4-2

 森で気を失ってから、幾日が過ぎた。アッシュはあれからずっと眠っていたようだ。

 自室で目を覚ました時、目にいっぱいの涙を湛えたリゼが泣きついてきた。聞けば、八日も眠り続けていたらしい。

 あの後ナターシャから、ロンギヌスの欠片を渡されたことも聞いた。

 聖母像の台座の後ろに小さな切れ込みがあり、ブロックを引き出すとその奥に隠してあったのを偶然見つけそのままにしてあったそうだ。

 ノエルの発言を受け、敵に奪われるくらいならと決断し、それをクロードに預けた。今はノワール城で保管されている。

 あの時発現したカインの血は大人しくしているみたいで。いまは髪色も黒く戻っている。夢なんじゃないかとも思えるが、母を刺し貫いた時の手の感触がこれ以上ないほどの現実を痛感させる。

 森で起きたことを報告するため、アッシュは一人、ベリアの部屋を訪れていた。


「そう、あの子が……」


 マリアが生きていたこと、ヘルシングに利用されていたこと。そして最期は、自ら死を望んだこと。喪に服する気持ちで静かに粛々と打ち明けるアッシュ。

 ベリアはその痛ましい姿に、憐憫の眼差しを向ける。


「マリアはきっと、幸せだったと思う」


 アッシュが顔を上げると、女王は柔和な笑みを浮かべた。


「そうであってほしいと、思ってます。でなきゃ、浮かばれませんから」

「そうに決まってるわ」ベリアは力強く断言すると、「笑いながら逝ったんでしょ。きっと、いつかあなたに会える日を夢見ながら生きて、生き抜いてきて、その念願がようやく叶ったのよ。執行者に殺されるでもなく、息子の手で死ねたんだもの。本望だったと思うわ」


 おもむろにティーカップを手にし、……けれど彼女は口を付けることなく静かにソーサーへ戻した。

 憂いに目を伏せると胸の痛むような細く小さな息をつく。


「――アッシュ。泣きたかったら、泣いてもいいのよ?」


 瞳を涙で潤ませながら、気遣う言葉をかけてくれた。

 アッシュはやわらかく首を横に振り、微笑を口元に浮かべる。


「もう、泣きましたから」

「……強くなったわね」


 ベリアは零れかけた涙を人差し指で拭った。彼女が涙する姿を見るのは、両親の葬式以来だ。

 悲哀の漂うその姿に、胸に込み上げてくるものがあったが――アッシュはぐっと堪えて口にする。


「ベリアさん、これを」


 言いながらコートのポケットからあるものを取り出す。それをテーブルの上にそっと置いた。

 ジャラリと音をたてて広がる銀のチェーン。ベリアはそれを見て目を瞠る。


「これは――っ」

「母さんが持っていたロケットです」


 女王は震えながら手に取ると、メダイ型のロケットを開いて中を見た。

 色褪せた写真を懐かしむように目を細める。


「まだ、持っててくれたんだ」


 拭ったばかりの両目から、ぶわっと涙が溢れる。

 何を思ったか、ベリアはおもむろに胸の谷間へ手を入れた。

 目のやり場に困り、アッシュは慌てて視線をそらす。

 ――コト。机から小さな音がし、気になって横目で窺う。するとそこには、まったく同じ形のメダイが置かれていた。


「これって、ベリアさんの?」


 こくり、女王は小さく首肯する。そしてこちらへロケットをよこした。


「マリアとお揃いで買ったものよ」


 中を開いてみると、セピアに褪せた同じ写真が収められていた。幸せそうな楕円の切り抜き。

 ちょっとだけ気まずそうな父と、母に抱きつき顔を寄せお構いなしに笑顔で写るベリア、満面の笑顔を咲かせる母に抱かれた自分。本当に仲が良かったんだなと、ついつい頬が綻んだ。

