかくらいか。肉体ではなく精神の海のような霊体だからこそ埋め込めたのだろう。

 じっと観察していると、だんだんと輝きが失われていくのが見て取れた。


「なにをしてる! アッシュ、急げ!」


 シャノンが初めて名を呼んだ。だがその声は切羽詰ったように急かすものだった。

 ある種の感動を片隅へ追いやると、アッシュは途端に取り乱す。手を放すことは許されない。

 せっかくここまできて、暴発し全滅なんてことになったら元も子もない。


「ッ――くっそ、ままよ!」


 結局どうすればいいのか分からず、手にした槍を自らの体に刺すようなイメージで叩きつけた。すると体に吸い込まれるようにして、音もなく掻き消えたロンギヌス。



 いったい何が起こったのか。現場の誰しもが固唾を呑んで見守っていると――。

 突然、アッシュがつんのめりベッドへ倒れた。


「お兄ぃ!」


 ガタッと椅子を倒して立ち上がると、リゼはアッシュに駆け寄ろうとした。それをベリアが制止する。


「何が起こってるのか分からない以上、迂闊に近づくのは危険よ」

「でも、ママ――」

「大丈夫、」そう言ってにこりと笑顔を見せると、「アッシュはこんなことで死なないわ」


 ベリアは寄り添う娘の髪を優しく撫でる。

 ――そうよね?

 アッシュの霊体の異変に気づいた女王は、心の中でそっと問いかけた。

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