 ふと、最後に母から耳打ちされた言葉を思い出す。


「そうだ。ベリアさん、母さんから言付かったことがあるんですけど」

「――な、なに?」


 ベリアは椅子を倒して立ち上がり、食いつくようにテーブルから前のめる。

 アッシュは照れくささから少しはにかみながら告げた。


「『……幸せな時間をありがとう、ベルちゃん、大好きだよ――』って」

「――――マ、リア……う、うぅ……うぁあああぁぁ……ッ――――マリアぁああああああ!」


 母のロケットを胸に抱き、ベリアは泣き崩れた。堰を切ったように大粒の涙をこぼし咽び泣く姿に、いつか見たあの時を思い出させた。

 いつも自分を心配してくれたベリア。アッシュの方が辛いからと、気丈に振舞おうとしていたけれど。本当は彼女も自分と同じくらい辛かったのだ。

 慟哭する声が室内に反響し、再び胸を詰まらせる。鼻にツンとした刺激を感じ、このままでは泣いてしまいそうだった。

 アッシュは椅子から立ち上がると女王に背を向ける。


「ありがとう、ベリアさん」


 背中越しに静かに告げて、ベリアの部屋をそっと出た。

 廊下に出、パタと扉を閉めると「――お兄ぃ」とリゼの元気のない声がした。

 目を向けると、廊下の壁に背を預けて少し離れた場所に立っていた。気ぜわしげな顔をして胸に手を当てている。


「待ってたのか?」

「うん。……あんなに泣いてるママ、初めてかも」


 部屋からはまだ泣く声が聞こえてくる。

 眉を垂れ、今にもつられて泣き出しそうな表情を浮かべるリゼへ、つい意地悪してみたくなった。


「リゼは葬儀に来てなかったからな」

「うっ、しょうがないでしょ、寝てたんだから」


 嫌味のつもりはまったくなかったが、リゼはツンとそっぽをむいて不貞腐れた。

 彼女も母を愛してくれた、数少ない一人であることをアッシュは感謝している。


「ところで、これからどうするの?」


 明後日の方を向いたままのリゼが、話をそらすように切り出した。


「決まってるだろ、ヘルシングを殺すんだ」

「どこにいるかも分かんないのに?」


 うっ、と今度はアッシュが言葉を詰まらせた。まったくもって痛いところをついてくる。

 確かにリゼの言うとおりだ。こちらには何も手がかりがない。

 ドラクロア卿のもとに何か情報は入っていないものかと思案し……やっぱり。他力本願な自分の情けなさに頭を振る。

 そんな時、廊下を慌しく駆けてくる足音が聞こえてきた。


「――アッシュ!」


 角を曲がって赤い絨毯の上を走ってきたのはクロードだ。

 軽く息を弾ませ、どこか時間に追われるような焦りを感じさせる表情を浮かべている。


「どうしたんだ、そんなに血相変えて?」

「説明してる時間が惜しい、とにかく一緒に来てくれ!」


 腕を引かれ、訳も解らない内に城外へ、そして洞窟の外へと連れ出される。

 むせ返る緑の香り。踏むたびに腐葉土の臭いが散漫し、いつも見ていた夢を呼び起こす。三人の少年を殺したこと。あれは夢なんかじゃなかったのだと……。

 どんよりとした灰色の雲の下。霧深い死の森を中ほどまで進んだところで、なにやら金臭い臭気が漂ってきた。


「この匂いは、血か?」

「君にも感じられるかい? カインの因子が覚醒したから感覚が鋭敏になってるんだろうね」


 なんだか、以前の自分は鈍感で間抜けだと馬鹿にされている気がした。

 しかしそんなことを言われても、自分はどうやってあの力を使ったのか覚えてすらいないのだ。覚醒といわれても、いまいち実感が沸かない。

 しばらくクロードの背を追い、森を縫うように漂う血の匂いを辿っていく。すると、見覚えのある人物が木の根元に倒れていた。


「あれは、確かヴィンセントとかいう――」


  黒いコートも執行者の腕章もないが、茶色の髪と身に覚えのある存在感を忘れはしない。

 だがいまはその存在感が酷く希薄で頼りないものに感じられた。見れば白いシャツは血と泥まみれで、ピクリとも動かない。

 出血量からかなり危険な状態にあると見える。


「おい、大丈夫か!」


 駆け寄って体を起こすが、反応がない。前ボタンが全て開かれたシャツがはらりと肌蹴け、鍛え上げられた肉体が露になる。その腹部には射創があり、上から焼いたような跡が見て取れた。焼灼して止血したのだろう。

 コートを引き裂いたものを巻いていたのか。かなり血を吸っているため重さでずれ、覗く黒いズボンの大腿部にも同じく銃創が確認できた。

 どこから来たのか分からないが、出血量は恐らく致死寸前だ。

 頚動脈に触れてみる。かなり微弱だが脈動が感じられた。

 だが今にも事切れそうな雰囲気を醸している。

 頬を何度か叩くと、わずかに瞼が動く。ゆっくりと開かれる眼は混濁し、男の死が近いことを如実に表していた。


「お前は、……アッシュか――?」

「そうだ」


 どうやら、もうすでにほとんど目が見えていないようだった。

 ヴィンセントはがくがくと手を震わせながら、自らの裸身の胸元をトントンと叩く。シャツの胸ポケットに何かが入っていると、そう汲み取ったアッシュはシャツのポケットを探った。何か冷たく硬いものに触れる。

 引き出すと、聖十字教のシンボルである十字が象られた鍵のようだった。


「これは……?」

「聖櫃教会本部、地下の……隠し扉の、鍵だ……」

「どうして俺に渡すんだ」

「俺は、もう助からん。だが、ノエルは……あいつだけは、助けて、くれ……」

「ノエルがどうかしたのかッ!? 」


 問いただすと、ヴィンセントは苦しげに咳き込む。その拍子に、血の飛沫が顔にかかった。


「ヘルシングに、撃たれた……、」

「ヘルシングに?」


 アッシュは片眉を上げて訝る。

 どうして祖父が孫を撃つ? その理由が皆目見当もつかない。

 ヴィンセントは浅く短い呼吸を繰り返し、


「処置はしたが、時間が、ない……これを」


 そう言って、最後の力を振り絞るようにして持ち上げたのは小型の携帯端末だ。


「隠し扉は、十字の場所だ……見つけてくれ――ッ」


 ボタンを押すと、ピッと音がして画面が立ち上がる。あらかじめ用意しておいたのだろう。イルヴェキアの地図が表示され、言葉通り十字マークが浮かび上がった。

 苦悶に顔を歪める男。先ほどよりも呼吸が浅くなっている。

 最期と悟ったアッシュは手を握り、「なにか言い残すことはないか?」遺言を聞き届けようと尋ねた。

 空気を求める魚のように口をパクパクとさせ、「――ノエル……生き、ろ」それだけを言い残して、ヴィンセントの手から握力が抜ける。仲間を案じながら息絶えたのだ。

 事の顛末は分からない。聞こうにも、無駄なことを喋る余裕は彼にはなかっただろう。

 それでも、この事件にヴァン・ヘルシングが関わっている事は十分理解できた。ヴィンセントを撃ったのもヤツだろう。

 アッシュは拳を固く握る。言い知れぬ激情とともに瞳が熱くなっていく。そして髪の色がサアッと銀色に染まっていった。


「……急ごう」


 一言呟いたアッシュの姿は、すでに霞のように消えていた。



 クロードとリゼは、アッシュに付いていくのがやっとだった。

 なるべく人目に付かない場所を通るといっても、まだ昼間だ。曇天なことがまだ救いだが。にもかかわらず、アッシュは姿を隠すことなくどんどん疾走した。

 ヴィンセントがあのような状態だったということは、ノエルも危機的状況にあると考えるべきだ。

 相手は執行者で、自分たちの敵で。けれど、敵対していたにもかかわらず、ヴィンセントは自分たちの元まで来てそれを知らせた。遺言を残して息絶えたのだ。

 相当の覚悟をもって死んだ男に報いてやるためにも、自分にはそれをノエルに伝える義務がある。

 ノルドヴァを離れ、山を越え、街道を走り、牧草地をひたすら駆けた。

 急く気持ちはアッシュの背を押し、足の運びをより速くさせる。

 このままではすぐにバレる。それを危惧したクロードは、イルヴェキアへ入ると屋根の上を行くことを提案したのだ。

 一向は、赤茶色の屋根瓦を踏み砕く勢いで駆け抜けた。建物間を飛び越え、ただ十字の目標を目指して――。

 そうしてたどり着いたのは、迷宮のように入り組んだ街の片隅。

 栄華に煌く街の中央の明るさに翳る袋小路。そこから少し外れた陰鬱とした裏路地の、今は使われていない地下水道の古いマンホールだった。

 時間が惜しい。アッシュは丸い鉄塊を殴ってぶち抜く。そのまま飛び降りると、端末の地図が勝手に地下を表示した。

 割れて落ちたマンホールが、地下空間にガランと重く硬質な音を響かせる。

 新たに書き換えられた十字の印。それを目指して入り組む地下水道をひた進む。

 やがて、銀色の金属製の扉が設けられた岩壁に突き当たった。しっかりと鍵穴を確認する。

 念のため扉に触れてみると、ジュッと指先が焼けた。用意周到なことに、聖霊銀を使用しているらしい。だが、扉に触れさえしなければどうということもない。

 罠だとかそんなことも厭わずに、アッシュは躊躇うことなく鍵を開けた。

 執行者を信じたわけじゃない。だが、ヴィンセントは信用に足る男だと感じられた。

 岩壁に設えられたレバーを倒すと、分厚い扉が独りでに奥へ向かって開く。

 一向は、ノエルのいる場所を目指して本部へと乗り込んだ――。



 その場所へは、意外なほどあっさりとたどり着くことが出来た。ほぼ道なりと言っていいだろう。

 蹴破られたように崩れた木の扉から中へ入ると、そこには仄暗い純白の空間が広がっていた。

 飾り気のないつまらない部屋。精神の脆い人間なら、長くいれば発狂しそうなほどに病的な白さで壁は埋め尽くされている。

 そんな部屋の中央。

 明滅を繰り返す電灯の下に、見知った姿が血の海に仰向けで転がっていた。

 美しい金髪、もはや見慣れたサンドレス姿に黒いコート、そして左腕の腕章。


「ノエルッ!」


 駆けつけ優しく抱き起す。

 ヴィンセントの言ったとおりだ。

 応急処置は施してあるが、それはあまりにも簡素なものだった。ただ黒い布を巻いただけ。止血なんてほぼ出来ていない。


「ノエル! しっかりしろ、ノエルッ!」


 あまり刺激しないよう揺り動かす。

 するとややあってから、わずかに瞼が開いた。


「アッシュ……?」


 浅い、浅い呼吸だった。瞼が重いのか、彼女の青い眼は半分ほどしか開いていない。

 出血量はヴィンセントと比べて軽いものだが、このまま放っておけば死は免れないだろう。


「……………………」


 アッシュは言葉を選びあぐねていた。

 明らかに無事ではないのに『大丈夫か?』なんて声はかけられない。『大丈夫だ』もまた然りだ。

 このような状況下での安易な優しさは、逆に辛く聞こえるかもしれない。母の時もそうだったのかと、自分のわがままな言動に後になって後悔したが故に。

 途方に暮れ、ただ俯いていると、「ごめんなさい」吐息のような声で、ノエルは謝ってきた。


「どうして、謝るんだよ」

「私、あなたに、ひどいことを言ったわ……お母さんのことだって……本当の仇は、祖父だったのに、」ノエルは涙を浮かべて、「ごめんなさい」とまた謝った。


 それはどういうことかを尋ねると、ノエルは息も絶え絶えに語ってくれた。

 ヘルシングの野望のために両親を殺され、それは吸血鬼の仕業であると教えられたこと。祖父の実験の副産物で、屍食鬼が作られたこと。アッシュの母親は不死の研究のために利用されたこと。そしてヘルシングの目的は、ロンギヌスと聖杯を用い黙示録をこの世界に顕現させることだと。


「――どこまで、腐ってやがるんだッ!」


 悔しさと怒りでどうにかなりそうだった。

 そんなくだらないことのために、たくさんの命を玩んでゴミのように捨てた。ヘルシングへの憎しみで血が沸き立つ。


「私は、……まだ、死ねない……死にたく、ない……ッ」


 今度ははっきりと耳朶を打つ、力強い響きだった。しかしすぐさま、「く、ぅ……」と苦悶の表情で歯を食いしばるノエル。

 仇が生きている。その憎悪と口惜しさは自分にもよく分かる。死んでも死に切れないだろう。

 しかしこの出血量だ。今から輸血を行っても、もう助からない。そもそも輸血パックがない。ヴィンセントからノエルのことを頼まれたのに、もうなす術がない、救えないッ。


「くそっ!」


 拳を床へ叩きつける。

 石で出来た床はいとも簡単に抉れ、その衝撃は壁を伝って大きな亀裂を入れた。

 ――本当にもうどうしようもないのか。考えろ。母も救えず、ノエルまで目の前で失うのか……。何か方法はないか、何か――――。

 その時、唯一残された手段がアッシュの脳裏を掠めた。


「………………あった……」

「アッシュ、なにを考えてるんだい?」


 背後からクロード。その声はどこか不安げだ。なんとなく気づいたのかもしれない。自分がやろうとしていることに。

 アッシュは背を向けたまま、端的に答える。


「――血分けだ」

「血分けッ!?  彼女を眷属にするつもりなのかい?」

「それしか、ノエルを救う方法がない」

「でも、混血が血分けに成功した例だってただの一度も存在しない。そもそもこんな瀕死の状態で、彼女が血の試練に耐えられるわけがない。下手したら塩の柱になるだけだ。それでも――」

「それでも!」アッシュは声を荒げ、「俺はやるよ。仇を殺せない悔しさと辛さは、俺にもよく分かるからな」


 言いながら視線を転じる。クロードの斜め後ろで、心配そうに眉根を寄せるリゼを見た。

「あっ」小さく声を漏らし、少女は腕を組んでぷいっと目をそらす。まるでこれから起こることを見ないようにするために。

 逡巡している暇はない。ノエルの顔を見下ろす。綺麗な顔は苦痛に歪んでいる。

 肩で浅く短い息をする彼女へ、アッシュは静かに口を開いた。


「ノエル、お前に問う。ヴァン・ヘルシングが憎いか?」

「……憎い、お父様とお母様の、仇……必ず、この手で……」


 涙しながらぎりっと歯を軋ませるその表情からは、死の淵にありながら、氷のように冷たくも凛然とした覚悟が垣間見えた。


「だったら、俺の眷属になれ」

「……眷属?」

「俺の母さんがそうだったように、お前も不死者になればいい。成功するかは分からない。下手したら死ぬかもしれない。でも、もうそれしか助かる道はない」


 淡々とそう告げると、ノエルは口を噤んだ。何かを考えているようだ。

 今まで敵として狩ろうとしていた対象と同じ種族になる。彼女なりに思うところもあるだろう。吸血鬼が人間にとって脅威であることには、依然として変わりないのだから。普通なら決断に時間を要する提案だ。

 生と転生の両天秤だって同じ重さではないかもしれない。戸惑い迷って然るべきと思う。

 この状況で口にすべきか迷ったが。背中を押されなければ覚悟を決められないのならと、アッシュは落ち着いた声音で告げる。


「……ヴィンセントは、お前に生きろと言っていた」

「ッ…………ヴィンセント、さんは……?」


 遠慮がちに訊ねる声に、言葉にせずただ首を横に振ると、ノエルの瞳から涙が流れ落ちた。

「ヴィンセントさん……」呟き悔しげに唇を噛み、体を震わせるその姿は悲愴感に満ちている。それ以上なにも言葉をかけられなかった。

 瞳を閉じすすり泣く声をしばらく耳にしながら、黙したままで答えを待っていると――ノエルが震えながら手を重ねてきた。


「……分かった、わ……あなたの、眷属になる」


 吐息に乗せた返答は、了承だった。

 見返した瞳には、確かに生きると誓う強い想いが宿っていた。


「よし。早速始めよう」


 アッシュはノエルを優しく横たえる。そして自分の左の袖を捲くり、腕を露出した。手首に口を近づけて、深呼吸し、一気に動脈を噛み切る。じわりと口中に広がる鉄の味、鼻腔を刺激する金臭さ。因子が発現しているせいか、自分の血液ですら極上のジュースに思えた。

 ある程度溜まったところで口を離す。手首に開いた牙痕が、見る間に塞がっていく。

 そして、ノエルの首を支えて抱き起こし顔を近づけた。目の前に、満身創痍で苦しげな彼女の顔が。けれど、女神もかくやといった美しい容貌をしている。

 そんなノエルにそっと唇を重ねて、血液を静かに口移しする。

 初めて口にするであろう血液に、彼女は目を見開き戸惑うような反応をみせた。しかしアッシュはかまわず全て流し込む。

 喉をならして血を飲み干したかと思ったら、ノエルから反応がピタリと消えた。

 そっと床に横たえると――しばらくして、電流でも流されたかと思うほど、その体がビクンと激しく跳ねる。


「ぅぐぅうう…………」


 突然呻きだし、彼女は体を抱きかかえ身悶えながら床を転げた。体を内側から焼かれるような灼熱の痛みに耐えているのだ。

 血分けは主人となる吸血鬼の血液に適応出来なければ、クロードが言ったように塩の柱となって死んでしまう。血の試練はいつまで続くかは分からない。

 静かな空間に木霊する悲鳴と絶叫。

 ノエルの、苦痛に耐えるだけの長い時間が始まった――――。

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